第8節「ザーヘダーン空襲――吸血姫の思惑」

 イラン。ザーヘダーン市。ザグロス山脈の北、イラン高原の東部に位置するこの地に、インドのジャグプールからハイデラバードを経由して多量の兵員と貨物が集積しつつあった。ここからはトラックが輸送を担い、イラクまで続く鉄道駅が存在するケルマーンまでの五〇〇キロメートルの輸送が行われる。

(最低でも一〇個師団の輸送は行わねばならない……日本軍はそれぐらいの輸送を行うはずだ)

 英イラン・イラク軍兵站参謀、ミリー・バクスター中佐は、ザーヘダーン英軍本部のテラスから、眼下の練兵場に続々と送られてくる物資をにらむように見つめながら、腕を組んでいた。

 日本海軍のアーバーダーン占領を受け、中東に駐留する英イラン・イラク軍には、新たに英印軍から五個歩兵師団と五個機甲師団が送られることになっていたが、そこには巨大な問題があった。

 海上輸送が使用できない、ということである。

 アラビア海及びペルシャ湾を我が物顔で遊弋する日本海軍第四艦隊の存在によって、インドの主要港からイランの主要港への海上輸送路は完全に切断された。のみならず、海岸ぞいの輸送路も敵の海軍航空隊の攻撃により危険であるので、かなり内陸の輸送網を使用せざるを得ない状況に追い込まれている。

 悪いことに、ザーヘダーンからケルマーンまでは鉄道が整備されておらず、トラックが主な輸送手段となる。歩兵ならばそれでよいが、機甲師団の装備――つまりは戦車を輸送するにはこれは厳しい条件だ。

(こうしている間にも、日本軍は悠々と輸送船で兵隊をイランに送っている……)

 ミリーは歯がゆい思いで考えた。

「落ち着け。ミリー・バクスター。セイロンは敵に取られたが、ダージリンもうまいぞ」

 司令部のテラスから声をかけられ、ミリーはじろりと後ろをにらんだ。そこには、陶磁器のごとく透き通る肌を持つ、プラチナブロンドの髪の士官がいた。優雅に紅茶を飲むその姿は、そこだけが砂塵舞う戦場ではなく、ロンドン郊外の閑静な邸宅のテラスになったかのようだ。

「プリシラ・ブラッドフォード。君は我が国の苦境が分かっていないようだな? この状況で落ち着いていられるとは」

 皮肉を込めて言うと、その士官――プリシラはたっぷり一〇秒は紅茶を味わった後、ミリーを見上げた。

「国の苦境――か。お主は視野が狭いな。米国の工業力をもってすれば、数年で状況は覆る」

「その前に枢軸が中東とインドを占領してしまいかねん! 中東の資源とインドの兵隊を手に入れたら、枢軸は無敵だぞ。なんとしても我々は日本とドイツがイランで手を結ぶのを阻止しなければならん。エジプトで手を結ぶこともだ!」

 プリシラはゆったりと頷いた。

「まあそうだが。そのとき枢軸は一枚岩だろうか?」

「なんだと」

「日本とドイツはそれぞれ何のために戦っているかということだ。ドイツはアーリア人至上主義に陥った。だが日本が戦う理由は市場が欲しいだけだ。我々と同じようにな。市場の取り合いなら妥協の余地はあるし、寧ろ自民族優越主義が共通の敵にすらなる」

「……日本が自民族優越主義でないとどうして言える」

「程度問題だ。我々も帝国内ではイギリス人を優先しているが、インド人にも教育を与え、帝国内での活躍の道を開いている。スラブ人を奴隷化しようとするドイツとは違う。日本人は我々に近いのではないか……と、実績を勘案して思っている。見極めは必要だが」

「ふん。だとしても今はドイツの同盟者だ。ドイツと同じものとして扱うしかない」

 プリシラは黙って小さくつぶやいた。

「頑固者め。状況によって分からせるしかないようだな」

 つと立ち上がる。

「どこへ行く」

「お主ら強硬派との議論は、時がお主らを分からせるまで待つことにする」

 それから空を見上げる。

「……時は来つつあるな……」

 それは悲しそうな顔であったが、その向こうに光明を見いだしているようでもあった。

「Post Nubilra Phoebus――」

 彼女はラテン語で小さくつぶやいた。

 瞬間、ミリー・バクスターは轟音を耳にした。

 空襲警報のサイレンが鳴り響く。

「なっ!」

 ザグロス山脈の山間から、次々と飛行機の機影がわいてくるように見えた。レーダーは何をしていたのか。なぜ接近に気づかなかったのか。あふれる疑問の答えの一部は、敵機が山麓ぎりぎりを飛行していたことにあるのかもしれない。だがミリーが考える暇もなく、耳障りな音とともに爆弾の投下が開始されていく。機影には見覚えがある。爆装した九七式艦攻と零戦だ。

「くそう!」

 無駄を知りつつ、腰のピストルを抜いて上空の敵機を撃とうとする。

「馬鹿。やめろ。こっちに来い」

 意外に強い力でプリシラに腕をつかまれ、ミリーは司令部の中に引きずり込まれた。

「何をする!」

「ここにいろ。目の前で人間を死なすのは好かん」

 強引に司令部の地下壕に連れ込まれる。そこにいる複数の英兵、インド兵の中で、ミリーはプリシラに抱きすくめられるような格好のまま、呆然と轟音を聞いていた。

(……馬鹿な……なぜ我が軍の監視網を逃れて爆撃ができるんだ……何が起こっているんだ……)

 


 九七式艦上攻撃機がザーヘダーンの多量の物資と兵器を爆撃するのを旋回して見守りつつ、栗花落桜子はザグロス山脈の上にまで高度を上げた。

(見事だな、軍令部殿)

 この作戦は薫子の提出した戦略の一環である。Pウィルスをできるだけ使わずに戦いを有利に進めるため、インドから中東への輸送路の破壊が特に重要と考え、チッタゴン、カルカッタからコーチン、ムンバイまで、インド主要港を重点的に爆撃・破壊しつつ、内陸輸送路への爆撃のため、英軍が防空監視員として雇っているインド・イランの兵士らにもスパイを派遣して徐々に寝返らせていた。

イランに張り巡らされた防空警戒網は、ほとんどインド兵が担っていたのだ。しかし、ここまで英国が追い詰められた以上、英国を裏切り枢軸国に協力した方が良いと判断するインド兵は日に日に増えていた。そういった裏切りの積み重ねが、こうした内陸への爆撃の成功率を飛躍的に上げていた。

(もともと、数千万のイギリス人で数億のインド人を支配しようとするのが無理だったのだ。支配を継続しようとするイギリスと、支配からの解放を約束する日本……解放の目が大きくなれば、インド人が日本になびくのは当然のことだ)

 しかし、「解放」の約束が空手形に終わらないためには、英国を倒すだけでは不十分であることも、桜子は自覚していた。

 英国を倒したあと、なだれ込んでくるかもしれぬドイツは果たして「解放」を約束するだろうか。日本が約束に対して誠実であろうとするならば、そのことも考えねばならない時期に来ているように感じられた。


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