第2節「飛行隊長の問い」
参謀長を呼び、翔鶴の婦人区画に入ろうとしたところで、栗落花桜子にばったりと出会った。襟元から包帯が見えるが、日焼けした顔は元気そうだ。
「おお、軍令部の少佐殿か! 元気か」
闊達に声をかけてくる。
「私は問題ないが、貴官こそ大丈夫か?」
「いや? ニンニクも相変わらず食ってるし、さきほど日光浴してきたところだ!」
「それは心配していない……私にもそうした症状はなかったからな。しかしときどき立ちくらみに襲われ、倒れることがあった。そのようなことはないか?」
桜子は考える目をした。
「いや。今のところないな……」
「ちょうど良かった。貴官を伴い紘羽中将に司令官室に来いと言われている。説明が必要だろう。後甲板に来ていただきたい。それから――君」
通りすがりの婦人兵を呼び止めた。
「は」
畏まって敬礼する彼女はまだ一〇代に見えた。よく日焼けはしており、セーラー服の着こなしや、おかっぱ頭に被った制帽も様になってはいるが、薫子を見て緊張しているところを見ると新兵なのだろう。袖の階級章を見ると、海兵団を出て配属されたばかりの一等兵のようだ。
「一般区画で千登勢大尉を呼んでくれ。後甲板で神崎少佐が待っていると。忙しいところすまないが頼む」
「はい! 了解であります」
元気な高い声とともに彼女は早足で一般区画に方に向かっていった。
「軍令部どのはお優しいな」
後甲板に向けて歩き出しつつ、桜子が揶揄するように言う。薫子は士官服の襟を直しながら微笑んだ。
「現場の作戦行動を邪魔するわけにはいかないさ。我々はいわば居候だ。本来なら昭南市で軍令部総長殿に作戦案を報告するだけの仕事だが、そうも言ってられなくてな」
「そんな退屈な仕事でもなかろう。軍令部はスパイもやっていると聞いたぞ。『スピオーネ』のハギみたいなこともするんだろう。あるいはソーニャか」
「まあ、我々第三部は情報担当だからな、そうといえばそうだが。映画のようなおおだちまわりが目的ではないよ。情報が得られるならなんでもいい。新聞を読むとか、ラジオを聞くとか」
大日本帝国海軍の「参謀本部」とも言うべき海軍軍令部には、第一部から第四部までがあり、それぞれ作戦・軍備・情報・通信を担当している。「部」の下位組織単位として「課」があり、第一課から第一〇課までがある。課の番号は通し番号になっており、情報を担当する第三部に属するのは第五、第六、第七、第八課だ。それぞれ、米・中・ソ・英を主に担当する。薫子の第八課も、情報部に属するのでスパイといえばスパイではある。
話しているうちに後甲板に出た。飛行甲板よりも一段下、機銃やボートが搭載されていている区画である。
潮の匂いとともに、激しいエンジン音が耳をつんざく。
翔鶴・瑞鶴から成る第五航空戦隊はアーバーダーン沖合のペルシャ湾にて、盛んに飛行訓練を繰り返しており、これは周辺諸国への示威行動にもなっていた。米国をのぞけば、ここまで優れた空母機動艦隊を有するのは大日本帝国ただ一国である。その偉容を英国人、そして彼等の支配下にあるペルシャ湾岸の植民地人に存分にみせつけることも、この行動の目的の一つなのであった。
「気持ちよさそうに飛ばしてるなあ」
しかし桜子が抱いた感想は別のもののようだ。
「――貴官はまだ怪我がなおっていないのか」
「そんなわけがあるか。もう宙返りだってできるぞ。しかし医者に止められていてな。飛べるのは明日からだ。あの女め。こんなにだらだらしていては肉がつきすぎて飛行機にのれなくなるぞ……」
「軍医殿にも言い分があるだろう。大事を取ることだ」
「そうはいうがな、飛行機乗りには勘働きも重要なのだ。勘がにぶるとよくない。飛行機乗りの勘を甘く見ないことだ。ほうら、軍令部殿は待ち人が来たのにも気づかん」
桜子がウィンクして、ちらりと視線を艦前方に遣ってみせた。ハッチを開き、ちょうど千登勢玲次が後甲板にやってくるところであった。
「遅くなり申し訳ありません。資料を整理しておりました」
「ほお、隅に置けないな、軍令部どのは。結構な男前ではないか。こういう士官を連れ回して世界じゅうを巡っているのか」
桜子の放言に薫子は渋面を作った。
「からかうのはやめてもらいたい。真面目な話をするんだ」
「ん? 何の話です」
玲次は飛行機のエンジン音で桜子の言葉が全く聞こえなかったらしく、首をかしげる。
「――いや、何でもない。こちらは翔鶴戦闘機隊の隊長、栗花落桜子少佐殿だ」
「お初にお目にかかります。軍令部第八課。千登勢玲次大尉であります」
均整の取れた体躯をぴしりと伸ばし、玲次は敬礼する。
「翔鶴戦闘機隊、栗花落だ。こちらの飛行隊はみな女所帯でな、男をどう遇するべきか忘れてしまった。無礼があれば許せ」
「めっそうもありません。よろしくご指導を」
「はっは。軍令部どのはみな堅苦しいな。よろしく頼む」
桜子は腕を組み、薫子に目を遣った。
「……それで? この三人が吸血鬼の秘密を知る者たちというわけか」
「正確にはもう少しいる。それも含めて説明する」
薫子はアーバーダーン郊外では伝えきれなかった、プリシラの名前を含め、知る限りのプリシラ関係のことを伝えた。彼女が担当する英国工作についても。桜子はすでに「こちら側」の人間になってしまった。なってしまった以上は「こちら側」に引き込み、彼女の力を有効活用せよ、というのが軍令部の判断であった。
