第8節「ヴィクトリアの失敗」

 七月五日正午。パレスチナ委任統治領、ヤッファ。

 日本軍の包囲が続く中、地中海方面からの補給でなんとか戦線を維持していたこの地の英軍は、「日本軍大攻勢」の報に混乱に陥っていた。ヤッファ市の司令官は栄養不良から来る感染症で動けない状態になっており、一〇日前にたまたま視察に訪れたヴィクトリア・ローズモンド大尉が臨時の指揮官を引き受けていた。

(プリシラ様の命でこの地に来て見ればこのザマとは……)

 歯噛みをする思いだったが、ヴィクトリアとしてはプリシラの構想の手助けとなるべく、なるべくこの地の日本軍を押しとどめることが役割と割り切り指揮官をやってきた。但し、その努力もこの日の日本軍の大攻勢で水泡に帰そうとしていた。

(ヤッファで戦線を構築していたのは明らかに囮だったな……)

 おそらく、日本軍はヤッファに一部の部隊を残しつつ、本隊はシナイ半島の内陸部を南進、スエズを攻撃すべく身を潜ませていたと思われる。

 日本軍はヤッファにいる――その英軍の油断が、この奇襲を成功させ、中東全体の英軍を崩壊させつつあった。

(もはや講和以外の選択肢はないだろう。もともとセーシェルを取られたときにでも講和していれば傷口は浅かったのだ)

 とはいえ、米国の支援をあてにする英国政府としてはそのような早期の講和は受け入れがたかったに違いない。日本軍の中の強硬派と穏健派の対立なども、直接交渉にあたったプリシラら以外には実感としては沸かなかっただろう。

(……今や大勢は決した。この上はこれ以上の流血を防ぐことに注力すべきか)

 ヴィクトリアがそう考えたとき、司令部に入ってくる人物がいる。警衛兵――海軍部隊の兵なのだろう、セーラー服を着た年若い婦人兵だった――が、怪訝な顔をしつつもその人物を通したのは、彼が英軍の一部隊の司令官であることは間違いなかったからだ。

 パレスチナ委任統治領アラブ人部隊司令官だ。

「――ローズモンド大尉。緊急時に失礼する。一つ許可をいただきたい」

「許可。何のだ?」

「テルアビブ居留地への進駐だ」

「……進駐とは穏やかではないな。あそこはユダヤ人部隊に任せてある。アラブ人部隊が行けば内乱になりかねん。許可はできない」

「そうも言っていられない状況でな。この報告書を見てもらおう」

 彼がたたきつけるように司令部の机に置いた報告書には、英軍情報部の様式に沿ったものであった。曰く――ユダヤ人武装組織は日本軍と密かに交渉を行っており、裏切る可能性が高い。日本軍側の交渉相手として他ならぬ神崎薫子の名前も挙がっていた。

 これは事実だ――。

 ヴィクトリアの直感が告げていた。

 日本軍の立場で考えれば、枢軸国のパレスチナ占領に際し、ユダヤ人武装組織の反発は予想されることで、しかも占領政策への大きな障害となる。ユダヤ人側としても、日本軍が自分たちをドイツに引き渡さないという保証の見返りに、『占領後に叛乱しない』と明言しておくことには価値がある。

(ぬかったな。このような動きはあらかじめ牽制しておくべきだった。予想できたことのはずなのに……)

「――この状況でユダヤ人はもはや信頼できない。テルアビブ地区のユダヤ人部隊が投降、日本軍を通過させる可能性がある。我々がテルアビブ地区に進駐し、ヤッファ戦線全体の崩壊を防ぐことが必要だ」

「――許可する。但しあそこにいるのも同じ英軍側の味方であることを理解しろ。あくまでテルアビブ地区の戦線を維持する目的で行うんだ。ユダヤ人部隊が自発的に敵に協力する動きを見せない限りは攻撃は許可しない」

 彼はにやりと笑った。

「感謝する。『敵に協力の動きを見せたときは攻撃せよ』ということでいいな?」

「……その場合も非戦闘員は手にかけるな。いいな」

「分かっている」

 彼は敬礼し、足早に司令部を出て行った。

(本当に分かっているのか……?)

 ヴィクトリアは自分が出した許可に不意に不安になってきた。だが、次々と上がってくる報告に対処するうちに、その懸念に意識を割く余裕はなくなってしまった。



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