第9節「マレーの虎」
1942年4月15日のアーバーダーン攻略後、日本軍は陸軍一〇個師団に相当する兵力を徐々に整えると、五個師団を以てペルシャ回廊を北上し、テヘランを目指した。テヘランを目指す日本軍五個師団には、イラン義勇軍をも伴い、彼等は「イラン解放軍」を名乗った。
一方、残りの五個師団は、チグリス・ユーフラテス川を遡行し、五月初旬には中東に駐留する英イラン・イラク軍の司令部であるバグダッドにて英軍と対峙することになった。インド洋を占領したとしても、地中海の制海権は連合軍にある。バクダッドは英国本土からの豊かな補給に支えられ、防備を固めていた。
しかし、制空権に関しては日本に分があるようであった。アーバーダーンを根拠地として海軍航空隊は盛んにバクダッドを爆撃した。英空軍の主力戦闘機スピットファイアは果敢に応戦したが、格闘戦能力においてゼロ戦にはかなわず、バグダッドの空軍基地や砲撃陣地なども爆撃にさらされ、徐々にバグダッドを守る英軍の戦力は削られていった。
一方の日本軍は、バクダッドを包囲する三個師団を残し、残りの二個師団を以て西進、海軍航空隊の制空権の下、5月中旬には英領トランスヨルダン首長国の首都、アンマンに到達した。このような素早い進撃には複数の理由があった。まず、現地の英イラン・イラク軍の兵力のほとんどがバクダッドに集中しており、そこを包囲されたとき、日本軍の進撃を阻止する兵力が存在しなかったこと、また、日本海軍飛行隊に加え、陸軍飛行隊も中東戦線に到達し、二ヶ月前にマレー・蘭印戦線で行ったのと同様、整備兵を機体に乗せて敵軍の飛行基地を占領すると同時に整備も行い、敵の戦闘機から燃料を抜いて補給も行い、さらに先に進むことで、制空権を素早く奪ったこと――この二つである。
より大きな戦略的観点から見れば、日本軍が中東に異常な戦力集中を行い、本来ならば太平洋方面で米国と対峙するはずの豊富な戦力を全てインド洋・中東戦線に投入、対米戦は捨て石と決めたハワイの飛虎義勇艦隊に任せてしまっていることが挙げられるだろう。これは、一九四一年一二月八日に行われた真珠湾の奇襲から米国が立ち直るまでのわずかな間隙を縫って英国に全攻撃力を集中する地球規模の各個撃破戦術と見做すこともできた。
アンマンはさすがに地中海に近く補給も豊かで容易には落とせなかったが、アンマンに対峙する戦線を構築できたことで、すでに日本軍は目的を達成していた。
すなわち、エルヴィン・ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団と連携して、エジプトの英軍を挟撃する態勢を整えることである。
1942年5月中旬。この時期、ドイツ・アフリカ軍団はリビアのトブルクを攻略すべく、連合軍と対峙していた。ロンメル軍は精強であったが、英軍は豊富な航空戦力を以て制空権を維持し、陸上では撃退されつつも、反撃の芽を育てている――つもりであった。
その戦略が、アンマン戦線に陣取る日本軍航空隊によって打ち破られるまでは。
*
一九四二年五月二〇日。英領トランスヨルダン首長国首都、アンマン市郊外、ザルカ市。旧市街に位置するカスル・シェビーブ城塞を日本軍は占拠し、司令部としていた。石造りの城塞は、日本人には慣れないが、砂漠の中でひんやりした空気を保ち、意外と居心地が良い。
(――尤も、ここに居着く気はないが――)
薫子は思う。彼女は新しく日本軍司令官に任命された人物が待つ司令室に、玲次を伴い訪うところであった。その人物は、ザルカ市の元英軍ドーソン空港に今日の午後、到着したばかりだ。
「山下閣下。軍令部神崎少佐ならびに千登勢大尉です」
「――入ってくれ」
内側から穏やかな声が聞こえる。猛将と聞いていただけに、その声音にやや驚いた。
「失礼いたします」
玲次とともに入室し、敬礼する。相手は上背があり、恰幅もある。薫子は女性の中では長身の方だが、流石に少し目線を上にしないと目を合わせられない。
「おお、海軍さんには別嬪のスパイがいると聞いていたが、本当のようだな」
「失礼ですが、このたびは作戦の話で参りました」
軽く受け流す。すると相手は即座に生真面目な顔になった。
「そうだな。許せ。借り一つだ。それで、状況は」
謹厳な顔で問う。
山下奉文大将。通称『マレーの虎』。四ヶ月前――一九四一年一二月から四二年二月にかけて、マレー半島を電撃的に攻略し、シンガポールを陥落させた偉業を成し遂げた将軍だ。今回、第四艦隊の紘羽司令官の要請で彼が指揮する精鋭第25軍所属の三個師団の中東派遣が決定し、先行して投入されていた一〇個師団に続き中東派遣軍の陣容は一三個師団に膨れ上がっていた。イラン方面はイラン義勇軍によって兵力は増強されていたため、彼が率いる二五軍三個師団は全て、アンマンに先行していた二個師団と合流し、計五個師団の戦力がアンマンに駐留しつつある。
