第四章 第1節

 薫子ら地上部隊が見守る中で、戦車を狙った一機の零戦が戦車の対空機銃にやられ、南に退避していく。

「イドリス殿。まだ攻撃できないのか?」

「クルセイダー巡航戦車が三〇両は残っている。これでは地上部隊は圧倒的に不利だ。こっちには小銃を装備した歩兵しかいない! 日本軍が重装備を全て破壊してくれること前提の作戦だったんだ」

 イドリス・ラフディの言葉に、薫子は顔面から血の気が引いていくのを感じる。

「……このまま日本軍の飛行機が戦車を全て倒してくれるのを待つしかない」

 見たところ、ゼロ戦が一五機ほど上空にいる。一機二両倒せば計算は合うはずだが、盛んな対空機銃をおそれ、上空を旋回するばかりだ。

 どうやら、さきほど被弾した戦闘機が隊長機であったらしい。指揮系統が乱れ、うまく攻撃態勢を作れないようだ。

「攻撃する。これではらちがあかん」

 薫子は宣言した。

「旦椋少尉、擲弾筒はあるか?」

「はい。分隊支援火器として装備しております」

 八九式重擲弾筒は、重量四・七キログラム。婦人兵でもぎりぎり運搬できる重さであった。全長六〇センチほどの筒状の装備で、基部はやや湾曲しており地面に引っかけるのに適している。

「擲弾筒(ルビ:モーター)か。膝うちするのか」

 イドリスが聞いてくる。基部の湾曲を見て誤解したらしい。

「馬鹿な。脚が折れる。こうするんだ」

 薫子は自ら擲弾筒を地面に設置し、弾頭を装填した。狙いは戦車部隊。但し自分たちが倒せるとは思っていない。しかし狙いを分散させれば飛行隊の攻撃もしやすくなるだろう。

「旦椋少尉。観測兵を頼む」

 寝そべった状態で狙いを定める薫子。その隣で、旦椋巴が双眼鏡をのぞき、じっと敵の方を観測する。

「敵との距離、約一二〇メートル」

旦椋少尉の言葉に、薫子は素早く頭の中で榴弾筒の取るべき角度を計算し、点火する。

(当たってくれ……!)

 榴弾は大きく放物線を描き、ほぼ垂直に戦車部隊に落下していく。

 着弾。爆発。

 もうもうとした煙が戦車部隊を覆う。機銃がやんだ。

 その瞬間、上空のゼロ戦隊がいっせいに戦車部隊に襲いかかる。この機を待っていたかのように。

 煙が晴れていく中、クルセイダー巡航戦車の大半が煙をあげ、機銃は完全に沈黙していた。

「よし、今だ、突撃!」

 間髪を入れず、イドリスが命じる。

「イラン万歳! アラーは偉大なり!」

 総勢一〇〇名、二個小隊ほどのイラン義勇兵が一斉に立ち上がり、突撃を開始した。兵舎も野砲も戦車も散々に爆撃を受けた後、英軍の拠点に抵抗力は残っていない――かに見えた。

 だが、イラン義勇兵が姿を見せた途端、兵舎の残骸から一斉に小銃が掃射される。先頭にいた十数名が一斉に倒れた。

「伏せろ!」

 イドリスが命じ、薫子と玲次、旦椋小隊第一分隊も伏せる。だが、直後、小銃を撃ってきた拠点を上空のゼロ戦隊が機銃掃射し、小銃は沈黙する。

「――さすが、腐ってもイギリス軍といったところか」

 イドリスは憎々しげに言う。

「爆撃の時は反撃せず巧妙に隠れていやがった。また突撃したら撃ってくるだろう。その後空からの反撃があるとしても、またやられるのは確かだ。兵が怖じ気づき始めている。その間に援軍が来るのを待っているのか、あるいはせめてもの抵抗か」

「私に考えがある」

 薫子は言う。

「あの戦車だ。砲塔の上部装甲がやられて沈黙しているが、砲は撃てるかもしれない。戦車の正面装甲なら小銃では対抗できん。あれで片っ端から兵舎を撃つ。反撃してきたら、上からゼロ戦隊がやってくれるだろう」

「動かせるのか」

「操縦法は士官学校で一通りな。もう四年も前だが一応覚えている。日本軍の戦車だが、イギリス戦車もそうそう変わらないだろう。無謀な突撃は一見勇敢だが、兵の命を無駄にするのは性に合わん」

