第6節「パレンバン防空戦」

 一九四二年四月一八日早朝。

 スマトラ島中部パレンバン製油所。日本陸軍第25軍隷下防空第一〇一連隊第一中隊の駐屯地にけたたましい空襲警報のサイレンが鳴り響いた。

「総員配置につけ! 繰り返す! 総員配置につけ!」

 じっとりとした夜明けの空気の中、那茅舞(ルビ:なかや まい)一等兵ははっと飛び起きた。訓練で鍛えられた彼女の体は、何も考える間もなく一分もたたぬ間に胸にサラシを巻き、軍服を身につけ、脚には脚絆を巻いて靴を履き、兵舎を飛び出していた。

「整列! 遅いぞ那茅!」

 第一中隊第一小隊の兵舎の前には、すでに数十名の名の婦人兵が整列していた。

「は!」

 小隊長の叱責に反射的に答える。第一小隊は全て婦人兵で構成されており、小隊長も女性だ。そのきびきびした様に舞はあこがれており、叱責されても特に不満は感じない。

「すぐに陣地へ迎え! 各分隊は連隊本部からの指示に従い各個に対空砲撃を開始せよ!」

 舞の「持ち場」は第一製油所を見下ろす小高い丘の上にある。朝日はまだ上っていないが、夜はわずかに白み始めている。照空隊たる第七・八・九中隊が盛んにサーチライトを上空に向けている。

 九九式八糎高射砲。ドイツ・クルップ社が設計した海軍用の高性能高射砲だ。高度一万メートルの敵まで攻撃できる。舞の持ち場は仰角のハンドルだ。

「おい、那茅。サラシがずれてる」

 分隊長の逸見紀代(るび:へみ のりよ)伍長が、舞の襟首をつかんだ。

「暑いんだからサラシだけにして、あとは脱いじまえ。男なんて見とらん」

 乱暴な言葉遣いだ。紀代自身はすでに上半身サラシだけになっていた。返事をするのも面倒であったが、一応上官である。

「は!」

 ――と、一応返事しておく。

 ただ、紀代は小隊長と違い、生活態度がだらしなく、あまりあこがれを感じない類いの女だった。酒癖が悪く、酔うと部下に絡んで尻を触る、胸をもむなど散々に狼藉を働く。しかも男癖も悪く、ほかの小隊の男と同衾して懲罰房に入れられたこともある。分隊長は本来は軍曹なのに伍長どまりなのは過去に降格されたからだという。なぜ未だに分隊長の地位にあるのか大いに疑問であった。しかも、師範学校出の舞を「インテリ」だと毛嫌いしている。それも、舞が紀代を嫌いな理由の一つだ。

(とはいえ命令だ。仕方ない)

 舞は軍服を脱いで丁寧に地面に置いた。サラシをぎゅっと締め直し、仰角のハンドルにとりつく。

「連隊本部より連絡! 方位南南西より敵機! 数一六! 第一小隊は仰角80を基準に照準を合わせ、砲撃を開始せよ」

 高射砲陣地に据え付けられた通信機にとりついた分隊員が大声で伝達する。紀代が高射砲の照準器を除きつつ、指示を与える。

「仰角81! 方位南南西……202度1分3秒!」

 仰角担当の舞は迅速かつ慎重に指示された角度に合わせる。舞の座る仰角操作席ごと高射砲が回転し、方位角担当の兵隊も素早く方位を合わせているのが分かる。

「仰角用意よし!」

 舞は叫んだ。

「方位角用意よし!」

 方位角担当の兵隊も叫ぶ。

「よろしい……。すこし待て。――撃て!」 

 紀代が命じた。

 衝撃。轟音。

 訓練でいつも撃っているので慣れたものだがそれでもこの轟音は耳に響く。

「バンドンの飛行第59戦隊が迎撃に上がってきてくれているな……」

 紀代がつぶやいた。

「59戦隊? 加藤隼隊はいないのでありますか?」

 分隊の誰かが軽口を叩く。この緊迫した状況で余裕を感じさせるのは、さすがに訓練を積んだ兵隊は違う、と舞は思った。

「飛行第64戦隊は今はビルマ戦線だ。贅沢を言うな。59戦隊も歴戦の勇士だぞ」

 紀代は言い、続けて指示を出した。

「仰角82。方位そのまま……撃て!」

 再び轟音。

「おい、当てたぞ!」

 紀代が突然叫んだので、舞は思わず上空を見上げた。上空四〇〇〇メートル。複数のサーチライトに狙われる芥子粒のような敵機だが、一つが徐々に隊列を離れているようにも見えた。

