第7節「昭南大本営空襲」
「きたか……命知らずども……」
飛行第244戦隊――通称「近衛飛行隊」第3飛行隊隊長、栗花落菊子少佐は、スマトラ島上空からマラッカ海峡に侵入してくる敵の爆撃機隊を視認した。ちょうど夜明けの頃。朝日に照らされた敵機はよく見える。
スマトラ島に多数存在する高射砲陣地からの攻撃を受け、また飛行第59戦隊からの執拗な追撃を受けて、当初一六機と報告されていた敵機の数は九機まで減っている。
しかし、それでも敵機は進路を変えない。相当の覚悟があるとみて良いだろう。菊子は高度を高く取り、敵編隊の後ろ上空につけた。
愛機「隼」の通信機の感度は良好。時として使い物にならなくなるが、今は使えるようだ。
「全機突撃! 命知らずの勇者にふさわしい『もてなし』をしてやれ!」
命じると同時に、操縦桿を倒す。しかし、B25も相当な覚悟のようだ。機銃を盛んに放ってきて、なかなか近づかせてくれない。
(当然だな……我が帝国の首都を突こうという部隊だ。覚悟も練度も相当なものだろう)
菊子は思った。
第244飛行隊はもともと、東京近郊の調布飛行場を拠点としていた。それがチャンギ飛行場まで進出したのは、無論大本営が昭南に移転したことが理由である。移転は一九四二年三月に行われ、それに伴い昭南市は大日本帝国の「臨時首都」の意味合いを帯びることになったため、防衛兵力の増強が行われたのである。
大本営が東京以外に設置された例は過去にもある。日清戦争の際の広島大本営がそれだ。前線の指揮を執りやすくするためというのがその理由であったが、「西進論」に国運を賭けた現在も同じ理由で移動している。帝国議会も昭南市内に設けられた仮議事堂で開会されており、市内は東京と見まがうほど日本人が増えていた。
つまり、今ここが爆撃で破壊されては、日本帝国の継戦能力を大いに損なうはずである。
菊子をはじめ、複数の戦闘機が執拗に敵機の進路を妨害し、撃墜のチャンスをうかがう。敵も迫ってくる戦闘機をかわしながら、なんとか昭南市上空に到達しようと苦心している。
(……無理をしすぎたな)
B25「ミッチェル」の最も優れた点は、爆撃機でありながら時速四三五キロメートルという高速を誇るということだ。隼の速度は時速四九五キロメートル。ほぼ変わらない。つまりB25を発見してから迎撃に上がっていては、まず追いつけないのだ。高射砲の照準をつけるにも、敵がどの方向からやってくるかといった事前情報がなければ難しかったに違いない。
だから、奇襲であれば昭南爆撃は成功していただろう。戦闘機も高射砲も、逃げていく敵に追いすがり、撃つという形になり、敵機の損害も小さかったはずだ。
(――しかし、そうはならなかった)
スマトラ、ジャワ、ボルネオ、フィリピン、ビルマ、仏印、マレー、そして同盟国たるタイ王国。昭南を囲むあらゆる地域が味方である以上、敵の奇襲は不可能だった。
治安の悪さを押して「昭南遷都」を断行した大本営の英断か。あるいはただの天佑か。いずれにせよ、機会が目の前に転がっているのだ。つかまない手はない。
(申し訳ないが、殲滅させてもらう)
B25ミッチェルは、むらがる戦闘機に抗しきれず、一機、また一機と撃墜されていく。
まるでシャチの群れに襲われる鯨のようだった。
そのとき。
鯨のうちの一頭が、おもむろに高度を下げ始めた。昭南市は目の前。爆撃をする態勢ではない。
その進路を目の当たりにして、菊子は愕然とした。旧シンガポール総督公邸――現在は仮皇宮として用いられている建造物だったからだ。
「おのれ!」
菊子はエンジンを全開にしておいすがり、真後ろからB25に機関銃を浴びせた。ぱっとB25の翼は火を噴き、それでもなお仮皇宮に向けて進路を変えない。
そこに、B25の正面から別の隼が迫った。降下していくB25に対抗するように、徐々に上昇しながら真正面から突っ込んでいく。B25も無論進路を変えない。
(――やめろ……!)
どちらに向けて言ったのかは分からない。しかし、勇敢な飛行機乗りの命が一度に失われようとしているのは確かだった。
激突。
目の前で巨大な炎の塊が出現する。
操縦桿を倒して回避する菊子。
そこに、ひとつだけ落下傘が見えた。見覚えのある形状――日本軍のものだ。
(……少なくとも、一人は助かったか……)
菊子は小さく安堵した。
そして思いをはせる。
今はアーバーダーンに駐留しているという、海軍の飛行機乗りの双子の姉も、同じ思いをしているのかと。
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