「同感だ。日本軍に頼めるか」

「任せてもらおう。玲次、君も士官学校の出だ。まさか動かせないとは言わないな?」

 傍らの玲次は無精ひげのわずかに生えてきた顎をなでた。

「やってみましょう」

「あと一名」

「私が」

 旦椋巴少尉が名乗りを上げた。

「あとの指揮は第一分隊長に任せる。私がやられたら小隊を引き継げ」

 それから薫子に向き直る。

「神崎少佐。あなたがやられても代わりがいないと思いますが。どうなさいます」

「代わりなら軍令部にいる。心配するな」

 九九式短小銃を構える。銃に彫られた菊花紋にそっと唇を触れた。

(頼むぞ)

「イドリス殿。我々が駆け出すと同時に、あらゆる兵舎に一斉に撃ちまくってくれ。反撃してきたらそこに集中してくれ」

「了解だ。日本の女性は勇敢だな。しかも美しい」

「世辞ならお国の女性に言ってくれ。では行ってくる。続け!」

 覚悟を決め、走り出す。

 即座に後方のイラン義勇兵陣地から、激しい小銃音が響く。頼もしい。

 その頼もしさが駆ける脚を速める。玲次、旦椋少尉が危なげなくついてくる。

 停車したクルセイダー巡航戦車のひとつにとりつく。ゼロ戦の銃撃で上部装甲がやられているが、それ以外は砲塔も無限軌道も無傷だ。

 敵からの射線を戦車で避けるように回り込み、そっと上部装甲のハッチの様子をうかがう。拳銃の銃口がのぞいていた。

(……戦車兵は生きていたか!)

 状況はまずいが、なぜか嬉しい。人が死ぬというのはどんな状況でも嫌なものだ。

「――聞こえるか! 我々は日本軍だ。君たちは敗北した。おとなしく降伏しろ。捕虜は丁重に扱う」

「嘘をつけ。だったらなぜ戦車を奪いに来た。こんな奇襲で我が英国はやられん」

 威勢の良い反論が戦車の中から跳びだしてくる。

(仕方ない)

 九九式小銃の狙いを定め、のぞいた拳銃を撃つ。

 中から悲鳴が聞こえた。更にダメ押しのように二、三発撃ち込むと、間髪を入れずに砲塔の上にとりつきハッチを開く。

 玲次と旦椋少尉がハッチの中に小銃の銃口を突きつける。

「降伏しろ!」

 戦車兵が一人、薫子らをにらみつけている。

「――降伏する。但し、負傷者の看護を頼みたい」

 見ると、車内は惨憺たる有様だった。ゼロ戦の機銃は上部装甲により勢いを減じられたとはいえ、一発かすりでもすればそれだけで致命傷になる。三名の乗員のうち、砲手と操縦手は機銃弾がかすり、それぞれ脇腹と足に重症を負っていた。抵抗していたのは車長のようだ。とりあえず操縦手は必要ないので、薫子と玲次で車長と砲手を担当することとし、旦椋少尉に車外に出ての二人の負傷兵の手当を任せた。車長も車外に出し、縛っておく。

 クルセイダー巡航戦車の砲塔システムは、一見分かりにくいが、基本的な操縦系統は日本戦車と同じらしい。ただ、追加で設計したらしき自動装填装置がつけられていた点は目新しい。英軍も婦人兵の増加で苦労しているらしい。

「砲手、できるか」

 玲次に問うと、彼は唇を噛んで、頷いた。

「なんとか」

「情けないな。できるならできると言え」

「やってみせます」

「よし。それでこそ帝国軍将校だ」

 ハッチをわずかに開け、崩れた兵舎の様子をうかがう。イドリスらのイラン義勇兵との撃ち合いを演じる銃座は、ゼロ戦の攻撃で破壊され、すでにほぼ沈黙している。

(む……あの兵舎は破壊の跡が少ないのに、撃ってこないな)

「千登勢中尉。あの兵舎だ」

「了解です」

 クルセイダー巡航戦車は狙いを定め、発砲する。

 兵舎の着弾した位置に穴が開き、その後、大きく揺れ、轟音とともに崩れていく。

 目標とした兵舎の両隣から、一斉に発砲が始まった。待ち構えていても、やられると悟ったらしい。

「あのあたりを順番に撃っていけ」

 薫子の命令に応じ、玲次は手際よく兵舎を破壊していく。

(これで制圧できるか……)

