第12節「交渉――ユダヤ人軍事組織」
同じく五月二五日深夜。英国属領トランスヨルダン首長国、ザルカ市ドーソン空港の司令部近くのテントに、一人の女性が訪れていた。アラブ風のヒジャブのようなスカーフを顔に巻いている。しかしスカーフからのぞくのは金髪で、巻き方もおよそヒジャブらしくない。
「――神崎少佐殿。お呼びいただき光栄です」
流ちょうな英語でそう告げた人物に対し、薫子は席を立ち、手を差し出す。相手は片手で二秒ほど握り返す。
「どうぞ。お座りいただきたい」
促されるまま、彼女は椅子に座る。そこには薫子、玲次、そして訪問者の女性の三人しかいなかった。
「呼び立て申し訳ない。しかし、君たちは我々の勝利を恐れているだろうと推測する。そのような懸念はないと伝えるためだ」
「貴殿らの司令官の勇名はこの地にも届いております。その誠実さがその勇名と同じく確固たるものであればいいのですが」
「……無論、それは私が保証しよう。我々は解放者を気取るつもりはない。我々は英国とこの地の支配権を争う為に来た。しかし我々はドイツではない。諸君らを迫害することはないと約束する。それゆえ、君たちの土地の通過を了解してもらいたい」
「我々は英軍と協力関係にあります。英軍を裏切るわけにはいきません」
薫子はため息をついた。
「君たちが求めるものは、支配者が誰になろうと、君たちがこのパレスチナで安全に暮らせることであると思っていた。我々はそれは保障しよう。ドイツと敵対することになっても、あるいはこの土地のアラブ人と敵対することになっても、だ。しかし君たちが求めるものが英軍の勝利であるならば、我々と対立することになる。我々は英軍に勝利するつもりだ。その後のことを話したいのだ」
彼女はおしだまった。やがて口を開く。
「イギリスは現在、我々の仲間がドイツから逃れてくるのを『不法移民』として排除し、モーリシャス島などに送っています。この地のアラブ人勢力に気を遣っているのでしょう。故に、我々の真の友とは言いがたい。我々がイギリスと協力しているのは、あくまでロンメルがこの地を征服した後、我々に待っているであろう虐殺を逃れるために過ぎません。しかしあなた方はドイツの同盟国でしょう。あなた方の意思とは無関係に、本国の訓令に従い、我々をドイツに引き渡さざるをえないのではありませんか」
薫子は首を振る。
「君たちは我々の占領地の住民になるだろう。そのとき、ドイツには手を出すことは不可能だ。今までも占領下の住民を他国に好きにさせるような行動を我が国は採っていない。それは調べてもらえば分かると思うが。我々や山下閣下が懸念しているのは、君たちが、我々が殊更君たちを弾圧するとの誤解からゲリラ化して抵抗運動を始めることだ。そうなれば掃討せざるを得なくなる。それはお互いにとって不幸だ。よって我が国の意志を伝えるべきと考えた」
彼女は少しの間、黙る。司令部の中に置かれた石油ランプの炎が揺らめいていた。
「……では、あなた方は英国と同じ立場になると?」
「英国よりも若干寛容な立場になりたいと考えている。私が目指すのは英国に対し、インドを含むあらゆる植民地に豪州のような自治権を与えるよう要求することだ。その上で、全ての英国自治領に、準備金として英国ポンドを保有する義務からも解放するよう要求する。これによって英国自治領は我が国と事実上自由貿易ができるようになる。君たちパレスチナ委任統治領も同じ立場になるだろう」
「『イスラエルの地パレスチナ』、です」
彼女は訂正を要求した。
「――了解した。『イスラエルの地パレスチナ委任統治領』だ」
薫子は素直に受け入れる。
「我々が目指しているのは自治領ではなく独立です。カナダでもオーストラリアでもなくニュージーランドでもない。神にのみ忠誠を誓う我々が英国国王に忠誠を誓う義務を課されるのは屈辱の極み」
「アメリカのように、か」
「そのとおり」
彼女の瞳は鋭い。薫子はじっと考えた。
「英国にそう要求することだけは約束しよう。これは本来、英国と君たちとの問題だが、この地を占領した以上我々にも何かを要求する権利が生じるだろう。我々は、この地の占領に未練はない」
