第3節「プリシラ事案」
「待たせたな」
絃羽司令官が言う。翔鶴の第四艦隊司令官室。司令官自身のほか、薫子、桜子、玲次だけがそこにいた。丸い舷窓から見えるペルシャ湾の海は、夕日に赤くそまりつつあった。すでに訓練を行う飛行隊の爆音も止んでいる。
「この顔ぶれで何を話すかはすでに分かっていると思うが」
絃羽八重司令官は少し言いよどみ、それからじっと薫子を見て、言葉を続けた。
「いわゆるP事案に関してである」
P事案とは、プリシラ事案――つまり薫子がプリシラから感染させられたとおぼしき吸血鬼的な症状が現れるウィルス性の感染症のことだ。そのウィルスそのものは、Pウィルスと呼ばれている。
「軍令部総長と連合艦隊司令長官閣下から私に命令が下った。曰く、P事案を作戦に有効活用できるかどうか検討せよ、とのことだ。軍令部第三局または第一局にP事案に関して開示が必要と判断した場合は軍令部総長閣下に申請せよ、とも言ってきた」
「作戦に有効活用……戦時ならばそのような考えが出てくるのも宜なるかなというところですな。ぞっとしませんが」
薫子、玲次が押し黙る中、桜子が真っ先に口を開いた。
「ひとつ、いいでしょうか」
「言ってみろ、栗花落少佐」
「そのP事案の適用範囲を英軍に限るというのはどうです。民間人は含まず、英軍軍人及び軍属に極力制限する。P事案の感染症はもともと英軍からうつされたものです。英軍にやりかえすのは道理だが、それ以上の範囲に攻撃を広げるのは武士道に悖る。我が軍の恥となりましょう。少なくとも、私はいやだ」
「いやだ、か。君らしいな、少佐」
桜子の言いようは艦隊司令官に対するには若干横紙破りなものではあったが、絃羽司令官はそれを許しているようだった。第四艦隊は、第五航空戦隊が槍となって敵に突撃し、それを守る盾が戦艦部隊である第二戦隊という部隊構成になっている。絃羽司令官にとって、桜子は麾下の一番槍といった認識なのだろう。
「小官は軍令部とは無関係。作戦立案は本務ではありません。しかし岡目八目という。その目で作戦を作る人たちを見ていての、まあ老婆心といったところですか。彼にも騎士道、我にも武士道というものがありましょう。それを互いにつぶしあっては、戦(ルビ:いくさ)が凄惨なものとなる。我が父は世界戦争当時、欧州派遣部隊にいましてな。独軍の毒ガスにやられた英兵をよくみておりましたが、あんなものは戦争ではない、とよく申しておりました」
「よくわかった。心配するな。Pウィルスによる攻撃は、英軍以外にやるつもりはない。もしやるとしてもな。しかし、アーバーダーンの戦果……あれは半分程度、Pウィルスの力によるものだろう。どう思う、神崎少佐」
話を振られた薫子は、一歩前に進み出た。
「Pウィルスを作戦に使うという検討命令に関しては、英軍の意図、目的そして対応それぞれを分析する必要がありましょう。まず意図ですが、プリシラは確実に意識的に小官にこのウィルスを伝染させたものと見られます。とすると、日本軍にこのウィルスを与えるとの意思を英軍がそもそも持っていた可能性が高い。英軍の――少なくともプリシラが属する派閥は」
「いわゆる穏健派か。では目的はなんだ」
「おそらく――日本軍の弱みを握ること」
「弱み?」
「はい。Pウィルスは細菌兵器として考えればかなり有益なものです。しかし使えばそれは弱みとなる。我が帝国政府はハーグ陸戦条約に加盟していませんが、あの条約は非加盟国にもデファクトスタンダードとして作用する。それを破ったら野蛮と非難することが可能ということです。その二三条五項には、非必要な苦痛を与える兵器の使用を禁じている」
「弱みを握ることが穏健派の目的……? 寧ろそれは強硬派の目的ではないのか」