(……本当だ……ひとつ落ちてる……。けど本当に小隊長がやったんだろうか?)

 というのは、一六機に対してすでに一式戦闘機――通称「隼」が襲いかかってもいたからだ。敵の編隊は乱れつつあったので、「隼」の一機が当てたのだとしてもおかしくはなかった。

「おい、那茅。今疑ったな?」

 紀代がじろりとにらんでいた。

「いえ」

「まあいい! あとで連隊本部から戦果の評価が下るだろう。それまでのお楽しみだ! 次!」

 再びの方角指示。轟音。

 舞はじっと砲弾の飛んだ方角を見ていた。敵機をかすったように見えた。

(本当に当てているのか……?)

 照準器を除く紀代の横顔を見る。照準器を除くときだけは、紀代の顔は真剣そのもの――というよりも獲物を狙う猟犬じみた鋭さがあった。

(……どんな人間にもそれなりの使い道があるということか)

 舞はちらりと思った。なんとなく人生の真理を得た気になったが、それを持ち帰るまで生き残ることがまずは必要だと思い直す。

 仰角はすでに90度近い。

「敵機! 空襲を開始!」

 分隊の兵士が叫ぶ。

 ひゅるるるる……という耳障りな音が鼓膜に届く。

「ようし。狙いやすくなった」

 紀代は逆ににやにや笑っている。

(気持ち悪い……何がおかしいんだ?)

「仰角89。方位270度5分……撃て!」

 再びの轟音。ぱ、と、上空の敵機の翼が光った。いや、燃料に引火したのだ。すぐさま落下していく。

「見たか。爆撃機ってやつは空襲を始めると一直線に飛びやがる。進路が予想しやすくなるんだ」

 しかし、紀代ほど上手い高射砲指揮官はなかなかいないらしい。一六機の敵機は三機減らし、一三機となったまま、赤紫の明け方前の空を北へさらに進んでいく。

(狙いはパレンバンの製油所だけか……それとも)

 敵機は日本軍の制空権のど真ん中に突っ込んできた形だ。パレンバンだけでも荷が重いはずだ。しかし敵機は更に強い意志を感じさせる動きで、どんどん北へ進路を取る。

「ありゃあ昭南を狙うつもりだな」

 紀代がつぶやいた。

「大本営ですか? そんな無茶な」

 パレンバンを筆頭に、スマトラ島にはハリネズミのように防空陣地が整えられ、航空基地も整備されている。もう不意打ちは効かない。昭南にも緊急連絡が行っているころだ。虎視眈々と待ち構える防空戦闘機と高射砲の群れの中にあの爆撃隊は突っ込んでいくことになるだろう。

