第2節「ナイルにて」
「あの男、申し訳ないことをしたな」
ナイル川。全長二〇メートルほどの小さな貨客船の船上に薫子はプリシラとともにいた。
八月の太陽は容赦なく大地に照りつけるが、川の水面に反射する陽光はきらきらと美しくすらある。砂漠の中でこのような大河があったなら、人はその川を神聖視しても道理だ、と薫子は思った。
プリシラと薫子は、それぞれ、ヴィクトリア、玲次を甲板の下の船室に残し、甲板にたたずみ水面を見ている。
「講和を受け入れてくれたこと、感謝する」
薫子はやがて言った。
「ふん……お主のためではない。寧ろ、お主を妾の都合の良いように動かして、妾の都合の良い未来を得たのだ。妾というよりも、英国のな」
プリシラの声音は強がりのようにも思えなかった。
「大英帝国は今後緩やかな国家連合のようになるだろう。しかし、各植民地は外交や防衛の自主権を得たとしても未熟だ。我々に頼ってくるだろう。そのつながりは戦後しばらくは続く。その時期に戦後秩序を形成すれば、我が英国はしばらくは世界の盟主でいられるだろう。日本はこうして講和した手前、それに協力する必要に迫られる」
「――そうだとしても、平和なのはいいことだ……そうでないよりはな。私も、これ以上戦わなくて済む……」
「お主がむやみに亡者を作らなかったのは妾は認めている。そうでなければお主――そして日本国もそこまで信頼できなかっただろう。ウィンストンのやつに講和を口添えすることもなかったはずだ」
「……しかしヤッファでは使ってしまった」
「あれはあいつが悪い」
「あいつ……?」
「――アーデルハイドだ。知っているんだろう。奴も妾と同じ者だ」
「彼女のことを知ってるのか? やつはなぜ吸血鬼なんだ? 貴官が噛んだのか?」
プリシラはじっと薫子を見た。
「話してもいいが、対価は払えるのか?」
「対価……?」
「我々は情報将校だ。情報には対価が伴う」
「――いいだろう。何だ」
「お主の人生の一〇〇年ほどをくれ」
「……馬鹿な。そんなに長く……」
「お主は既に一〇〇〇年を超える寿命を得た。その中の一〇〇年だ」
薫子は青ざめた。
(そうか……そういうモノに私はなったのだな……)
「いや――了解した。では了承しよう。それで、奴は何者だ?」
「奴は妾を『やわらかく噛んだ』存在だ。つまり、妾が奴を吸血鬼にしたのではない、奴が妾を吸血鬼にしたのだ。あれは――四世紀頃のことだった」
プリシラは語り出した。
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