第4節「再会の吸血姫」
同日。バレッタ市中心部。夕刻。
英軍チェシャー連隊第一大隊は、マルタの主要市バレッタ市およびその港湾に駐留していた。その大隊本部はバレッタ市に置かれ、マルタ市駐留英軍の司令部を兼ねていたが、日本軍の襲撃に大混乱に陥った。駐留する一一個大隊は度重なる爆撃により大損害を受け、身動きができないなか、敵は空挺部隊を降下させ、バレッタ市および空軍基地を強襲しつつあった。
「――ブラッドフォード中佐! ここはすでに危険です! どうか待避を」
司令部の防空壕にて第一大隊隊長にそう言われたとき、プリシラ・ブラッドフォードはその進言が正しいことを受け入れざるを得なかった。
「待避と言ってもどこにだ? 全島がすでに爆撃にさらされている。港湾も破壊された」
「バレッタは破壊されましたが、南方のプリティー・ベイは破壊を免れています。そちらにサンダーランド飛行艇が停泊しているはず。護衛の分隊を一つつけます」
「すまぬ」
空襲がやんだわずかの隙に、プリシラは防空壕の外へ出た。街区の破壊は目を覆わんばかりだ。司令部のある中心街が重点的に狙われたらしい。住宅街の方にはあまり煙が見えない。
(ふん……住宅街は狙わぬ……か? 日本軍め)
その偽善にプリシラは舌打ちしたい気分だった。
「住宅街を抜ければ容易に脱出できます。ジープを調達します」
護衛分隊隊長の婦人兵が、そう告げた。
その言葉に、偽善に救われた気がして気分が余計悪くなった。
「――プリティー・ベイまではどれぐらいかかる!」
「およそ一〇分です!」
司令部の駐車場にあったジープも大半が破壊されていたが、無事なものを三台見つけ、分隊員一〇名とプリシラで、三台のジープに乗る。すぐに発進する。
「舗装道路を行きますが、よろしいですか?」
真ん中のジープの助手席に座った隊長が言う。舗装路は狙われるが早く着くという意味だ。
「いいだろう。頼む」
プリシラは短く答えた。
(……マルタの状況を直接見るために来たはずが……こんなところで日本軍の攻撃に遭うとは!)
目下、中東戦線の状況がプリシラの関心事であった。その情勢把握のために単身、あちこちに飛んでいたが、日本軍の襲撃に遭うことは想定外だった。
(長く生きているといろいろな目に遭うものだ……)
冷静に状況を受け止めているが、とはいえ愉快であろうはずはない。
(薫子め……やってくれる)
プリシラがそう思ったそのとき。
「止まれ!」
英語で誰何される声がした。しかし発音は若干ぎこちない。外国人――日本軍だ。舗装道路を真向かいから走ってくるジープがある。鹵獲した英軍ジープのようだ。
「――止まるんだ――車を降りよう」
静かに分隊長に命じる。プリシラおよび護衛分隊は静かにジープを降りる。
敵のジープからも何名か降りてきた。向こうも全員が婦人兵だ。その中に見知った顔を見つけ、プリシラはなぜか微笑んだ。
「……神崎薫子。こんなところまで、ご苦労なことだな」
「知り合いですか」
分隊長が耳元でささやく。
「敵の情報士官だ。戦争が始まる前、交流があってな」
薫子も驚いたようだ。拳銃を彼女に向けて構えつつ、問う。
「プリシラ……こんなところで貴官に会うとはな……。英国はいつ講和する」
「がさつなやつだ。そんな直接的な聞き方で国家機密を答えるはずもなかろう? 雑さでは米国人と良い勝負だな」
「貴官に問いたいことはもう一つある。あのとき、私を噛んだのは何だ? 危険なウィルスということまでは把握しているぞ。どういう意図だ。細菌戦を仕掛けたつもりか」
「……ここで話すことでもなかろう。この者たちは妾の護衛だ。見逃してやれ。そうすれば妾はお主の捕虜になろう」
「了解した」
プリシラは両手を掲げたまま、護衛分隊にちらりと視線を送る。
「……帰投してよい。大隊長に伝えよ。死守することはない、と」
「は……。しかし中佐殿は」
「妾がどうなるかは、そこの小娘が決めてくれるだろうよ。だが大切な交渉相手を殺しはすまい。そこまで愚かではないと思っている」
分隊長は何かをプリシラの軍服のポケットに押し込んだ。感触からすると、信号拳銃だ。
「状況が逼迫したら、お知らせください。必ず救出に向かいます」
彼女らは目配せし、ジープに乗って去って行く。
プリシラは改めて薫子に視線を向けた。
「身体検査でもするか?」
薫子は微笑んだ。
「先ほどの信号拳銃はそのままでいい。しかし拳銃の武装解除は必要だな」
いいだろう、とプリシラは言い、腰の拳銃を道路に放り投げた。それを慎重に拾う薫子。
「ヴィクトリア・ローズモンドは一緒ではないのか」
「彼女はロンドンだ。お主こそ、あのときの士官――確か、千登勢大尉といったか……はどうした」
「彼は別の場所で作戦に従事している」
薫子は簡単に答えた。
「妾をしばらくここに留め置くつもりか?」
それとも、とプリシラは言った。
「また噛んでほしいのか?」
薫子はぎりりと歯ぎしりした。そしてプリシラをにらむ。
「そのことだ」
そして、彼女の護衛と見える分隊に振り向いた。
「しばらく……二人だけで交渉がしたい」
そう日本語で命じるのが聞こえた。
(形式にこだわる奴だな)
