第9節「悪夢」

 七月五日午後。神崎薫子はシュトルヒを用いてヤッファ戦線に降り立っていた。午前中は第二五軍イスマイリア攻略部隊に同行しカイロ侵攻までは見届けた。しかし、彼女はリフケ・ベルンシュタイン中尉と取り交わした約束が気になっていた。日本軍占領後のパレスチナでドイツ軍にユダヤ人を引き渡さないことを保証する、という決定が実行されるかどうか、監督する必要を感じていた。

 玲次はカイロに残してきた。カイロの状況を確認しておいてもらう必要があったからだ。

「少佐殿!」

 着陸したシュトルヒに駆け寄ってきた人物に薫子は驚く。

「礼子ではないか! どうした。第25軍だったのか」

 タラップを降りながら言う。

 神崎礼子。神崎家第七女で、長女の薫子から見ると六番目の妹になる。中背、すらりとした体躯。カーキ色の日本軍士官の制服をきりりと着こなしていた。

「は。満州駐箚師団に後を任せ、山下閣下に従いここまでやってきました」

「そうか、手紙ではスマトラにいるとのことだったが」

「我々をここまで持ってきたのは姉上の作戦でしょう。ともかく、中隊長閣下の命でお迎えに行けとのことで」

「そうか。気を遣わせてしまったかな」

 礼子の属する高射砲中隊はヤッファを攻囲する日本軍陣地の飛行場警備部隊も兼ねていた。そこに姉の薫子が降りて来るというので、中隊長は身内に迎えに行かせたのだろう。

「どうだ、戦況は」

 司令部に向けて歩きながら尋ねる。

「そうですね、おそらく本日中には勝利するでしょう。我が海軍が地中海に進出したことにより敵の補給路が遮断された。それにカイロ陥落も時間の問題。とすれば、敵の士気も早晩、崩れるでしょう。敵の戦力に鑑みればあと数日は持ちそうですが、精神面でもはや持たない」

「そうか」

(とするとリフケとは今日明日には会えそうだな。うまくユダヤ人部隊を抑えてくれるといいが。ロンメル上級大将は話の分かる人物に見えた。我が軍占領下の住民を敢えて引き渡すような要求はすまい。もし本国経由でそのような要求をしてきたとしても、イラク、イランの石油を融通すると言えば黙るだろう。いや――テヘラン戦線までの通行を保証してやればいいか。それこそドイツが喉から手が出るほど欲しいことのはずだ)

 そう算段しておく。

 テヘラン戦線――とは、イラン義勇軍とソ連軍が対峙する戦線である。イラン首都テヘランよりも北方は未だソ連軍の占領下にあり、日本軍は日ソ中立条約を締結している関係上手出しできない。イラン義勇軍は日本軍からの豊富な物資の補給により、予想よりも優勢な戦いを行っているが、未だ目標とするイラン全土の解放には至っていないのが現状だ。日本軍とは別に、元日本軍将兵の一部は「フライング・タイガー義勇航空隊」を名乗りソ連と戦うイラン義勇軍を航空支援しているが、それでもイラン北方のソ連軍を崩すには至っていない。

(ドイツ政府がいくら反ユダヤのイデオロギーに毒されていたとしても、カフカスのソ連軍をロンメル軍と挟撃する戦略的価値よりも上位に置くことはすまい。いや、それでも上位に置くのならばすでに同盟を結ぶ価値もない国と判断するしかない)

「少佐殿? 姉上? 前線を視察されますか?」

「ああ――。前線――というよりもユダヤ居留地、テルアビブの状況が知りたい」

「確か、ユダヤ人武装組織が守っている地区のはずです。精強な兵が多く攻めあぐねていると」

「――そうか」

(リフケ。死んでいなければいいが)

 そのとき。

「少尉殿!」

 礼子に声をかけ、駆け寄ってきた兵がいた。

「何事か。まず階級・姓名を名乗れ。少佐殿の前だぞ」

「は! 第一小隊、那茅舞上等兵。中隊長殿の命令を伝えます。ユダヤ人居留地テルアビブに異変あり! 内乱に陥っている模様! 我が軍司令部は内乱に乗じ突入準備に入ったとのこと。第一高射砲中隊全部隊は部隊突入に備え対空警戒を厳とせよ! 以上!」

 その報告に薫子は愕然とした。

(内乱……馬鹿な……!)

