第3節「ローマ属州ブリタンニア」
プリシラには当時、ブラッドフォ―ドという姓はなかった。ただのプリシラであった。父と母が誰であったか、彼女は知らない。ロンディニウム付近でローマ文化を維持していたケルト系民族ブリトン人住民の集落が、彼女の故郷であったと思われる。
しかしその集落は、ブリタンニアに侵入してきたアングロ人の襲撃を受けた。幼い子供であったプリシラはそのときさらわれた。数年間、アングロ人の下で奴隷生活を送ったあと、別のブリトン人部族に奪還され、その若き族長であった女性――ウィクトリアを庇護者とし、後に彼女の弟――ウィクトリウスと結婚して子をもうけた。
「そのとき、妾は一七歳だった。確かに結婚したのは弟の方だったが、ウィクトリアとの方が仲がよかったような気がするよ」
プリシラは懐かしそうに微笑んだ。
「いや、ウィクトリアと私だけではない。皆が家族のようなものだった。あの集落には、sanguis vadum――つまり『血の浅瀬』という名が付いていた。アングロ人との抗争で流血が絶えない地でな。しかしそれが周囲の部族を恐れさせ、多少は抑止力になっていたかもしれない」
「……そのときから生きているのか……子供はどうなったんだ?」
「生まれてから五〇年後に死んだ。当時としては長生きの方だし、特に悲しみはない」
プリシラは淡々と答えた。
「だが、まさか妾が子供を看取るとは思っていなかったな。奴隷生活のために私の身体がいろいろと弱っていてな。子供を産んだらもう長生きできないと思っていた。しかしウィクトリアの家門の血筋を残してやるのが私が彼女にできる恩返しだと思っていたんだ」
集落「sanguis vadum」は、アングロ人から目の敵にされ、プリシラが子を産んだ三年後に大規模な襲撃を受けた。
「ウィクトリア、ウィクトリウス……みんな死んだよ……。あの地はもはや英国の地図から消えてしまった。あの地の名前を英訳した私の家門の姓――『ブラッドフォード』が唯一のよすがだ」
「貴官は生き残ったのか」
「いや――死ぬはずだった。私の娘――これは小ウィクトリアと名付けていたが――彼女を抱えて納屋の奥で震えていた。しかし私の腹には二番目の子供がいてな。これもウィクトリアあるいはウィクトリウスではつまらんから、大ウィクトリアがじきじきに名前を考えてつけてくれることになっていたんだ。しかし名付けを行う彼女ももう死んだ。私はウィクトリアから託された剣を持ち、女だと侮っている敵の隙を突いて決死の覚悟で敵を討ち果たす覚悟で待ち構えていた」
「どうなった」
「襲ってきたのはアングロ人とはまた違った風貌を持つ輩でな――しかも女だった。アレマン族の者ではあるが人間ではないと名乗った。では神か、と問うと、神から頼まれたのは確かだ、と答え、小さく笑った。そのときの微笑みは、当時では全く見られないような玄妙な余裕を称えた笑みとも言うべき表情で、同じような表情を私が次に見たのは英国女王ヴィクトリアの治世のころまで待たねばならなかった。近代的な人間のように生活や人生に余裕を持っていたわけで――やつだけは確かにその当時にあって人間よりも卓越した視座を持っていたと言える」
「それが、アーデルハイド・ヴェンツェルだったのか」
「――急かすな。妾らの人生は長い。――だが、そうだ。そのときはアダルハイディスという発音だったが、些細な違いだ」
「なぜ殺されなかった?」
「――私は言った。『この部族の血は途絶えさせはしない。お前たちを全員ブリタンニアから追い出し、この地は必ず我らブリトン人が守り続ける』と。
やつは言った、『お前のように剣を持って立つ人間が多くいるといいと思っていた。それにお前の血は良い匂いがする――。私とともに人間を駆り立てる存在になれ。ブリトン人もアングロ人も相争わせ、この地の人間を強くすることで守っていけ』と」
そして、sanguis vadum集落のプリシラは「やわらかく」噛まれた。
「そして妾は今でも生きている。あれからの年月は全て、妾には昨日のことのように思い出せる。多くの王、貴族、農民の女と愛し合い、男とも愛し合い、子をたくさんもうけた。ブリタンニア――いや、今やブリトン人だけではなく、アングロ人もサクソン人も含めた英国の全ての民が、もはや妾の家族であり、子供のように感じている。故にこの命があるかぎり――あるいは英国から拒否されないかぎり、妾は英国の繁栄のために戦い続ける」
「アーデルハイドは何を望んでいる」
「知らぬ。アングロ人、あるいはアレマン人のために戦っているのではないことは確かだ。相争わせることを寧ろ称揚していたようにも見える。あるいは人間をともにあらそわせること自体が目的なのかも知れぬ。とすればまさに神々のごとき所業だな」
薫子は甲板からナイル川の水面を見やる。
蕩々と流れる水が、プリリラの過ごしてきた時間のように見えた。彼女はその水の一杯一杯の盛衰に気を止めることはないだろうが、確かにこの流れ自体を愛しているのだと感じた。
そして、それをも超越している視点を持つのがアーデルハイドなのかもしれない。ヤッファで剣を交えたときにはユダヤ人を憎む親衛隊将校としか見えなかったが、それもただの演技なのだろう。
「中佐殿!」
下から駆け上がってきたヴィクトリア・ローズモンドが血相を変えた表情をしている。
「どうしたヴィクトリア。焦るな」
「モスクワが陥落しました! スターリン自殺! ソ連政府は崩壊し、主だった政権幹部はドイツに拘束されました。ドイツ軍はソ連全土に侵攻しつつあります!」
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