「この秘密――つまり、プリシラに噛まれて以降、私がたちくらみをするようになったこと、血を欲する発作が起るようになったこと、そして今回、英国将校を噛んだ結果、彼等も吸血鬼のような亡者になってしまったこと、その一方で、栗花落少佐殿を噛んだときにはそれが起らなかったこと――そういった諸々の事案を我々軍令部では『P事案』と呼び、最高機密に指定している。P事案を知るのは、私と千登勢大尉、あなた、第四艦隊司令官紘羽中将殿、連合艦隊司令長官閣下、軍令部第八課課長、軍令部第三部部長、軍令部総長――この七名のみだ」
「おどろいたな……陸軍にはまるで伝えていないのか」
桜子はあきれたように瞬きをした。
「必要があれば伝える。しかし極めて機微な事案であり、情報が拡散すれば何が起るか分からない――というのが軍令部総長閣下の判断だ」
薫子はそこで口を切った。それを待っていたかのように、桜子が口を開く。
「それで。分析はしているのだろう。これは何だ? 伝染病の類いか? まさか本当に呪術の類いだとは言うまいな? この科学万能の時代に」
桜子は腕を組んだまま薫子、玲次の両方を代わる代わる見やる。自身の運命は既に受け入れているが、それはそれとして今後の身の処し方を思案している風でもあった。
「喉の渇きを覚え血が飲みたくなるのが症状だというが、それを抑える方法はあるのか。あるいはこれは産んだ子供にうつるのか? そうだとすれば結婚も諦めた方がいいことになるが……。あるいは噛む以外の行為はどうだ。男と寝るだけで相手にうつるとか、そういうこともあるのか。空気感染するものではなかろう、というのは、神崎少尉のふるまいをみていれば分かるが……」
「それに関しては小官から説明を。整理していた資料の一つはこの件です」
玲次が後を引き取り、説明する。
アーバーダーン戦より前に、薫子が翔鶴艦内で倒れたときに、彼女の血液サンプルはすでに採取され、昭南市に後送されていた。
薫子の血が昭南市海軍病院の研究施設にて分析された結果、人間には一般にみられない酵素が多く発見されたという。薫子がプリシラに噛まれる前に受けた健康診断の際の血液サンプルとも比較されたが、明らかにそれらの酵素は薫子が生来持っていたものではなかった。それらのなかには、中枢神経に作用すると思われる酵素、傷の修復をある程度促進する酵素なども含まれていた。今までになかった酵素がこのように出てくる事例は、ウィルスに感染したときと同じらしい。こうした現象には、かつてメンデルが発見した「遺伝子」が関わっているともされている。
「血を飲みたくなる、という症状は前例がないですが、狂犬病ではかみつきたくなるといった症状が見られます。狂犬病もウィルス性とされています。また、性行為での感染に関しては、梅毒などがウィルス性の感染症として著名ですが、このウィルスに関しては、動物実験では精液や膣液による感染は見られませんでした。また胎盤経由の感染も確認されてはいません。但し唾液から血液への感染は確認されています。かみついたときも、歯についた唾液から血液に直接ウィルスが送り込まれたことによるものです。尚、唾液同士の感染は確認されていません」
「胎盤経由の感染はないのは本当なんだな?」
「はい。胎盤の母胎側にはかなりの高濃度でウィルスが蓄積されるのですが、胎盤関門とよばれる膜をウィルスは通過することができず、胎児にはウィルスは感染しないようです。これも動物実験の結果ですが」
「なるほどな……。気になるのは、あとは寿命だが……。そのプリシラという女、もしかするとかなり長く生きているらしいではないか」
「これに関しては、動物実験でもなんとも言えません。実際に長く飼ってみないことには」
「それも道理だな」
桜子はあっさりとその話を受け入れたようで、目を閉じた。
「……もともと、戦場に出て以来この命は捨てたものと思っている……。あの場で軍令部どのに噛まれた判断に後悔はない。子供にもうつらん、男と寝ても迷惑をかけることがないとなれば、そこまで悪いものでもないだろう。しかも傷の治りが早いというのは飛行機乗りにとってはありがたいことですらある――ただし」
そこで桜子は目を開き、眼光鋭く薫子を見た。
「人を噛む衝動に支配されるのはごめんだな。味方を噛みそうになったら、その前に自決するつもりではいるが、防ぐ方法はないのか。発動する条件はなんだ。……アーバーダーンで亡者のようになった英兵をみたが……あれは酷い光景だった」
「その件に関しては……発動条件は分からない。ただし、私が発動したときはいずれも、生命の危機、あるいは極度の疲労があった。それに気をつけるしかないと思う」
「飛行機乗りにそれを避けろというのは無理難題だな。兆候は」
「視界が赤くなる。そしてとても喉が渇く……これはいつもそうだった」
桜子は大きなため息をついた。
「感謝する。疲労、命の危機――いずれも起こるとすれば戦闘中だろうが……そのときには敵にぶつかって潔く散るさ」
「――栗花落少佐。全く申し訳ない」
薫子は頭を下げた。玲次も頭を下げる。
「気にするな――部下を助けるために私が頼んだことだ。軍令部どのには恩はあっても仇はない。こんなことで謝られては私が恩知らずになる」
「この症状を完治させる方法は海軍病院でも鋭意研究しております。ずっとこのままということはないと存じます、少佐殿」
「まあ、それはちゃんとやってくれないと困るだろうがな。――このような症状……人道上はさておき、軍としては是非とも利用したいとも思っているだろうし……」
薫子は腕時計を見た。
「そろそろ、絃羽司令官閣下からの呼び出しの時間だ。おそらく、そのことも含めてではないかと思う」
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