 薫子がそう思ったとき。

 ぱ、と何かが薫子の視界の端で光った。

 同時に、激しい衝撃がクルセイダー巡航戦車の車体全体を覆う。

「何が起った!」

 玲次に問う。

「砲撃です! 右前方の兵舎の影――いや、兵舎の向こうから狙われました。兵舎を貫いて我々を撃ったようです。右の履帯が完全に破壊。動けません!」

「なんだって……?」

 狙いはどうした、と思ったが、窓などを透かしてこちらを伺ったのかもしれない。薫子は目をこらした。

 特徴的な砲塔が崩れた兵舎の向こうからのぞいている。

(あれは……チャーチル歩兵戦車……!)

 イギリス陸軍の区分では、クルセイダー巡航戦車のような「巡航戦車」は装甲が薄く砲撃力が小さい代わりに高機動、それに対して歩兵戦車とは、歩兵に随伴する戦車であり、装甲が厚く砲撃力が強い代わりに鈍重な戦車を指す。

 つまりチャーチル歩兵戦車とクルセイダー巡航戦車が撃ち合えば、こちらが負ける。そして、今し方履帯が破壊されたのでこちらの高機動はもう生かせない。

 同時に、兵舎の向こうからの対空射撃も激しくなってきた。そして、いったん突撃したイラン義勇隊はもう引き下がれない。

(まずい……撃退されてしまう……!)

 この拠点は最重要だ。ここで撃ち負け、英軍のまとまった陸上兵力が温存されれば、他の拠点も順次取り戻されてしまう。頭上のゼロ戦も頼りにならない。

(まずいぞ……撤退を指示するか……)

 奇襲の効果が薄れ、敵に体制を立て直す時間を与えてはもうアーダーバーンは奪えなくなるだろう。イラン義勇兵は徹底的に英軍に弾圧され、イランにおける蜂起の機運が崩される。そうすれば日本陸軍主体の陸上戦力でイランを占領するか道がなくなるが、大規模な陸上戦力をインド洋、アラビア海を経由して上陸させるのはかなりの難事だ。もたもたしている間にソ連はドイツを撃退し、英軍は勢いを取り戻す可能性がある。講和の道はより難しくなるだろう。

(それにしても、北アフリカ戦線にしかなかったはずの最新戦車がこんなにあるとは……)

 いや、そう考えること自体が愚かだ。

 プリシラが「やってみろ」と言ったのだから、プリシラからの情報で防衛力を強化していても不思議はない。プリシラは味方ではない。敵だが利害が合えば交渉するだけの相手だ。薫子が想定よりも強ければ交渉に値すると判断する、弱ければ日本軍を誘引して撃破する好機として対応する。

 それだけだ。

 しかしそうだとしても指揮官は責任を取らねばならない。そして、薫子がより責任を持たねばならないのはイラン軍ではなく日本軍だ。

(すまない……イドリス殿……)

 薫子が撤退を指示しようとしたそのとき。

 二発目の砲弾が薫子のクルセイダー戦車を襲った。

 砲弾はもう一つの履帯を破壊し、戦車は擱座、完全に身動きを取れなくなる。

「玲次、撤退だ!」

「先に行ってください、少佐」

 玲次が冷静に言う。

「砲撃はまだできます。撤退を援護します」

「――だめだ」

「いやだめではありません。婦人兵がこんなに頑張っているのに、私が踏ん張らなくてどうします。私はここに残ります。幸い、自動装填装置がありますから一人でも砲撃をtうづけられます」

 指揮官としてその判断が妥当であることは分かっていた。玲次一人の命で最低、数名の命が救えるだろう。命の天秤はそちらに傾く。

「――よし。しばらくは沈黙しておけ。ここぞというときに効果的に砲撃しろ。あまり撃ちまくるとすぐにやられるぞ。撤退を完了したらすぐに連絡する。そうしたらすぐに撤退せよ。撤退が不可能なら抵抗せず降伏しろ。当地の英軍は捕虜虐待しないらしい」

