第2節

 


 翔鶴第一飛行隊長、栗花落桜子は、アーバーダーン駐屯地郊外の砂漠の中に不時着し、コクピットからゆっくりと身を起こした。敵兵の攻撃を免れるため駐屯地からかなりの距離を取って着地したが、遠すぎたかもしれない。

(我が軍は占領に成功したかな……? いや、あの状況では難しいかもしれない。だがいずれにせよ生き残るには駐屯地に向かわねばならない。英雄として歓迎させるにせよ、捕虜として捕縛されるにせよ)

 自分が捕虜になる可能性がある、と自覚し、桜子は胸元に下げた自決用の薬瓶をしっかりと握る。中身は致死量のモルヒネだ。

(願わくは、こいつではなく勝利の美酒をあおりたいところだが)

 川を下り脱出することも考えた。しかし日本軍が敗北していれば部下もこのあたりに不時着しているだろうし、だとしたら敗兵を統率し脱出を指揮する義務もある。郷里の父母が涙をのんで戦(ルビ:いくさ)に出したかわいい娘たちだ。指揮官としては最後まで責任を持って故国に連れ帰る責任がある。

 コクピットのハッチを開き、双眼鏡でアーバーダーン駐屯地を見る。

(なんだ……?)

 彼女の見たものが正しいならば、英軍は同士討ちをしているように見えた。ターバンを巻いたインド兵、戦闘服姿の英兵が入り乱れ、互いに戦っている……ように見える。

(植民地兵の叛乱か……?)

 その可能性はあり得た。つまり、イラン兵の蜂起に触発され、インド兵が英兵に対して叛乱を起こしたというシナリオだ。もともと、英軍は植民地兵によって成り立っている部分がある。第一次世界大戦で戦力が大きくすりつぶされ、しかも男性が生まれにくくなってしまい婦人兵が多くなった。その状況で、スペイン風邪の影響を受けていないインドやアフリカなどの兵が多くなったと聞く。彼等にも独立を望む意志はあるだろう。それが触発されないとは言えまい。

(だったら嬉しいんだが……!)

 桜子は元来楽観主義者だ。指揮官として悲観論にも目配りはするが、彼女の心の真ん中は空に憧れていた少女のままだ。

(しかし混乱はしているだろう。慎重にいかねばな)

 無線機は壊れていた。駐屯地に近づきつつ、味方がいれば合流する。それでいくしかない。

 胸ポケットから恩賜の砂糖菓子の箱を取り出して一本口にくわえ、桜子は歩き出した。



「おい、しっかりしろ、おい!」

 薫子は頬を強く叩かれ、ゆっくりと目を開けた。見慣れない兵士が自分を見下ろしている。飛行服なので、零戦の操縦士だろうか。

「私は翔鶴第一飛行隊長、栗花落桜子少佐だ。階級章からすると貴官も少佐とお見受けするが」

「軍令部第三部第八課、神崎薫子少佐」

「第三部。情報部か。どうなっている? 叛乱か? 友軍はどこだ」

 どう説明したらいいものか。自分が噛んだ敵兵が吸血鬼のようになって同士討ちを始めたといっても信じまい。

「叛乱ではない……と思う。私にも分からない。おそらく人が凶暴化する伝染病のようなものではないかと思われる。吸血鬼のように首筋の血を吸うことで伝染するようだ。友軍は撤退した。イラン軍もだ」

 それから自分の言葉を一部否定した。

「いや。生き残っているかもしれない友軍がいる。駐屯地内で擱座したクルセイダー巡航戦車の中に」

「よし。救出に行く。私も不時着した飛行隊の操縦兵を探している。立ち上がれるか」

 相手の楽観的な態度にあきれた。そもそもここまでどうやって来たのだろう。吸血鬼化した敵兵であふれているはずだが。

「できるのか。敵の駐屯地は混乱している」

「できるできないではない。友軍が助けを求めているかもしれんのだ。やるしかない」

「具体的にはどうやる? あいつらは見境なしだ」

「それを聞くためもあって貴官を起こした。敵兵は全員、人間――いや、エサといったらいいか……がいる駐屯地中心部に集まっているのでここにはいなかった。それでここまでこれたのだが……しかし貴官は負傷して倒れていた。ここは戦場だったはずだ。そのときには敵もここにいたはずだが、なぜ襲われていない?」

「私は……」

(さて、どうするか。経緯を話すべきか)

 薫子は一瞬、逡巡したが、玲次を救うには戦力は多い方がいい。この飛行隊長は前向きで意欲も高い。仲間にするには良い人材だ。

「――実はあの吸血鬼どもの感染源は私なのだ。いや。正確にはある英国貴族将校だと思うのだ」

「なんだと……?」

 薫子は手短に経緯を話した。

「なるほどな」

 桜子と名乗った飛行隊長はあっさりと薫子の話を受け入れた。

「信じるのか」

「信じるも信じないもない。実際にこの目で吸血鬼のようになった敵兵を見た。よし。私を噛め」

 飛行服の襟元を開いて首筋を差し出す。ランニングシャツの形に日焼けがある。よく日焼けした小麦色の首筋がまぶしい。

「聞いていたのか? 吸血鬼化するぞ!」

 桜子は目線を柔らかくした。

「……分かっている。貴官の話で分かったことは一つ。そのプリシラという高慢な貴族が貴官を噛んだとき、そいつは正気だった。一方、貴官が敵兵を噛んだとき、貴官は混乱していた。おそらく、正気のままに噛むと相手も正気になり、狂った状態で噛むと相手も狂うのではないか? 今貴官は正気だ。そして、正気の吸血鬼なら、吸血鬼に襲われないし、戦える」

 さすが飛行隊長だ。頭の回転が速い。しかし――。

「憶測だ」

 薫子は断じた。

「当たり前だ。私たちは学者ではない、軍人だ。憶測で作戦をしなければならん時もある。兵は拙速を尊ぶ。さあやれ。さあ!」

 おそるおそる、桜子の両肩を抱く。

「もし正気を失ったら撃ち殺してくれ」

 耳元でささやいてきた。桜子の汗に混じり、香水の匂いを感じる。

「……分かった」

 正気で人間の首筋を噛むというのは妙な気分だった。だが、意を決し、かみつく。その瞬間、犬歯が鋭くなった気がした。

「ぐ……」

 桜子はわずかに声を漏らすが、それ以上は何も言わない。相手が奥歯をかみしめる雰囲気がある。血を吸う。甘い。そんなわけがないのに、甘く感じる。たっぷり味わうように血を吸った。あのときのプリシラの吸い方をできるだけまねているつもりだ。あのときも、プリシラは薫子の血の味を快くまで楽しむように吸い続けた。

(ああ……こんなに美味いものはほかにない……)

 そう感じる自分は異常なのだろう。しかしそう感じることをやめることはできない。しかしやがて渇望にも満足し、口を離した。

「終わったか」

 桜子は首筋を押さえながら尋ねた。腰から応急用の包帯を取り出し、飛行服を大きくはだけて肩を出し、消毒してから器用に包帯を巻いていく。

「どうやら、狂ってはいないようだ。良いかみ方をしてくれた。感謝する」

「……良かったのか?」

 桜子は小さく笑った。白い歯がまぶしい。

「――良いわけがあるか! だがこの身は少佐の階級を賜っているのだ、良くなくてもやらねばならんことはある。私が人間でなくなったとすれば先祖にも申し訳がたたんが、ことは栗花落家ひとつの問題ではないのでな」

「――いずれにせよ、感謝する」

「ああ。部下を助けよう。私のと、貴官のと」

 

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