第4節「魂のあり方」
(とは言ったが……)
深夜。
アーバーダーンに停泊する翔鶴の後甲板にて薫子は砂糖菓子を口にくわえていた。
第一次世界大戦では塹壕戦を突破するため盛んに毒ガスが使われたが、一応、一九〇七年のハーグ陸戦条約第二三条では毒の使用は禁止されており、また一九二五年のジュネーヴ議定書でも、化学兵器、生物兵器の使用は禁止されている。ただし日本帝国は、これを署名はしたものの批准はしていない。Pウィルスも生物兵器の範疇に入るはずだ。
(とはいえ、ジュネーヴ議定書は世界に通ずる倫理のあり方を示す。それに違反する国を国際社会は良い目では見ないだろう。圧倒的な戦勝で以て敵国を黙らせることができる状況が作れれば、あるいは責をとわれないかもしれないが、我が日本にそこまでの力はない。英国の戦力を削り、これ以上の戦闘よりも講和のほうが得だと思わせる――せいぜいそのような痛み分けが関の山だ。そうなったとき、Pウィルスをどこまで使ったか――は、おそらく痛み分けの上での講和の天秤を傾ける要素にはなる……。しかし、講和にたどり着くまでの戦勝がなければ、元も子もない)
「迷っておられますか」
後ろから声をかけられた。玲次だ。
「……ひどい誘惑だよ」
薫子は軍服の上から首筋に手を当てた。
「Pウィルスは呪いだが、力でもある……しかしそれを使ってしまっては、足下をすくわれかねない」
「プリシラが問うているのは、『お前が本当に目指しているのはどういうあり方だ』ということかもしれませんね」
薫子は黙って続きを促す。
「ぎりぎりの講和では、Pウィルスはマイナスに働くかもしれない。しかし、このままでは勝てるかどうかすら分からない。そういうとき、Pウィルスをうまく使えば少なくとも戦いを有利に進めることができる、というのは軍人にとっては限りない誘惑です」
玲次は薫子の隣に立つ。
「貴官と同じことを考えていたということは、あながち私の頭も鈍ってはいないようだ」
「……あのとき少佐殿は言いました。我が国は第三の道を取ると。ドイツともソ連とも違うと。しかしあなたの手には今、力がある……。その力の誘惑を御しつつ、『勝って見せろ』ということではないかと思いました。プリシラとしては、あなたという人間を通じて、我が国がどんな国なのか見極めたいということなのではないでしょうか」
「本当か」
「ただの推測ですよ。プリシラを高く評価しすぎかもしれません。ただの衝動であなたを噛んだだけなのかも」
「そうかな? 私は美味そうに見えるか?」
制服のボタンを外し、首筋を見せた。
「おやめください。私はPウィルス感染者ではないのでそういった意味での美味さは分かりかねます」
声に若干動揺が混じっている。その動揺を薫子は快く感じた。殺伐とした戦争の中ではあるが、こういった潤いを感じる瞬間があってもよい。
「――ふむ。とはいえ、あの女は底が知れない。人を試すために噛むという可能性も充分あり得るな」
言いつつ、制服のボタンを閉じる。
薫子はアーバーダーンの港町の明かりを見つめた。かつて尼港で見たような暖かい明かりに見えた。人々の生活の明かりだ。
(この明かりを守る……。ペルシャ人の街だろうと、英国人の街だろうとだ……。それが私の『魂のあり方』にちかい……そのためには、私は、いや我が国は何を為すべきか)
次第に、心が固まっていくのを薫子は感じていた。
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