「穏健派であろうプリシラが私にかみついたあの行為……それがPウィルスの効果的な伝播につながったわけですが、あれを当初、私は我が国への助力であろうと考えていました。しかしアーバーダーンの惨状を見て考えを変えました。同じ人間に対して――いえ、プリシラが人間と呼び得るかどうかはわからないですが、少なくとも自国軍に対して、流石にあのような攻撃を奨励するとは思えない。しかし、我が軍に対する罠としてはあり得る。弱みを握ることで、我が軍を意のままにすることは、寧ろ穏健派が望むことだろうと思うのです。彼等は我が帝国との交渉を望んでいる。とすれば交渉では強い立場を得たい。強硬派は力で倒すことを目指しているので交渉は不要です」
紘羽は玲次を見やった。
「千登勢大尉。君も神崎少佐の意見に賛成か」
「基本的には」
玲次はその場の面々の顔を順に見ながら言った。
「しかし『助力』とか『罠』とか、そういったことは些末なことでありましょう。プリシラが欲しいのは我が国との講和という結果であって、そこに我が国への好悪の感情は含まれてはおりますまい。自国軍への攻撃の誘発を外交戦略の一部として行うのは今に始まったことではありません。例えば先年にも米国政府は我が国に講和を諦めさせ、自国軍を先制攻撃させようとした。彼等はそうは認めないでしょうが、状況から見れば明らかです。我が軍に力を与える、英軍がひるむ。同時に、我が軍も英軍も、互いにPウィルスを使ったという弱みを持った……講和の条件を整えるには良い前提が整ってきたというべきでしょう」
絃羽は腕を組んだ。胸ポケットから取り出した砂糖菓子を咥え、地図をにらむ。
「千登勢大尉。Pウィルス活用の作戦研究の責任者に任ずる。アーバーダーン駐留の第四艦隊の要員の中で、貴官の権限で必要と思う者には秘密を開示し作戦研究に従事させて良い。一週間後には報告書を提出せよ」
「は! 謹んで拝命いたします」
「いいな、神崎少佐」
君の部下を使うが良いか、という問いだ。
「――閣下のご命令ならば仕方ありませんが、なぜ私が責任者ではないのですか」
「貴官にはもっと重要な任務がある。P事案は千登勢大尉及び貴官が進言したところが真実だと私も思う。このことを踏まえ対英講和を最短で達成する戦略を研究せよ。期限は同じく一週間だ。その結果を以て第四艦隊及び第七艦隊の今後の戦略を決定し、昭南の大本営に上申する。――特に、Pウィルスを積極的に活用すべきかどうかを私は知りたい。栗花落の言は尤もだ。私も可能であれば残虐な生物兵器の使用は避けたい。しかしそれが講和の障害になるのなら、敢えてその責を負ってでも使用を断行することも私は厭わない。対英講和の成否はこの戦(ルビ:いくさ)を西進論で行くと決めた我が帝国の興廃を決するものだからだ。貴官の知見に期待する」
西進論。ソ連を攻撃する北進論でもなく、蘭印の資源を求める南進論でもない。蘭印は攻略するが攻撃の主軸はインド洋に置き、大英帝国の要所であるインド航路を制することで英国を締め上げ、対英講和を実現させる――。そのために、対米戦は攻撃の主軸とせず、最精鋭の兵を「義勇艦隊」という捨て駒にしてハワイに置いた。戦は博打とよく言うが、これは大博打の類である。その目の出方に今、「P事案」という厄介な変数が入ってきた。それを解いて見せよというのが絃羽の命令である。
「――責を負うも厭わず――と仰いますが、できるだけ良い道を探求したく思います」
絃羽は謹厳な表情を緩めた。
「そうであればありがたい。私も最近娘が結婚できてな。このご時世に婿が見つかるのは喜ばしいことだ。できればその先までこの世で見守ってやりたい――とは思っている」
「お任せを。この国難の時にあって、帝国の存続に関し探求することこそ、私がこの職に就いているゆえんです」
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