「……言いぶりから察するに、近いうちに英国と停戦することを予期していらっしゃる?」
「……ああ。しかしこれは極秘だ。君を信頼するから話す。英国の要路に伝わるのはしょうがないが、ドイツには伝わらないようにしてくれ」
「承りましょう。ドイツに秘密を伝えるぐらいなら死んだ方がましだわ」
「それで。回答は」
「……我々は事実上英軍の一部になっている。英軍の指揮系統の中であなたがたと戦うことは了承してもらいましょう。その上で、英軍が撤退あるいは降伏した後は、あなた方が直接弾圧したり、我々をドイツに引き渡したりしないことを条件に、抵抗運動はしないと約束しましょう」
「――それが限界だろうな。いいだろう。日本軍として了承する」
「もうひとつ」
「聞こう」
「アラブ人にも同じ交渉を?」
薫子は首を振った。
「いや。彼等には、君たちが我々に抱くような弾圧の懸念はないはずだ。占領者として適切に振る舞っていれば過激な抵抗運動はないものと思っている」
「……それはそうね。我々を嫌っているという一点で、彼等はドイツに親近感を持っている。ドイツの同盟国が来たからといって恐れることはない……」
彼女は大きなため息をついた。
「少し失礼な言い方をしていいかしら?」
「聞こう。失礼すぎる言い方ならば撤回を要求するが、ほどよい失礼さなら親密になる第一歩だ」
彼女はその言い方に微笑んだ。
「あなたは日本人には見えないけれど……。最初は戸惑ったけど、どういうことなのかしら」
「君。それは失礼が過ぎる」
玲次が口を挟んだが、薫子は手で制した。
「いや。いい。詳細な事情を語る必要はないと思うが、私の遺伝上の父が誰であったか、私は知らない。状況から察するに、ロシア人である可能性が高いが、他の民族かもしれないし、ユダヤ系である可能性すらある」
「それがあなたが我々に親切にする理由?」
薫子は首を振った。
「私は日本人だ。私のあらゆる行動は、日本の国益を最大化するためであって、残念ながら君たちへの同情心ではない。ただ、最終的には、四方の海の民が皆同胞となるとよいとは夢想している。私がこう思うのは、私の父が誰であろうと、いつか笑ってお茶を飲み合える関係になれるとよい……という意識が根底にあるからかもしれないな」
(ロシア人であろうとユダヤ人であろうと、おそらくは白軍関係者であろうから……もう赤軍に殺されているのではないかと思うが……)
自身の言葉に冷静にそう付け足しつつ、薫子は相手に微笑んでみせる。
相手も微笑んだような雰囲気があった。それから徐にスカーフを取ってみせる。きらめく金髪に緑の瞳がまぶしい。年の頃は薫子とそう変わらないだろう。
「――リフケ・ベルンシュタイン。ユダヤ人軍事組織『ハガナー』の中尉よ」
「君の誠意を重んじよう、ベルンシュタイン中尉」
もう一度手を差し出す。リフケは両手で握り返した。一〇秒ほど、じっと薫子の目を見つめながら。
「もしよければリフケと呼んで。戦闘が始まれば、あなたと殺し合うことになると思うけれど、お互いの弾が当たらないことを祈るわ」
「では、私もカオルコでよい。生きて再会できることを祈ろう」
わずかに微笑み合った後、リフケは再びスカーフを巻き、テントを辞していった。
✳
リフケが辞した後、しばらくの沈黙があった。
「そういえば、私の父について君に話したのは初めてであったな」
「少佐どののお血筋に関してはいろいろな噂がありました」
「うむ。その中で洲月少佐あたりが熱心に広めているもの…あれが真実だ」
薫子はきっぱりと言い切り、それから黙りこくった。
「何かご懸念されていることがあるならば、私は杞憂と申し上げます。どのようなお血筋であっても少佐どのの愛国心が変わらないように、私の少佐殿への見方も全く変わりません」
ふ、と短く薫子は口元を緩めた。
「例の話を私の評判を下げるものとして熱心に広めている洲月が聞いたらがっかりするだろうな」
それから、すっくと立ち上がり、微笑みと真摯さをたたえた双眸で彼女の部下を見やる。
「君のような人間が我が国にいるかぎり、私の愛国心もまた不滅だよ」
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