「了解! お早く」

「すまん」

 薫子はハッチを開け、銃弾が飛び交う中、戦車から飛び降りた。

「旦椋少尉。撤退する。捕虜は放置」

「千登勢大尉は」

「彼は殿(ルビ:しんがり)を務める。早く逃げれば彼が助かる可能性も高まる」

「……了解です」

 その間にも、チャーチル歩兵戦車は兵舎から出てきて、駐屯地内をイラン義勇兵の陣地に向かって突き進んでいく。

 イラン義勇兵の銃撃は明らかに弱まっていた。上空のゼロ戦隊もかなり高空に退避してしまっている。

「走るぞ」

「はい」

 二人はかけ出した。銃撃が二人を狙おうとするが、イラン義勇兵の銃撃がそれを牽制してくれる。

 あと一〇メートル。

 チャーチル歩兵戦車が駐屯地を進み、イラン義勇兵部隊に狙いを定める。

 そのとき。

 狙い澄ました一撃がチャーチル歩兵戦車の後部、エンジンを襲った。

 玲次のクルセイダーだ。

 途端に行動不能になるチャーチル歩兵戦車。砲塔の回転もできなくなったのか、その場に沈黙し続ける。

 だが、そのとき。

 クルセイダーとイラン軍陣地を、相次いで砲撃が襲った。沈黙するイラン軍陣地。

(しまった……チャーチルは一両ではなかったのか――玲次……生きていてくれ)

 玲次の心配をするまもなく、歩兵が一斉に兵舎の間から出現し、突撃を開始した。

 ターバンを巻いている。英領インド軍だ。

 イラン義勇兵陣地は、二両目のチャーチル思われる砲撃をおそれ、満足に反撃できない。ゼロ戦隊は高射砲を恐れて上空に退避してしまっている。

(これほど歩兵がいたのか……!)

 兵数はざっと見たところ大隊規模。予想以上に残存している。爆撃が足りなかったのか、それとも退避が早かったのか。そして今まで兵力を隠していたのも見事だ。

 薫子は陣地に飛び込んだ。

「イドリス殿!」

「……失敗か」

 彼は歯ぎしりしていた。

「あなたたちがまずは撤退してほしい。イランにおける叛乱の機運が潰されるのが一番恐ろしい。義勇兵にはできるだけ生き残って抵抗を続けてほしい」

「あなたがた婦人兵だけ残して生き残れというのか」

「――安心しろ。我々は婦人兵だが強い。そう簡単にやられはしない。機関銃を一丁、残していってくれ。それである程度足止めはできる」

 笑顔を浮かべる。

「イラン独立の暁にはこの話も酒の席での笑い話になるだろう。そのときまで互いに生き残ろう」

「我々は酒はやらん。だがそれは楽しそうだ」

「うむ。では生き残ってくれ」

「必ず」

 イドリスは配下に短く指示した。

「これから撤退を開始するが、その前に突撃してくる奴らをなぎ倒せ! 指示と同時に陣地を放棄、戦車が撃ってくる前に逃げろ」

「了解!」

 言われると同時に一斉射撃が突撃してくるインド軍を襲う。チャレンジャーが前進し、砲塔を回転させてくる。

「今だ、散開! 密集するな!」

 どっと陣地からイラン義勇兵は逃げ出した。薫子と旦椋少尉は、分解した機関銃を持ち、ももともとの陣地から少し下がったところの窪地に陣地転換し、身を潜めつつ機関銃を組み立てる。一斉者を受けたインド軍は一斉に伏せてこちらの様子をうかがっている。チャレンジャー戦車は二発、三発と撤退するイラン義勇兵に対して砲撃を行うが、見事に散開しての撤退なので狙いが定まらず大した被害は与えられていない。

 その目立つチャレンジャーに、上空のゼロ戦がやっと銃撃を行う。だが、その直後、対空機銃に翼を撃たれ墜落していく。

「何をしている! イラン軍を追え!」

 よく通る英語の命令が響いた。指揮官は女性のようだ。

 それに突き動かされるように、インド軍が再び立ち上がり、突撃を開始する。

「旦椋大尉……まだ撃つな。敵の戦闘を狙え。もっと近づいてからだ」

 冷静に命じながら、薫子は最期を覚悟していた。

(――プリシラ。まさかこれを狙っていたのか。講和派をつぶして我が国の進路を誤らせる。そのために講和派の筆頭である私を死地へ送る……)

 しかし、どんな状況に陥ってもその時々で最善を尽くさねばならない。後悔の念は次の一手の精度をより上げるためにこそ使用されるべきだ。

(それでも私は戦う)

