第3節「マルタ襲撃」
「おお、晴れているとは幸いだ」
一九四二年六月二〇日。地中海、英領マルタ島上空七〇〇〇メートル。
翔鶴戦闘機隊の栗花落桜子は、眼下のマルタ島を見下ろしていた。
(一式陸攻もこの高度を危なげなく飛行しているな……)
自らの隊が護衛する一式陸攻を頼もしく見つめた。枢軸軍が占領するクレタ島からマルタまで八〇〇キロメートル。航続距離四〇〇〇キロメートルの一式陸攻や同三〇〇〇キロメートルの零戦隊にとって、八〇〇キロメートルは指呼の距離といえた。日本軍の拠点があるアンマン郊外、ザルカ市からでは二〇〇〇キロメートルなので一式陸攻の攻撃半径としてはぎりぎり、零戦の護衛はできない。
マルタ島は全長二〇キロメートルの小さな島だが、バレッタ港など優れた港湾施設を有しており、ロンメル軍の補給を妨害するかなり厄介な存在だった。独伊軍は繰り返し爆撃を行い、またマルタへの補給の妨害も続けていたが、つい五日前にも輸送船二隻がマルタへの入港を成功させており、イギリスはこの島の維持に成功していた。
ドイツ軍は空挺部隊による直接占領の案もあったが、空挺兵は東部戦線に出払っており、その重要性を認識しつつ、直接占領には手が回らない状況であった。
そこに降ってわいたのが日本軍による占領の提案である。
もともとはガザラで包囲されていたロンメル軍への助力の申し出であったが、ロンメルは流動的な戦場で、はるかザルカ市からの航空支援は難しいと判断、後方連絡線の確保こそが最大の助力になるとして、マルタ占領を提案したらしい。
そして、薫子から聞いたところでは、その提案には薫子が一枚噛んでいるらしい。
(ふん――あの軍令部どのは本当に――八面六臂の活躍だな。当人は否定していたが、やはり『スピオーネ』のソーニャ嬢そのものではないか)
神崎薫子という人間、桜子は嫌いではなかった。普通なら鼻につく理想主義的なところも、当人が泥臭くあちこちに飛び回って関係者を説得して回って実現に向け努力しているので寧ろ好感が持てる。これで偉そうに作戦を論評だけして自分では動かないような――まさに参謀にいそうな性格だったら毛嫌いしていただろうが。
今も、実は一式陸攻の空挺部隊の中に混じって自分も降下するらしい。そこまですることはないと思うのだが、自分で言い出した作戦だからといって山下大将の許可を得てしまった。
(山下閣下もそういう人間が好きなんだろうな――)
プリシラという吸血姫に噛まれて明日も分からぬ命になったことも、内心はともかく外面的には特に気にしていないように気丈に振る舞っている。尤も時折ふと寂しげな表情は見せるので、当人は健気に踏ん張っているのかもしれない。
(しかし、それもこれも、あの男前と一緒にいれるのだからまあ帳消しだが! 全くうらやましい。けしからん)
「隊長! 陸攻隊爆撃・雷撃に入ります!」
「よろしい、零戦隊の第二飛行隊は散開! 警戒態勢を取れ! 第一飛行隊は雷撃隊の援護を行う。我に続け!」
高度七〇〇〇メートルから、陸攻はぐんぐん高度を下げていく。それに追随する桜子と零戦隊。
もともと、海軍機である陸攻は雷撃戦能力を備えている。高高度爆撃機としての運用がよくなされるのはその長い航続距離と高高度飛行能力を買ってのもので、鈍重な陸攻に雷撃は荷が重い。
しかし、敵にとって貴重な輸送艦が港に停泊しており、満足な護衛の駆逐艦もない今ならば、寧ろこの能力を活用するのは有効な攻撃になる。
下から見ると、陸攻爆撃隊は芥子粒のような点にしか見えない。マルタの英軍は上空の陸攻に高射砲をさかんに撃っている。
(そうだ……上空に意識を集中していろ……その隙に港を攻める!)
マルタからかなり距離を取り、そこから海面ぎりぎりを飛行していく。
(見えた!)
マルタの主要港にして首都でもあるバレッタを海面の向こうに認める。
「零戦隊続け! 我々に注意を引きつける!」
桜子はいっぱいに操縦桿を引いた。海上に舞い上がる零戦隊。それは敵の港湾基地の対空砲にとって格好の的であった。しかし時速五〇〇キロで飛ぶ零戦を簡単に仕留めることはできない。しかも零戦は格闘戦能力に優れ、直線的に飛ばないので進路も予測できない。
港湾基地の対空砲陣地を照準に収める。
(許せよ。戦の中だ)
二〇ミリ機銃を連射する。陣地も兵隊も区別なく吹っ飛ぶ。直上を通過するとき、軍帽の脱げた兵隊が見えた。死体かけが人なのかも分からない。巻き毛の金髪が目立つ。陽光にきらきら光っていた。よく手入れされている。
(チ……これがあと何年続くんだ?)