「礼子。突撃する我が軍に同行したい! 私を司令部に連れて行ってくれ」



 日本軍の構成により、戦線はヤッファ市内に移動していた。内乱が発生したとされるユダヤ人居住区テルアビブにも日本軍は進出したが、その一角には未だに頑強に抵抗し続ける部隊がおり、その街区を日本軍は包囲し続けていた。

(これは……ひどい……)

 居住区の大半は破壊され、老若男女問わず戦渦の犠牲になっていた。日本軍の衛生兵がけが人を収容しているが、既に治療の見込みのない重傷者は放置されている。

 その一人に目をとめ、薫子は息をのんだ。

「リフケ・ベルンシュタイン! 君か」

 顔が血の気がなく、一目見て重傷者だと分かる。

「カオルコ……約束は守ってね……」

 息も絶え絶えに、リフケはそれだけを話す。

「誰にやられた」

「イギリス軍のアラブ武装勢力……。警戒はしていたのだけれどね……この局面では奇襲してくるとは……」

 それから薫子をじっと見上げた。

「あなた『吸血鬼』なんでしょ? 英国のプリシラ卿から力を受けた……」

「なぜ……それを?」

「我々だってそれぐらいのことはスパイしている……吸血鬼――彼等はその力を持っている……気をつけて……そして、できれば私たちの……仇を……」

 リフケは目を閉じた。

 そこに駆け寄ってくる人影がある。礼子だ。

「姉上! ここはまだ危険です! 市内の一角に陣取った残存部隊の抵抗が意外に激しく……。一部の地区では未だ住民を襲っているようです」

「どっちだ」

「居住区の南方……そこはまだ我が軍が進出しておらず……姉上?」

「後は任せた」

 薫子は駆け出していた。



 途中で放棄されていたジープを駆り、薫子が未だ日本軍が到達していない街区に到達したとき、そこは英軍同士の内乱状態にあった。英軍のユダヤ人武装勢力が抵抗する中、アラブ人部隊と思われる一部の英軍部隊が攻撃を仕掛けている。

(だが……何かがおかしい)

 アラブ人部隊の戦闘の一部の兵士は、小銃弾を撃たれても倒れないように見えるのだ。そのせいでユダヤ人側は徐々に押されている。

 薫子はジープをユダヤ人部隊の陣地へ向かわせた。

「撃つな! 日本軍だ」

 小銃がこちらにも向けられたのを感じ、ジープから飛び降りて両手を挙げる。

「既に我が軍がヤッファを制圧しつつある。武器を置き我が軍の軍門に降れ」

「――だが奴らを止めなければこっちは全滅だ! 止めてくれるなら日本軍でもいいが」

「武装は同じはずだ。なぜ強い」

「わからない……小銃が効かないように見える」

(なるほど……確かに吸血鬼かもしれん……。『やわらかく噛んだ』ということだろうか。だが、誰だ……?)

 薫子の知る限り、吸血鬼はプリシラのほか、薫子、桜子の三人しかいないはずだ。

(しかし、プリシラが他に作っている可能性はあるな……マルタで聞いておけば良かった)

 だが、今後悔しても遅い。

(日本軍の進出を待っていてはこの部隊も住民もやられるだろう)

 腰の軍刀の鞘に手を置く。

 その軍刀は、アーバーダーンで千登勢玲次が吸血鬼の力を作戦に活かす、という命令を受けたとき、開発したものだった。

 名を、滲血刀(ルビ:ざんけつとう)――。

 Pウィルスは、唾液から血液への感染が唯一の経路で、それ以外の経路では感染しない。しかし、感染後、血液で爆発的に増えることに特徴がある。そこで、「斬った相手の血液を刀身に染みこませ、噛まずとも感染させる武器」として開発したのがこの滲血刀であった。

 その効力を発揮させるには、まず薫子の唾液を刀身に行き渡らせる必要がある。

(――この力……使えばプリシラから認められる資格を失うかもしれない……。講和に影響があるかもしれない……)

 だが、日本軍がこの場所に進出してくるまで時間がかかるだろうし、敵も明らかに吸血鬼だから、日本軍の被害も無視できないものになるだろう。

(吸血鬼の力には……同じ力で対抗するしかない……!)