プリシラはあきれたが、舗装道路脇の小さなレンガ造りの小屋を見つけ、指さした。
「あそこでいいだろう」
マルタ騎士団の時代の斥候か何かが潜む小屋のようにも見えたが、今は牧草を保管する機能を持つようだった。
「分かった」
薫子は銃を下ろした。
入ってみると、やはり麦わらの匂いが鼻を突く、牧草小屋だった。しかし不快なにおいではない。火薬と血のにおいに満ちた今のマルタでは、かろうじて心地よさを保っているような雰囲気すらある。
すでに日は暮れかけており、小屋の中は薄暗い。
「……噛まれたことを恨んでいるのなら、報復して良いぞ。ほら」
軍服のボタンを外し、首筋を見せてやる。薫子の眼光が鋭くなった。小屋の壁にプリシラを押しつけ、その顔の横を拳で殴る。
「貴官はどういうつもりなんだ……? 私は何になってしまったんだ……! 教えろ!」
プリシラは全く動じず、間近の薫子の瞳を見つめた。
「お主は人間とは違うものになった。しかし誇るべき高貴なものだ。お主が『やわらかく』噛んだ者も、おそらく同じものになっただろう。『かたく』噛んだ者は亡者に墜ちただろうが……」
「それはなんなんだ? 吸血鬼か?」
「それは人間らが妾らの逸話を聞いて創ったおとぎ話だ。ウィルスというのは正しい。妾も知らなかったが、そういうものらしいな。妾が知っていることはお主らが知っていることとそう変わらぬ。それに、これ以上教えるつもりもない」
「では意図を教えろ! これはどういう意図でやったんだ? 私を『高貴なもの』にして何がしたい! 敵を亡者にして何がしたい!」
「ふん……そこまでたいした意図はない。妾はお主がどういう人間が見極める必要があったのでな。亡者を量産するような人間かどうか……」
そこで目を細めた。
「アーバーダーンで我が軍兵士を亡者にした気分はどうだった? 気分が良かったか? 興奮したか?」
「するか馬鹿!」
薫子はプリシラの襟首をつかんで壁に押しつける。
「最悪な気分だった……なぜ私にこんな運命を押しつける……」
荒い息をしつつ、薫子はプリシラの胸元に頭を押しつけた。その髪に、プリシラは触れ、耳元でささやく。
「運命? 違うな。勘違いするな。お主が被るすべては、自覚していようといまいと、お主が選び取ったものだ。我が大英帝国に講和を持ちかける……そのような挑戦には相応の試練が伴うのだ。ローマ帝国に見捨てられたブリタンニア属州の民を守ると選び取ったのと同じようにな」
「ブリタンニア属州だと……?」
「何でもない。それよりその中途半端な姿勢をなんとかしろ。私をなんだと思っているんだ? お主の敵か? それとも妾の娘か恋人にでもなったつもりか? 乳でも与えてほしいのか?」
薫子は顔を赤らめ、プリシラから顔を離す。
「試練だというのか……それを貴官が私に与える権利があるとでも思っているのか?」
「ある。妾には我が英国を見守ってきた者としての自負がある。よって我が英国の運命に干渉しようとする輩には試練を与える義務と権利がある。我が国との講和などと大それたことを言う奴には、普通の人間とは異なるものとなることを受け入れてもらう」
「普通の人間とは……異なるもの……」
薫子は呆然としたように、プリシラの襟から手を離し、一歩、二歩後ずさる。
「光栄に思うがいい。妾が『やわらかく噛む』のは、妾が好いた人間に限られる。妾はお主が我が国に講和を持ちかけた蛮勇を悪くは思っておらぬ。しかしこんなことで折れるようでは、やはり妾の見込み違いだったか……。だとしたら、もはや亡者に堕とすのもやむを得ぬ」
プリシラは一歩、進み出た。
「待て!」
小屋に侵入してきたその男性士官を、プリシラは見覚えていた。
「千登勢玲次と言ったか。この女が言ったことを伝えられていないか? 二人で交渉するのだと」
「だとしても、貴官にそれ以上の狼藉を許すわけにはいかない」
そのまっすぐな視線に、プリシラは懐かしさを覚えた。
「分かっているのか。その女はもはや人間とは異なるものだ。お主とは異なる生を歩まざるを得ぬ」
「だとしても護る」
「――ふん。興ざめだ。薫子よ。お主を亡者に堕とすのはもう少し待ってやる。妾を失望させるなよ」
それから振り向いた。そこで玲次と視線が合う。
「――プリシラ・ブラッドフォード中佐」
彼が問いかけてくる。
「なんだ」
「……神崎少佐殿がもしあなたと同じように生きるというのなら、あなたはこの人の生に責任が持てるのか」
「――案ずるな。妾が為したことだ。妾が責任は取る」
ふふ、と柔らかく微笑んだ。
「人間の分をわきまえたよい問いだ。薫子の身柄、『しばらく』お主に預けておくぞ」
プリシラは小屋を出た。
島に満ちる血のにおいを心地よく感じてしまい、自戒する。
(いかんな……気を納めねば……)
薫子を亡者にするつもりはなかった。だが、そう脅すことで相手をさらに試したのは確かだ。それがプリシラの血を高ぶらせたらしかった。
(薫子……もうしばらくお主を見守ってやろう……)
そう心中でつぶやき、プリシラは付近の小高い丘を目指す。信号弾を撃つために。
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