桜子はいらだたしさの混じったまなざしで、上空を見上げた。
(本当に頼むぞ……軍令部どの)
*
「高度五〇〇〇まで降下。マルタ空港、バレッタ市街地および軍施設を爆撃中」
「護衛の零戦隊がスピットファイアと交戦中。各機銃座は警戒を厳にせよ!」
空挺兵を多量に積んだ陸攻の中。薫子は緊張に唇をかみしめていた。
「神崎少佐。装具の装着は問題ないか?」
陸軍挺身第三連隊連隊長、葭田万葉(ルビ:よしだ・かずは)中佐が声をかけてきた。空挺兵を擁する「挺身連隊」は従来、第一・第二までが編制されていたが、中東侵攻にあたり新たに挺身第三連隊が編制された。葭田中佐を含む一部の空挺兵はパレンバン戦の経験者でもある。
中佐という、一階級上の将校だが、年齢的には薫子とそう変わらないように見える。よく日に焼けた精悍な顔つきに、きらきらした瞳の美しさが目立つ。
「千登勢大尉もだ。装具は命綱だからな」
二人の装具を点検し、二人の肩を両手で叩く。
「ようし。これで問題ない」
「――恐縮であります、中佐殿」
薫子が言う。
「なに、虎の子の一式陸攻をせっかく出してくれたんだ、海軍さんにはよくしてやらんとな。それに参謀職にある身でこの前線までよく出張ってきてくれるものだと感心してもいる」
「――私が立てた作戦です。この目で成否を見るのは当然の務め」
薫子は短くいい、それからじっと窓外を見る。
「スピットファイアは雷撃隊に誘引されたようですね」
「ああ。爆撃隊が囮だと考えたんだろうな」
「つまり――思惑通りです」
二人は微笑みあう。
薫子は作戦を三段階に分けていた。第一段階、高高度からの爆撃でバレッタ市街や空軍基地を含むマルタ全島を襲う。英軍は防空戦闘機を高高度に上げてくるだろう。そのすきにバレッタ港を低空から雷撃隊が襲う。敵は、爆撃隊は囮、港湾攻撃が主攻だったかとあわてて港の防衛に向かう。
しかし、本当の狙いはさにあらず。
これから行われる空挺降下こそが本命だ。
「高度一〇〇〇まで低下」
「スピットファイアはどうか?」
「バレッタ港にて零戦および雷撃の陸攻隊と交戦中!」
「高度五〇〇まで低下」
「ようし! 空挺降下開始! 第一梯団から順に降下せよ! 私に続け!」
それから小声で薫子、玲次に声をかける。
「私のすぐ後ろに。落下傘を開くタイミングを合わせろ」
それからにっとほほえんだ。
「なあに、たった数分の空のお散歩だ」
一式陸攻の側面の扉を万葉が開け放つ。
「――しかし、世界を変える一歩です」
「だといいが!」
が、という言葉とともに、万葉は開け放った扉から飛び降りた。
(行くしかない。私が立てた作戦だ)
「大丈夫。私も一緒です。少佐殿の落下傘が開かなければ、私が少佐殿を抱えて落下傘を開きますよ。だから大丈夫です」
玲次が言う。緊張がほぐれる気がした。
「よし、行くぞ」
薫子は迷わず飛び降りた。玲次が同時に飛び降りる。
先行する万葉が落下傘を開いた。薫子も開く。それを確認したように、玲次も一秒遅れて続いた。
(本当に私が失敗したら抱えるつもりだったのか?)
口元から微笑みがこぼれた。空挺降下はバレッタ市北東二キロの地点を選んでいる。敵の防空隊がバレッタ港に集中している間にバレッタ市の郊外に拠点を構築、挺身第三連隊三〇〇名は二手に分かれ、バレッタ市およびマルタ航空基地を強襲、占領する。その間、陸攻隊は爆撃および雷撃を繰り返し行い挺身第三連隊を支援する。零戦隊も制空権を奪い、これを支援する。一部の零戦隊は占領直後のマルタ航空基地に着陸し、敵の奪還に備えて防空隊となる予定だった。
「少佐殿! 陸地が近づいています!」
後方から声がする。玲次だ。
あおあおとした草原が目前に迫っている。
薫子は教えられたとおり、着地と同時にごろりと転がり、衝撃を受け止める。
「よし。上出来だ」
万葉が薫子を抱き起こしてくれた。彼女が薫子の即座に落下傘装具をほどいてくれる。そこに駆けつけてくる玲次。
「第一梯団はバレッタ市、第二梯団はマルタ航空基地を襲撃する。第一梯団は私に続け!」
万葉が命じる。
「私についてきてくれ。できれば軍令部には我が隊の活躍をうまく報告してくれよ?」
万葉はいたずらっぽく微笑んで片目を閉じてみせた。しかし、薫子、玲次は空挺直後の安堵した心持ちで、それに応ずる余裕もない。
ただ行軍を開始した第一梯団についていくのがやっとだった。
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