 薫子は刀を抜き、刀身の根元の菊花紋に唇をつけた。

 刀身に薫子の唾液が染み渡っていく――。


「来る……!」

 傍らのユダヤ人武装組織の兵士が叫んだ。

 既に彼我の距離は数十メートル。敵が突撃してきたのだ。

「援護しろ! 私が迎え撃つ!」

 一発。二発。小銃弾が薫子の身を貫くが、興奮しているのか、吸血鬼の力のためか、ほとんど衝撃を感じない。そして、突撃してきた敵部隊の男――湾曲した刀を振り上げる英軍軍服を着た男を、薫子は一瞬で斬り伏せた。

 刀身に唾液を染みこませたとき、そこには『堅く噛む』感覚を込めたつもりだ。そして、プリシラの口ぶりから、いったん「吸血鬼」になった者も、更に「亡者」に墜とすことができることは間違いない。

 亡者に落とされたその兵士は、頭を抱えてうめいていたが、やがて自軍陣地に戻り始めた。距離的に、ユダヤ人部隊よりも、アラブ人部隊側がちかかったのだ。そして、薫子の見込み通り、敵は全員が吸血鬼と化していたわけではなかった。

 よろめきながら自軍陣地へ向かっていく亡者に目もくれず、薫子は更に突撃してきた敵を一撃のもとに斬り伏せる。

(……剣術は子供の頃からやっていたが……人間のときよりも遙かに速いし……強くなっている)

 薫子は冷静に考える。

 そうでなければ、敵の「吸血鬼」に対抗できなかっただろう。

 突撃してきた吸血鬼数名をあっという間に亡者と化し、彼等を率いる形で更に陣地に突撃していく。

 敵陣地は薫子を執拗に狙うが、更に三発小銃弾を受けたところで、薫子は敵陣地に到達していた。

 戦闘の数人――これも吸血鬼――とみられる兵士を一瞬で切り伏せて亡者に堕とし、彼等の血で更に紅く染まった滲血刀でその後方にいる指揮官らしき婦人将校に斬りかかる。

「ふん――」

 その女は難なく薫子の斬撃を受け止めた。

 その顔には見覚えがあった。ロンメル軍の司令部を訪れたとき、顔を合わせたことがあった。

「貴官は……アーデルハイド・ヴェンツェル! なぜドイツ軍がここにいる!」

 彼女はにやりと笑う。

「情報士官のわりには分析が甘いな! お前たち日本軍がパレスチナのユダヤ人を保護しようとしていることなどこちらはお見通しだ。だったら日本軍が占領する前に排除するまでのこと。もともとユダヤ人はアラブ人と対立していた。それをあおれば簡単なことだ」

 息も絶え絶えに後を頼むと言い残したリフケの顔が脳裏にちらついた。

「そこまでして……彼等を殺したいのか……!」

 薫子の滲血刀を難なく受け止め、恐ろしい膂力で押し返す。薫子の力でも耐えきれず、彼女は弾き飛ばされてレンガ造りの民家に壁にたたきつけられる。

「貴官……その力……」

 間違いなく吸血鬼の力だった。そして、彼女の持つ軍刀も紅い血の色を帯びていた。

 彼女はちらりと薫子の滲血刀に目を遣る。

「ふん……日本軍もそんなものを作っていたのか。さすがというべきか。この勝負――預けておこう。一応、まだ同盟国のようだからな……しかし、お前たちが我が国の国是に反する行動を取るならば、同盟などこちらから破棄してやる。次こそは勝負をつけられそうだな」

 高笑いをしながら去って行くアーデルハイドの背中を、薫子は見送ることしかできない。

 その周囲では、亡者と化した吸血鬼たちが、自軍の兵士らに襲いかかり、阿鼻叫喚の光景が再現されていた。

(……アーバーダーンに続き……再び亡者を作ってしまった……しかも……この私の意志で……だが……あのような敵がいるかぎり……私は……)

 そこまで考えたとき、薫子は滲血刀を握ったまま、気を失ってしまう。

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