「まあ……全部落ちるだろうな……敵さんの事情はなんとなく分かるが……祈ってやれ。奴らも哀れな兵隊なんだ」

 ムシ川河畔の製油所を見た。一部の製油所が燃えているが、駆けつけた消防隊が集中的な消火を行っている。

 急に肩を捕まれた。

「おい那茅」

 紀代だ。

「……なんでありましょうか」

「少しは私を見直したか?」

「分隊長殿の射撃の腕は素晴らしいものであります」

「本心だろうな?」

「――乱暴狼藉がなくなったら、もっと見直します」

「こいつめ!」

 ガツンと頭を小突かれた。

「分隊長殿。今日は那茅も仰角の調整でなかなかがんばりましたよ。少しは優しくしておやりなさい」

 先輩兵士の誰かが言う。

「うるさい! いいか那茅! 今日は飲むぞ! 付き合えよ!」

 そこに別の声が飛んできた。

「おい、逸見伍長! また乱暴狼藉か」

 その鋭い声は舞の耳に心地よい。

「小隊長殿!」

 小隊長、神崎礼子中尉の姿を認め、舞は敬礼する。紀代も渋々敬礼した。

「兵を指導していたのであります!」

「体力が余っているなら私が相手になってやろう。そもそも逸見伍長、君は今日の殊勲賞だ。二機撃墜、立派なものだ。つまらんことで降格になるなよ?」

「は! 光栄であります」

 また小さく舞を小突く。

「見たか」

「那茅、来い。指導ならば私がしてやろう。爆撃隊は北方へ向かった。小隊は警戒体制解除、正午まで小休止だ」

 さきほどまでぴんと張り詰めていた空気が一気に弛緩した。

 礼子が来いというので、舞は彼女について行く。

(さすが小隊長殿だ。ただ歩いているだけでもぴんと背筋がのびていて、所作もきれいだ)

 彼女の後ろについてくるだけで舞は嬉しくなっていた。

「よし。このあたりでいいか」

 平たい石に腰を下ろし、隣を指し示す。舞は素直に座った。

「一本、やるか?」

 恩賜の糖菓子を差し出してくる。

「は! 光栄であります!」

 本当に光栄――というか嬉しかった。舞はこういう甘いものには目がない。

「那茅。大丈夫か。逸見は気の荒い女だ。君とは馬が合わんだろう」

「いえ、ああいう人にも使い道があると今日分かりましたので、うまくやっていくつもりです」

 礼子はくすくすと笑った。およそ軍人らしからぬ笑い方だが、瞳のくりりと丸い彼女には、そういう女学生のような笑い方の方が似合っているように思えた。

「ご心配、ありがとうございます」

「そうか。分かってしまったか。許せよ。現場の下士官はやはり軍の背骨でな。士官学校出の小娘にはこういう形で気を遣うことしかできん」

「いえ、じゅうぶんであります!」

 ならばよいが、と礼子はつぶやき、それから北の空を見上げた。

「哀れなものだな」

 礼子が北の空を見やって言う。

「――爆撃隊が、でありますか」

「ああ。しかし君にも分かっていると思うが、米国の工業力は強大だ。さっさとこの戦(ルビ:いくさ)を終わらせねば、我々の方があの兵隊たちと同じ運命になる。有利に戦えるのはこの一年ぐらいだろう」

「は」

 舞は短く答える。彼女もそのことはよく分かっていた。

「私は軍令部に姉がいてな……。薫子というのだが、連合軍と講和する方法をいろいろ考えているらしい。昔から頼りになる姉だったが。ああいう人に早期講和を頼るしかないんだろうな」

「――小隊長のお姉様、ということは素晴らしい人なのでしょうね」

「褒めでも何もでんぞ。いや、糖菓子は渡したが」

 彼女も胸ポケットから糖菓子の箱を取り出し、一本くわえた。

「薫子ねえさんは、昔から私たち凡人には見えないものが見えるようなお人でな、世の中の動きを流れとしてとらえ、全てを考慮した上で構想を練ることができる人だった。しかしその分、足下に注意の向かない人でもあった……。今はもう、そんなこともないと思うが……」

「大丈夫ですよ。軍令部は大きな組織です。足下を見る人もいますから」

 礼子はくすくすと笑った。

「まあ、そのとおりだ。取り越し苦労をするのが私の性分のようだ」

 それから、軍服を脱ぎ、舞の肩にかけた。

「戦闘時は良いが、汗は冷える。気をつけろよ」

「は!」

 舞は顔がほてるのを感じた。

 それから視線は自然と上に行く。

(……本当に、早く終わってくれれば良いが)

 戦争がいつ終わるのか。それを決めてくれるかもしれない、礼子の姉たち――はるか数百キロの北にある昭南市の大本営を、舞は思った。

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