第2節「魔女の釜」

 五月二七日の迂回攻撃から三日。五月末には、ロンメル軍は英軍陣地の中心で勢いを削がれ、包囲されつつあった。リッチーの命令「踏みとどまれ」は有効に作用し、強固な陣地に踏みとどまった連合軍は、南から強襲してきた枢軸軍の攻勢を受け止め、包囲の体制を整えたのである。

 しかしロンメル率いる枢軸軍は敵の包囲網の中にあって、戦列を乱すこともなく、全周に対し防衛する陣地を築きつつあった。ロンメルはこの防衛陣地を「魔女の釜」と称し、敵の包囲攻撃を受け止めつつ事態打開を企図していた。

 その防衛陣地の上空に一機の連絡機が現れ、パラシュートにて二名の兵士を投下してきた、という報告に、ロンメルは顔をしかめた。

「何者だ? この忙しいときに」

 野戦司令部のテントの中。ロンメルが電話に怒鳴りつけるように問うと、電話向こうの将校の答えが返ってきた。

「日本軍の情報部の人間だそうで、航空支援について議論したいと」

「――連れてこい」

(――航空支援……それはありがたいが……)

 テントの外を望遠鏡で見ていると、やがて全周防衛陣地の中をジープが土煙を上げて走ってきた。

 その婦人士官は、完全に停まる前に颯爽とジープを飛び降り、ロンメルの一歩前で停止して均衡の取れた姿勢で敬礼してみせる。彼女の副官と見える男性士官が、一歩遅れて敬礼するが、彼の軍服の着こなしも完璧だ。そろいの白い日本海軍の制服は砂漠の日光にまぶしい。

(……ふん、兵隊は見た目で戦うわけではないが……)

「ロンメル閣下。お初にお目にかかります。日本帝国海軍軍令部、神崎薫子少佐です。山下大将閣下の使いでやって参りました」

「――エルヴィン・ロンメル。上級大将だ。このような場にやってくるとはよほどの要件と思うが」

「――我々の陣地からここは遠い。空からの援護しかできないのが現状です。いつ、どこで閣下が援軍を欲されているか、確認するために来ました」

 彼女はそこで言葉を切った。

「――通信はお嫌いなようなので」

「よく分かっている。気に入った。空爆はありがたい」

 司令部のテントに入る。テーブルの上に詳細な地形図がある。その一点を彼は指した。

「トブルクだ。できるか?」

 婦人士官――神崎薫子はやや目を見開いた気がした。

「閣下が苦境にあると聞き、包囲軍の爆撃を要望されるかと思っていたのですが」

「戦場は流動的だ。山下閣下なら理解できると思うが。明日には我が軍がどこにいて、敵がどこにいるのか分からん。通信でそれをいちいち連絡していてはリスクが大きい。敵軍への空爆は我々に任せてもらおう。しかし一つだけ、外部の支援があればありがたい場所がある。それが敵の司令部があるトブルクだ。タイミングは――そうだな、今から二〇日後。六月二〇日頃になるだろう。そのときには、この包囲を突破し、我々はトブルクに進軍しているはずだ。そこで敵の士気を破壊してもらいたい」

「――そのほかは必要ないと」

「我が軍の補給は限界が見えている。ここを抜いた後は苦しい戦いになるだろう。そのタイミングで敵を背後から襲ってもらえればそれに越したことはない――尤も、あの『マレーの虎』ならばその程度のタイミングは見計れていると思うが」

 神崎薫子は微笑んだ。

「そのようです。――そして驚いています。山下閣下は、おそらくロンメル閣下はトブルクのような固定目標を攻撃するよう要請してくると言っていましたが、そのとおりになるとは。ちなみに、『虎』と呼ばれるのは閣下はお嫌いだそうで」

「はっは。私も『狐』はごめんだ。もう少し良い名であればいいが」

 彼の中では思考が巡っていた。

(そうだ……トブルクへの空爆は必要だが、それを日本がやってくれるというのなら、独伊の空軍には別の目標の攻撃を要請できる。たとえばマルタだ。あの島に陣取る英軍のおかげでこちらは補給に苦労させられている……)

「閣下が爆撃したいのはトブルクを別にすればマルタでしょうか。そちらは独伊空軍にやらせるおつもりで」

 ロンメルははっと息をのむ。

(――日本軍は情勢がよく読めているようだ)

「……マルタの英軍は確かに邪魔だが」

「我々にはパレンバンを攻略した空挺部隊もおります。向かわせるとしたらマルタかとも思いますが。いかがでしょう」

 ロンメルは目を見開いた。

「……よし。では方針を変える。君らにはマルタ占領を頼みたい。できるか?」

「お安いご用です。寧ろあのような孤島のほうが我々の強み――航空戦力を思う存分生かせる」

 日本軍がはっきりと航空戦力を「強み」と言い切ったことに彼は頼もしさを感じた。彼等が中東に侵攻して以来、零戦の勇名はこの北アフリカにまでも聞こえている。

 そして空挺部隊だ。ドイツにも優秀な空挺兵がいるが、今は全て対ソ戦線に投入されており、マルタに回す兵隊がいない。そこを日本軍の精鋭が補完してくれるならば、これほどありがたいことはない。

「経由地としてクレタの飛行場の使用許可をいただければ、作戦はいつでも実行可能です」

「では決まりだな」

 そこで、テントの中にいたアーデルハイド・ヴェンツェル中佐が口を挟む。国防軍最高司令部との連絡のために司令部に来ていたのだ。

「クレタの使用許可ならば、私から南方総軍のケッセルリンク元帥閣下に要請できますが」

 そう口を挟んでから、日本軍士官が怪訝な顔をしたのを見て、ヴェンツェルは名乗った。

「失礼。国防軍最高司令部、アーデルハイド・ヴェンツェル中佐だ」

「よし。ヴェンツェル中佐に連絡は任せた。タイミングは日本軍に委ねる」

 安堵しつつ、ロンメルは言った。

「ではこれで。お邪魔しました」

 さっさと帰ろうとする彼女を、彼は呼び止めた。

「君。どうやってこの包囲陣を突破するつもりだ」

「我が軍も連絡機としてお国のFi156『シュトルヒ』を輸入し使っています。あれは良い機体です。ほとんどどこにでも着陸できる」

「ならば安心だ。しかし撃墜されるなよ? マルタ攻略は必ずやってもらわなければならん」

「は。必ず」

 それと、と彼女は言い、紙片を一つ、テーブルに置いた。

「閣下のメッセージです」

「受け取った。では頼む」

 二人はロンメルに敬礼して再びジープに乗り――おそらくシュトルヒが着陸できるであろう、司令部近くの平坦地に走り去っていった。

(さて……最近は将来を悲観していたが、――東方からの援軍でなんとか持ち直せそうだ)

 ロンメルは電話を取り上げた。包囲網の突破を下令すべく。

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