第5節「エル・アラメインの夜と吸血姫」

 一九四二年六月二五日夜。エル・アラメイン市街地中心部、英軍司令部。

「マルタの失陥は痛手であったな、クロード坊や」

 そう声をかけた少女に、クロード・オーキンレック大将は顔をしかめた。

「――まさか日本軍が仕掛けてくるとは思いませんでした。たった一〇日で占領されるとは、マルタの我が軍も情けない。トブルクが失陥してもマルタが無事ならば、ロンメルの攻勢も限界に達していたものを」

 クロード坊や、と呼ばれたオーキンレック大将は、特に違和感もなくそれを受け入れているようだった。外見的には、四〇も年下の少女に偉そうな口をきかれているように見えるのだが。

「ドイツ軍は対ソ戦にかかりきりで、充分な空挺兵を欠いていた。一方の日本軍はパレンバンで活躍した空挺兵がいた。需要と供給というものだな。妾も情報将校としてこの可能性に気づかなかったこと、申し訳なく思っている」

 プリシラは淡々と言う。ニール・リッチー中将には、格下の中佐としての態度をかろうじて保っていたが、「クロード坊や」に対してはそう振る舞うつもりはなかった。リッチー中将でも失敗したので、より親しい「クロード坊や」に対しては、もう諦めた、というのが彼女の正直な思いだった。

「レディ・プリシラ。あなたにとっては良かったのでは。『日本と戦う』というチャーチル卿の考えを、あなたは好んではおられなかったはず」

「だとしてもあの地はドイツ・イタリアとの戦いに必要だ」

 それから、この作戦を考えたであろう、神崎薫子との邂逅を思い返した。

(あの女……気弱なところはあるが戦略眼は確かだ。講和を高く売りつけるなのであろうな……)

 戦争というのはチェスのように両者が「ドロー」を宣言したらそれで五分五分の引き分けになるというものではない。コマの点数に応じて取引をする面倒な戦後処理がそれに続く。そして、マルタ島は最高のコマだった。

(イランを攻めてみろ、というのはやつをこちらの思い通りに動かすための言葉だったが……戦略の才能は及第点だ)

 アンマン郊外、ザルカに陣取った日本軍は、続々と戦力を増強しており、マルタを占領するとともに、連日のようにスエズを空爆し、地中海やインド洋からの補給を難しくしている。この状態ではロンメル軍の猛攻を支えるだけでも精一杯だが、更にアンマンの日本軍への備えも必要で、英軍は限界に達しつつある。

米軍に日本軍を攻めさせ、勢いを減じたいが、太平洋方面では日本軍は貝のように静かで、防衛線だけを日々増強している。それに米軍は開戦初頭で占領されたハワイがどうしても気になるらしく、東南アジアやインド洋をもっと攻めろといっても、「ハワイが優先」という答えしか返ってこない。パースから出撃した機動艦隊が放った「ドーリットル攻撃隊」が全滅したので、もうこれ以上は英国のために部隊を出せないということのようだ。

「私としては、エジプトの失陥は避けたいと考え、ロンメル軍の攻勢に対処しております。ロンメルだけなら勝利する自信もある。しかしながら、日本軍にも対処せよと命じられると、もはや限界であると申し上げるほかない。あなたのお考え、チャーチル卿に是非よくお伝えいただきたい」

「分かった、伝えよう。妾もそろそろ潮時だと思っているのだが、ウィンストンのやつはあれでなかなか頑固でな……。しかしロンドンの風向きは必ずしもやつに有利ではない。そこを利用するのも手かと思っている。五〇年来の盟友をそういう形で裏切るのは嫌な役回りではあるが」

 それから目を細めた。

「妾はな、クロード坊や、ネヴィルよりもウィンストンの方が何倍も好きなんだ。しかしやつがいらぬ戦線を広げたのは愚かなことだと思っている。我が英国にとっては、ドイツを倒すのがこの戦争の目的で、それ以外は枝葉に過ぎぬ。ドイツを倒すという意志を示したのはウィンストンの良いところだが、そのための手段でいろいろと愚かな選択をした。米国を引き込むために日本を利用したこと、ドイツに対抗するためにいたずらにソ連を強化したこと……大きくはこの二つだ。これらはのちのち、我が英国の立場を弱くするだろう。このままでは、我が大英帝国は没落の代名詞になるだろうよ」

「……それも良いかも知れませんな……」

「弱気だな? お主は弱気になるほど長く生きてはおらん。三〇〇年ぐらい生きてからそういうことは言え」

「レディ・プリシラにはかないませんな」

 オーキンレックは紅茶を一口飲んだ。慎重に、味わうように。

「ヒトラーは道化です」

「道化?」

「私の考えでは、道化とは極端に戯画化した姿を見せることで、君主に自らの愚かさを気づかせるものです。奴がやっているガス室ほど極端なことは我らはやっていない。だが帝国主義とはつきつめるとこうなのだと奴の姿は教えている……私はそう思うのです」

 ふうむ、と、プリシラはつぶやいた。

「三〇〇年ほど前、エリザベスの時代まで、妾らは満足な海外領土を持っていなかった。せいぜい、インドとの貿易が富を生み始めただけだ。そういう意味では、帝国主義は我が英国と不可分というわけではない……。世のうつろいに応じて英国はあり方を変えていくだろう。しかし、妾は、この英国にはそうしたうつろいのなかでも、最もしたたかに、最もずる賢く立ち回り、相対的に最も豊かで繁栄した立場を得させてやりたい……そう思っているのだ」

「それは愛国心ですか?」

「いや、親心だよ。妾にはな、クロード坊や。お主らみながかわいい子供のように見えるのだ。子供を亡くすのは悲しい……豊かに暮らしているのを見ると安心する……妾にとってはそういうものなのだ」

 プリシラはつと立ち上がった。

「しかし子供にも独立する日が来るだろう。妾が不要になったなら、遠慮なく言ってくれ。一〇〇〇年……親として見守るにも長すぎたかもしれん」

「いや。そんなことはありません。あなたのような存在が見守ってくれているだけで、なんとなくありがたい気持ちにはなります」

 プリシラは微笑んだ。

「そうか。そう言ってくれるか。ならばよいが……」

 それから真面目な顔をした。

「クロード坊や。いや、オーキンレック大将。二つ。言っておく。一つ。ロンメルには勝て。ドイツはこれからも敵だ。日本に対しては、早期に講和できるようウィンストンに私から口添えしておく。二つ。ユダヤ人を見守ってやれ。情勢は極めて不安定だ」

 一九三七年から三九年にかけて、アラブ人が起こした叛乱はイギリス軍やユダヤ人入植地に少なくない被害を与えていた。情勢が不安になる中で、そうした叛乱がもう一度起きないとは限らなかった。

「――分かりました。ロンメルには既に対処しておりますが、ユダヤ人に関しては警戒を厳重にするよう、対処いたしましょう」

「頼むぞ。オーキンレック大将。ロンメル軍との決戦に際しては、妾も参陣しよう」

 プリシラはそれだけ言い残すと、さっと立ち上がり、司令官室を出て行った。

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