「は。飛行第64戦隊および翔鶴飛行隊を主幹とする陸海合同航空隊は、ドーソン基地を拠点にスエズ運河の英軍補給線を連日攻撃、一方で先行した二個歩兵師団は、アンマンの英軍との戦闘に備えここザルカにて陣地構築を進めております」
薫子は地図を広げ、スエズ、アンマン、ザルカにそれぞれ配備された彼我の兵力と、補給船攻撃による戦果の数値データを示しつつ説明した。
「――簡潔な説明だ。さすがは情報将校だ。そういえば君だったかな。陸軍参謀総長閣下に啖呵を切って一〇個師団をもぎ取ったのは」
山下の言い様に、薫子は苦笑した。
「ご説明申し上げただけです。西進論で行くと合意したのだからそれに従い兵を出すべきだと」
「はっは! 参謀総長も目を白黒させたに違いない」
山下は再び笑い、それから作戦図に視線を戻す。
「しかし――我が軍は消極的だな」
「ドイツ・アフリカ軍団の支援のためには、まずは英軍の兵站戦を破壊することが肝要――というのが第四艦隊が大本営に上申した作戦の趣旨でした」
「それならば、わざわざ私を昭南から呼ぶ必要はなかった。違うか?」
「ご慧眼おそれいります。ロンメル軍は五ヶ月前、トブルクから大きく後退しましたが、勢いを盛り返し、再度トブルクを包囲中です。しかしその攻勢には自ずと限界があります。その限界は兵站に起因するものだと判断し兵站線を攻撃してきましたが、今回、より大胆な局面打開が必要と判断しました」
「そうだ。兵站線の破壊というのは、敵の物資に限度があったり、物資の輸送路がチョークポイントに限定されていたりする場合には有効だが、いずれも今回はあてはまらない。米軍の物資は我々のような貧相な国家からみれば無限と思えるものだし、スエズだけでなく西アフリカからも物資輸送は可能だ。物資を受け取る存在――エジプトの英軍そのものを撃破しなければ、意味がない。そのためには攻勢が必要だ――と判断して私を呼んだわけだな」
伝えたいことは伝えられたようだ。薫子は満足して頷いた。
「よろしい。では私の考えを述べる。マレーでは銀輪を使ったが、流石に中東の砂漠でそれは無理だ。よってバグダッドで鹵獲した英軍のトラックを有効活用させてもらう。兵隊をできるだけ素早く動かし、アンマン、エルサレム、ヤッファを攻略し、そしてスエズへと進撃する構えを見せる。この動きに英軍は対応せざるを得ないだろう。彼等が慌てて動き出したところを包囲殲滅する」
「――できますか?」
「――全身全霊を以て勝利に尽くすだけだ。これは精神論だが、物質的な面で言えば、制空権を得ていること、機動力を最大限に活かし主導権を握り続けることで勝ちの確率は高まるだろう。もうひとつ。マレーでは物資不足に悩まされたが、今回は豊富な油田が後背にある。これで負けたら無能者の誹りを免れんよ」
「昭南攻略に大功ある閣下を再び第一線にかり出したこと、誠に申し訳ございません」
玲次が言い添えた。
「何を言う。中央に疎まれる皇道派の私に、次の使い道を考えてくれたのだ。そのおかげで大将にまで昇進させてもらった。――感謝こそすれ、恨む余地はない。将軍の仕事は戦うことだ。戦うなと言う方が失礼というものだぞ、大尉」
「これは失礼しました」
「はは。これで貸し借りなしだな」
「ありがとうございます。部下が失礼しました」
「はっは。よい。貸し借りを作ってこそ良い関係が作れる。海軍さんとはうまくやらねばならんと思っていた。アーバーダーン攻略、見事だった。」
そう哄笑した。豪放磊落とはこのことだ。だがすぐに謹厳な顔に戻る。
「マレー・昭南攻略に並び立つ戦果だ。我々の戦果をうまく活かしてくれた。靖国の戦友たちも大いに感謝しているだろう」
彼は夜のザルカ市街を眺めやる。制空権を支配している現在、灯火管制は実施していない。その明かり一つ一つが、失われた戦友――部下たちの魂であるかのように。
それから我に返ったか、薫子に視線を戻す。
「リビアのロンメルはどうしている?」
「トブルク前面の英軍ガザラ陣地の東方に兵力を集中させているようです。西方から攻略するのでしょう。推測ですが」
「推測だけか。我が軍にも詳細を教えていないということだな」
「連携を打診しているのですが、スパイに漏れては困る、の一点張りで」
「正しい判断だ。奴さんがやりたいことは、兵力の配置を見れば把握できるさ」
そして、日本軍が把握しているガザラ戦線の兵力配置図をじっとみた。
「ふうむ。さすがは『砂漠の狐』だ」
彼はにんまりと笑った。そして薫子、玲次を順に見る。
「海軍さんの意図は理解した。その通りに作戦を進める。詳細は一任してもらった、ということでよいのだな?」
「翔鶴航空隊、海軍陸戦隊の指揮権も含め、閣下にお預かりいただければと」
彼はにやりと笑った。
「素晴らしい。では好きにやらせてもらう」
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