第6章「砂塵舞う北アフリカ戦線」第1節「ガザラの戦い――吸血姫の助言」

 一九四二年五月二六日正午――。

 リビア。トブルク。

 イギリス第8軍司令部はトブルク港にほど近い位置にあった。

「レディ・プリシラ。あなたをお迎えできるとは光栄です」

 イギリス第8軍司令官、ニール・リッチー中将にそういわれ、プリシラ・ブラッドフォード中佐はあいまいにほほ笑んだ。

 二人は司令官室のテーブルで向き合い、テーブルには二人分のお茶とトブルク周辺の部隊配置図が置かれていた。

「中将閣下は妾を誰かと勘違いしておられる。おそらく妾の母か祖母であろう。妾はただの二〇代の小娘、情報部の一将校にすぎぬ。そのように扱われよ」

「――そうはおっしゃいましてもな」

 リッチー中将は当惑した。彼の認識ではこの少女は全く「小娘」というような存在ではなかったし、そもそも外見だけを言うならば一〇代というほうがより適切であった。二〇代というのは書類上の年齢に過ぎない。

応答に困ったリッチーは部隊配置図に目を落とした。

プリシラも、同じものに視線を向ける。

「中将閣下はロンメルは東から来ると思っていらっしゃる。それに関して助言をしに参った」

「……どういうことです」

「あれは砂漠の狐だ。狐に化かされぬことだ。海岸線ではなく内陸からの迂回攻撃があれの得意技であろう。今回もそう来ると見做すことだ」

「西に布陣する部隊は囮だと?」

「間違いなくな。それが証拠に西の主力はイタリア軍だ。イタリアが主力と言うことはあるまい?」

「――考えてみますが……」

「それともう一つ。このトブルクの守りはしっかりとしておくことだ。前線に兵や地雷を配置していては、トブルクが守れぬ」

「――む。しかしこの布陣はオーキンレック閣下の命令で」

「……ふん。あのクロード坊やが偉そうになりおって……」

 プリシラは小さく漏らし、それから口をつぐんだ。さきほど、『二〇代の小娘として扱え』と言った自らの言葉と矛盾する言動だったからである。

「とにかく、中将閣下。閣下は一軍の将だ。現場の判断で臨機応変に対処することだ。そうでなければ化かし合いで狐には勝てん」

 そう言って、うまそうにお茶を一口、飲んだ。

「そういえばレディ・プリシラ。あなたが情報部の将校ということであれば、教えていただきたい。アンマンの日本軍はどうしています。今までスエズに散発的に爆撃をしているだけですが、あれが本格的に動くとまずい」

「――情報部がつかんでいる最新の情報に依れば、やつらは五個師団に増強された。うち一つは戦車師団だ。しかも指揮するのはシンガポールを陥とした『マレーの虎』と聞く」

「……なんと……」

「ロンメルにトブルクを取られてはまずい。この地の英軍はなんとしても維持せねば――そう思ってここまで来た、ということでもある」

 プリシラは目を伏せ、作戦図をじっと見つめている。

「レディ・プリシラ。あなたは対日講和派と聞きましたが」

「私はイギリス派だ。イギリスの利益になる未来が何かをいつも考えている。日本とは講和した方が有利だと考えていることは否定しないが、エジプトまで取られてから講和するのは流石に我が英国に不利がすぎる。このあたりで耐え抜きつつ、日本には戦争から降りてもらうのが良い……」

 プリシラは席を立った。

「邪魔をした。閣下に話すことではなかったな。クロード坊や……オーキンレック大将閣下か、チャーチル閣下にでも話す内容だ」

 さっさと部屋を出て行こうとする。

「――お待ちください」

「何か」

「――今のあなたから見て、イギリスはどうなります?」

 プリシラは上品さを保ちつつ、大笑いした。

「あっはっは。中将閣下は我が祖母がよほど懐かしいと見える。妾ではなく祖母に話しかけておられるようだな……? 妾には一〇〇〇年間のことは分かっても、一年後のことは分からぬよ。但しこれだけは言える。戦に勝っても真の勝利にはつながらないことが多くある……と。リチャードは戦上手だったが、我が英国の内政をないがしろにし、同じキリスト教国の盟友であるはずのフィリップのやつにつけいる隙を与えた。味方を信じすぎるな、勝っても意味のない戦いはするな……私に言えるのはそれだけだ」

 それから優雅に一礼した。

「失礼を申した、中将閣下。戦に励まれると良い」

 


 その翌日の早朝。

 ニール・リッチーはプリシラの助言の意味をかみしめていた。昨日、プリシラが帰った後、東方から一斉に攻撃を開始した枢軸軍だが、今日の早朝になって、南部ビル・ハケイムの第一自由フランス軍団にも攻撃が加えられているとう情報が入ってきたのだ。

「――なんだと? では主攻は南部からだというのか?」

「間違いありません! ドイツ軍の主力は南部に集中しているようです! 第一自由フランス軍はなんとか持ちこたえているようですが……およそ四個なしい五個師団が南部から攻勢をしかけてきているのは間違いありません!」

(……どうする? 撤退するか? いや、浮き足だってはダメだ)

「全軍に防衛戦を守るように伝えよ! ロンメルの攻撃にも耐えうる陣地を構築してきたはずだ。押し返せ!」

 連合軍は「ボックス陣地」と呼ばれる強固な陣地を各師団が築き、戦車による突破にも耐え抜けるようにしてきた。

(大丈夫だ……枢軸軍はもうすぐ息切れする……ここで耐え抜けば……)

 リッチーの思考は根拠なき楽観論に傾きつつあった。

「とにかく全力で耐え抜け!」

 彼は不安を抱えたまま、檄を飛ばす。

 それがどのような結果をもたらすのか、予想もできないままに。

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