第10節「強硬派との対峙」
山下大将の部屋を辞し、司令部内を進む。途中ですれ違う陸軍軍人は、皆山下大将が連れてきた将校だ。マレー・昭南を戦い抜いたであろう、精悍な顔つきの男性将校が多い。
「――貴重な男性兵を多く使うことになるな……」
二人きりになったとき、薫子は言った。
「寧ろ使ってください。婦人兵に守られるだけでは男子の名折れ」
玲次の言葉は小気味よい精神論だが、精神論だけでは国が終わる。
「それよりもPウィルスの件、山下閣下には伝えなくて良かったのですか」
問われて、薫子は首を振った。
「もう使わないと決めた。故に閣下に報告する必要はない。使わずに勝ち抜き、我が帝国の矜持を示すつもりだ。プリシラもそれで納得するだろう」
「――少佐殿がお決めになったことです。反対はいたしません。しかし作戦研究は済みました。報告書はいつでもご覧いただけます」
「使わないと思うが、一応、目を通しておこう」
玲次は黙り込む。薫子は足を止めた。つられて玲次も足を止める。薫子は玲次をじっと見つめる。
「――私が間違っていると思うか」
ウィルスを使うことは、味方の兵士の命を守るという意味では価値があるかも知れない。それに、いずれにせよ敵を殺すのは同じだ。手段を云々するのが正しいのか。そのような葛藤はあった。
「究極の次元で正誤の判断が付く者はこの世にいないでしょう。ただ、爆弾や火砲は許されるが生物兵器は許されない――そのような暫定的な倫理のある世界で我々は生きているだけです」
玲次は言葉を足した。
「そして、私も少佐殿の判断が妥当だと考えております。現世ではもちろん、あの世でも弁護いたしますよ、必要ならば」
「閻魔の裁判は厳しそうだがな。それに、ともにあの世に行くとは限らない」
「いいえ。行くと思います。常に少佐殿のそばにいますので、私だけ生き残るということはないでしょう。逆はあり得ると思いますが。上官を護衛することは副官の義務です」
ふ――と、薫子は微笑んだ。
「全てが終わり、まだこの身が現世にあれば、君の忠誠には必ず報いよう」
*
数時間後。
薫子が一人で夜風にあたりにカスル・シェビーブ城塞の屋上にてザルカ市街を眺めていると、後ろに気配がした。
「君か。アーバーダーンにいると思っていたぞ、洲月蓉華」
その名のとおり、蓮の華のような明眸皓歯な士官がそこに立っていた。
「私がいてはお邪魔かしらね、神崎薫子。おつきの殿方は今はいらっしゃいませんの」
相変わらず嫌みな言い方をする女だ。
「千登勢大尉のことか。情勢分析に忙しくてな。君は彼の所在を確認するために来たのか」
「ふん。あなた程度の女についている殿方のことなどどうでもいいわ。一言警告に来ただけですわ。このまま独逸との連絡線がつながれば、大本営はますます同盟を重視しますわよ。対英講和論など消え去りますわ」
「ご忠告痛み入る。そのために来たというわけか」
「ここで勝てば対英講和は消え去る。負ければあなたがた講和派の発言力は弱まり、やはり講和論は消え去る。勝っても負けてもあなた方の望む世界など来ないと申し上げているのです。陸軍の皇道派の将軍まで引っ張り出して戦わせたりして、諦めの悪いことですね。諦めて帰ったらいかがです?」
蓉華の揶揄にも一理ある。陸軍内では、北進論――つまり対ソを志向する皇道派は、南進を志向する主流派である統制派から疎まれていた。しかし西進論が主流となり、更に薫子の作戦により「ペルシャ回廊を打通してソ連と対峙する」という可能性が見えてきたので、俄に皇道派との連携の余地が出てきたのだ。もちろん、海軍穏健派は講和が目的なので、本質的な意味では全く不一致なのだが。
そんな事情はもちろん分かった上で軍中枢の政治工作を弄しているのが薫子の立場だが、そんなことはおくびにも出さず、薫子は腕を組んで一歩近づいた。薫子の方が上背があるので蓉華は見上げる形になる。
「な……なんですの」
「君は作戦畑が長い。君の後学のため、我々情報部の分析のやり方というものを一つ教えて進ぜよう。我々は誰が話したことであれ、言葉の内容をそのまま受け取るようなことは絶対にしない。誰が、なぜそう言ったのかを考える。強硬派の君が、わざわさこのアンマンまで来てこの時局に穏健派の私になぜそれを言うのか。君の言うとおり、このまま情勢が推移しても対英講和が実現しないなら、静観していればいいじゃないか。なぜそうしない?」
「な……」
「私の分析はこうだ。講和論が消え去るということはない。独逸が強大になれば、我が日本との対立は避けられないからだ。陸軍の秋丸機関の分析は知っているだろう。資源に乏しい独逸だが、国力をこの戦争に備えて涵養してきた。その国力を存分に使って初戦で勝利し、ソ連及び中東、さらには南阿の資源帯を手に入れることで、物量豊かな連合国とも伍することができるようになる、というものだ。現状、秋丸機関の分析の通りに独逸は戦いを進めている。枢軸国としての勝利のため、我が国もそれを支援してやっている形だ。このまま情勢が進めば、独逸は連合国とも伍することができるようになるだろう。そうすれば、英国は我が国と講和することが戦略的な選択肢として浮かび上がってくる……君らにはその未来が見えている。だから妨害したいんだ。違うかな?」
「――ふん。ただの憶測の積み重ねですわ」
予想された答えだった。薫子は気にせず言葉をつける。
「いいだろう。しかし、君たちに足りないのはそうなったときの情勢分析だ。いいか、ドイツが連合国と伍する立場を手に入れたら、我が国はもはや用無しだぞ。そして我々はアーリア人ではない」
蓉華は薫子をにらんだ。強気なその顔には、しかし、居心地悪そうな感情も混在していた。
「――対英講和というのは、相互不信の日独が、どちらが先に相手を裏切るかという戦略の話なんだ。それ以上でも以下でもない。今は戦勝に浮かれている君らも、いずれ気づく」
「――話を返すようですけど、あなたが今それを私に言う理由は?」
返しとしては及第点だ。
(ふん。腐っても秀才だな)
薫子は微笑んだ。
「君も、強硬派もみな日本人だ。私は日本人が戦略を誤り苦境に立たされるのは見たくない。君らも状況を理解し協力してほしいと願っている」
「お、同じにしないでくださいまし! あなたなんかと、この私を……!」
薫子を振り払うようにつきとばし、蓉華は屋上を去って行く。
薫子は心中、ため息をついた。
(つまらない人間だが、あの剣幕では必ず我々穏健派の作戦を妨害してくるだろう。放置しておくとまずいな……。さて、どうするか……)
陸軍皇道派は非主流派なので、実際にソ連との開戦論を唱えだしたら統制派に協力して押さえ込むつもりでいたが、海軍強硬派は穏健派と勢力が拮抗している。策を練らねば対英講和という方針そのものが瓦解する懸念があった。
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