第11節「砂漠の狐」
一九四二年五月二五日夜。
エルヴィン・ロンメルの心中には懸念と期待が同居していた。懸念は今、目の前の女が持ち込もうとしているものだが、期待ははるか東方の同盟国が持ち込むかもしれないものだ。
「君の言葉を要約すれば、これ以上の補給も増援もできない、ということか」
「残念ながら。上級大将閣下」
国防軍最高司令部情報課陸軍情報部の女性将校、アーデルハイド・ヴェンツェル親衛隊中佐はすました顔で言った。漆黒の親衛隊の制服はアーデルハイドのようなすらりと背が高く、腰が引き締まった体躯の将校には特に似合う。しかし兵隊は見た目で戦うわけではない。
「現在、我が帝国は東方生存圏の確立に向けて東部戦線に兵力及び物資を集中させているところです。既に閣下の軍団には充分な補給を行ったと判断しております。それに空軍力による支援は継続して行っておりますし、閣下のご不満が私には理解できません。今後のドイツ・アフリカ軍団の活躍には大いに期待しておりますが、これ以上の物資を望まれるのであれば、英第8軍および中東軍を撃破し、中東の資源地帯を自ら奪取されるのがよいのではないかと」
「つまり、補給が足りなければ敵に勝って得よということか」
「今年前半、閣下はそうされてきました。大変素晴らしいことです」
(誰が喜んでそうするか……。しかしこの女の言うことも尤もではある……)
もともとドイツ本国――それにイタリア本国も物資が豊かな国ではない。北アフリカの戦線を任されたときから、トリポリの拠点に籠もって独伊本国の補給を頼りに戦うよりも、敵を撃破した先に活路を見いだそうとしてきた。その意味では、状況は彼の戦略に都合の良いように進んでいるとも言える。だが、満足な補給をしてくれなかった本国の最高司令部がまるで自分の手柄のように得意げに言うのは気に入らない。
「それに、日本軍がアンマンまで来ております。英軍を挟撃すればいいでしょう。砂漠の狐とマレーの虎が英軍を挟み撃ちにするのだと、我が国では期待を持って見守っております」
(ふん……観客のつもりか)
おそらく――というよりも確実に、最高司令部にとってアフリカ戦線は当初ただのお荷物だった。総統にとって、この世界大戦は「東方生存圏」を得るために起こしたもので、フランスの侵略、英国への空爆すら、東方を侵略する間、西方から邪魔をされないために過ぎない。
しかし、その東部戦線が停滞している今、中東に侵攻した日本軍やアフリカのロンメルに事態打開を期待しているわけだ。当初は重視していなかった戦線に、都合が悪くなれば期待する。ご都合主義極まる。
「まあ、『止まれ』と言われないだけよしとしよう。昨年はひどかった。君たちは敵が隙を見せているのに進撃するなといっていた」
それに、とロンメルは続けた。
「エジプトを抜けばその先にはパレスチナがある。ユダヤ人を送り込むにはちょうどいいだろう」
彼としては本国の総司令部の歓心を買う発言のつもりだった。しかしアーデルハイドは奇妙な顔をする。
「はあ?」
「なんだ? 君たちはユダヤ人をドイツから追い出したいんだろう。だったら彼等の故国に送れば良いじゃないか。私はそもそも追い出す必要もないと思うが」
「……いえ。彼等に対する対処法はすでに今年初めの会議で決しております。閣下のご配慮は不要かと」
「――不要とは何だ。いいかね。米英は盛んに我が国がユダヤ人を虐殺しているというプロパガンダをやっている。君らのような過激派が総統の発言に悪い影響を与えている面も否めないが、ドイツ騎士道に対する大変な侮辱だ。ここはひとつ、パレスチナにユダヤ大管区をつくり、ユダヤ人を大管区の指導者にして、我がドイツがユダヤ人を尊重しているということを証明してやれば良いのだ。これは国益にもつながるはずだ」
「プロパガンダ? はあ? 閣下はご存じないので?」
アーデルハイドは、赤ん坊はコウノトリが運んでくるのだと語る生娘を見るような顔でロンメルを見た。
「何を知らないというのだ? 不愉快な言い方はやめたまえ!」
「――いえ。ご存じないのでしたら私からお教えすることは何もございません、上級大将閣下」
アーデルハイドは奇妙な作り笑いを浮かべつつ、こう言い添えた。
「閣下の米英のプロパガンダに対するご懸念は我々も共有しています。こうした悪質な宣伝に対しては、我が国も厳重に対処しなければなりません」
「まあいいだろう。全てはエジプトを抜いてからの話だ」
「ご理解ありがとうございます」
「もう一つ聞くが。君は情報部だが、日本軍の現状はどの程度把握している? 彼等は良いニュースしか言ってこないが、現状はどうなんだ」
「持って半年といったところです」
アーデルハイドは冷たく言い切った。
「日本軍はたかだか、陸軍一五〇個師団、海軍は戦艦一二隻、主力空母八隻程度しか保有していません。この程度の戦力で米英を相手に戦うのは荷が重すぎる。特に米国の工業力を考えた場合、その運命は風前の灯火と言わざるを得ません」
「それにしては快進撃だな」
「何らかの戦略あってのことだと思われます。……これはまだ国防軍情報部の中でも極秘ですが――日本軍が対英講和を模索しているという推測が存在します。米国が反撃してくる前に、英国を屈服させ、単独で講和してしまうのではないかと」
「……ふむ。裏切りという訳か」
「ゆゆしき自体です。しかし現時点に限っては、日本は重要で役に立つ同盟国です。慎重に分析しなければなりません」
そこで、言葉を切った。
「……幸い、彼等はペルシャ回廊を奪取し、今、エジプトにも迫りつつある。彼等が力尽きる前にこれらの戦果を我が国が奪えれば、我が国にとっては良い結果となるでしょう」
アーデルハイドの酷薄な笑みに、ロンメルは思わずぞくりとした。
「それでは、失礼いたします」
きびきびとした動作でアーデルハイドは去って行く。
(……ふん。君らはチェス盤の上でゲームをしているような言い方をするな。そのコマを一つ動かすのに、どれだけの血が流れるか想像もせん)
ロンメルは心中でそう思ったが、言葉には出さない。
(さて……状況は万全とは言えないが、現在に限っては悪くない。――予定通り、仕掛けてやるか)
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