「一緒に撃つぞ。まだだ……」

 インド軍は既に五〇メートルを切っている。

「まだだ……」

 三〇メートル。

「今だ。撃て!」

 ダダダダダダダ。

 インド軍は至近で連射された機関銃にあっと言う間になぎ倒される。三〇メートルの至近距離、身を隠す時間も空間もないなか、なすすべもなく被害は増大していく。

 その間に、イラン軍は撤退を完了している。

「よし。そこまでだ」

「お待ちください」

 旦椋少尉は機関銃のトリガーに糸をひっかけ、連射状態のままにした。

「逃げましょう」

「ああ!」

 二人は身をかがめてかけ出す。貴官銃座は窪地だったが、その後も駐屯地よりも低地になっている場所を選んでおいた。逃げやすさを考えてのことだ。

(玲次……生きていてくれ……!)

 今はこのまま逃げるしかない。生きているとしても、彼の救出はしばらく待たねばならないだろう。

 薫子がそう考えたとき、不意に腿に熱を感じた。もんどりうって倒れる。

「少佐殿!」

「逃げるんだ! 君がいないと部隊の指揮はできん! イラン義勇兵とともに戦い、叛乱の機運を維持してくれ。そうすれば日本は再び戻ってこれる……!」

「了解です……!」

 頼んだぞ。

 その言葉は声にならなかった。激痛が腿を襲っているが、それももうどうでもいい。ただ、アーバーダーン攻撃が成らなかったこと……これによって英軍との講和の道が遠のいたことが残念だ。

 徐々に意識が薄れていく。

(お母さん……私は……少しは人々を守ることに役立ったでしょうか……。あの日の尼港の無念を少しは晴らせたでしょうか……)

 視界が紅く染まっていく。

 急に仰向けに転がされた。

「動くな」

 額に銃が突きつけられていた。

 金髪の英軍の婦人将校。インド軍を指揮していた部隊の長と見える。襟を大きく開けており、白い首筋が妙に目に付いた。

「もう動けない……」

 やっと、英語でつぶやく。

「貴官は捕虜だ。生き残ったならな」

 脅威はもうないと判断したのか、その女性将校は拳銃を額から外す。

 だが、薫子の意識は彼女の首筋一点に吸い寄せられていた。

(喉が……渇く……)

 突然、どこから湧き出したのかも分からない強烈な力が身体のうちから湧き上がってきて、両手で女性将校の襟首をつかんだ。

「何をする!」

 襟をびりりと破り、首筋を露出させる。両手を捕まれたが、赤子の力ほどにも感じない。

(飲みたい……飲みたい……飲みたい……お前の……血が!)

 その瞬間、薫子は女性将校の首筋にかぶりついていた。

「ぐ……がああああああ……」

 女性将校が叫ぶ。

 だが、薫子は離さない。たっぷりと十秒は飲んでいる。それから女性将校を解放した。彼女は放心したようにその場でうずくまる。そこにターバンを巻いた兵が一個分隊ほど駆け寄ってきた。

 兵士の一人が、うずくまる女性将校に声をかける。

「指揮官殿。どうされました、指揮官殿」

 そして、残りの兵が薫子に銃が突きつける。

「貴様! 日本軍か! 動くな!」

 だが、そのとき。

 ぎゃ。

 という妙な声が囲まれた兵士たちの向こうから聞こえた。目をこらすと、女性将校が、駆け寄ったインド兵の首筋にかみついていた。

 その女性将校と噛まれたインド兵が、薫子に銃を突きつける兵士らの後ろに迫る。

 そして、背後から軍服を無造作にやぶり、首筋にかみついた。

「指揮官どの! おやめください! ぐああああああ!」

 それからは阿鼻叫喚の地獄だった。兵士らが次々と仲間にかみついていき、まるで伝染病のようにそれが広まっていく。かみつかれた側は血走った目になり、人間にかみつく以外の興味をなくして、ただの悪鬼のように成り下がる。

 銃で撃っても効果がなく、次々と襲いかかっていく。

(なんだ……これは……)

 そこで思い出したのはプリシラが自分にかみついたことだった。

(私に何をした……プリシラ……!)

 薫子自身は吸血衝動は既に収まっている。そして、誰も薫子には襲いかからない。人間の血を欲している彼等だが、なぜか、襲われない。

(既に、私が人間ではないと判断しているのか……)

 先ほどの、敗北を覚悟していたのとは別の恐ろしい感覚が彼女の全身を包んでいく。

(私は……いったい何者になったのだ……)

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