第3節

 



「深度一〇メートル、九、八、七……。浮上」

 伊二六潜の艦橋は静かだ。息を潜めるような艦橋には、オイルの匂い、むっとする人の体臭、わずかな化粧水の匂いがする。

「一時間ではなかったのですか? 既に九〇分経っていますが」

 艦長の楡少佐がいらだたしげに言う。

「だがやってきた。来ないよりはましだろう」

 薫子は簡単に受け流し、するすると艦橋から上に伸びるハシゴを上っていく。下から玲次がついてくる。

 司令塔の上まで来てハッチを開く。

 むっとする熱気が頬にあたる。そして海の上特有の潮の匂いと湿度。それでも圧倒的においしい空気。自分たちが今までいかにまずい空気を吸っていたか思い知らされる。一気に頭が冴え渡る気がした。

 そして、視界の向こうに小さな光が見えている。カンテラのようなものだろう。覆いの開閉によってメッセージを伝えている。モールス信号だ。

「横付けする。そのままの位置にいろ。すぐに乗れ」

 そう読む。

「中尉」

 下の玲次に小さく声をかける。

「陸戦隊、乗船準備」

「了解です」

 下の艦内で静かな、しかし確実な人の動きの気配がある。三〇名の陸戦隊が司令塔の下に待ち構え、乗船準備を整えつつあるのだ。

 薫子も小さなカンテラを掲げた。

「――乗船準備問題ない。横付け頼む」

 そう信号を送る。

 静かにボートが近づいてくる。せいぜい一〇名が乗れる程度のボート。日本軍の小発と同じぐらいだ。英軍の哨戒を避けるにはそれが精一杯の大きさなのだろう。それが四隻。

「少佐殿。陸戦隊、乗船準備完了です」

「了解。旦椋(ルビ:あさくら)少尉に伝えてくれ。私に続いて乗船せよと」

「は」

 本来、軍令部第八課に属する薫子や玲次には、陸戦隊の指揮権はない。今回、伊二六潜に搭乗している陸戦隊は第四艦隊の麾下にあるものだ。だが、階級が上で同じ戦場で戦うことから、薫子の命令には従うよう、旦椋少尉以下三〇名の陸戦隊は、第四艦隊司令官から命じられている。

 薫子は暗闇の海面をじっと見つめる。小型船が静かに近づいてきて、潜水艦の司令塔の近くに横付けした。

 いや、しつつある。

 完全な横付けは無理だろう。

 薫子は舫い綱をその船に放り投げる。

 向こうで受け取る雰囲気。徐々に近づいてくるが、二メートルぐらいの距離で、船体にひっかかってこれ以上は近づけないようだ。

(行くしかないな)

 薫子は短い時間で決意し、司令塔の高さを活かして船まで跳躍する。彼女の身体を受け止められる雰囲気がした。体臭からすると男性だ。

「失礼。服装を整える」

 短いペルシャ語で言い、用意していたニブカを被った。

「今は問題ない――が、市内に潜むときには頼む」

 軍人らしいきびきびとしたペルシャ語の返事だ。

「部隊は婦人ばかりなのか?」

「一名をのぞき、そうだ」

「いや――問題ない。戦うのは我々だ。あなた方はあくまで助力してもらえばいい」

 その言い方には不満を感じたが、こんな場所で口論する余裕はない。薫子は大きく手を振った。

 司令塔から、迷いのない動作で陸戦隊が小舟に飛び乗ってくる。薫子の様子を観察していたのか、皆、ニブカを目深に被っている。装備しているのは旧式の三八式ではなく、最新の九九式小銃だ。

 旦椋陸戦隊は四つの分隊に分かれている。誰に指示されるでもなく分隊ごとに小型ボートへの乗り込みを行い、見る間に完了する。はかっていたが五分程度だ。最後に玲次が香ること同じボートに飛び乗ってきた。

「少尉、報告を」

 玲次が指示する。

「乗り込み、完了しました」

 薫子と同じボートに乗り込んだ旦椋巴(ルビ:あさくら・ともえ)少尉が敬礼した。

「ご苦労」

 薫子は言い、「出してくれ」、と、小さくペルシャ語で指示する。

「了解だ」

 ボートは静かに発進していく。

「改めて感謝しよう。私は神崎薫子という」

 ボートで最初に薫子に話しかけてきた、指揮官らしき人物に声をかける。

「英語でかまわないが。ペルシャ語が得意というのならそのまま続けてもいいが」

 その男は落ち着いた声音で言った。

「実は英語の方がありがたい」

 薫子が素直にそう応じると、相手も英語に切り替えた。

「感謝しなければならないのは我々だ。君たちの大きな戦略はさておき、我々は本来、自ら立ち上がらねばならなかった。しかしそれを怠っていた。今回の機会は神が我々に与えてくれた最高の機会だと思っている。もし神が望むなら、我々は再び独立を手にするだろう」

 教養を感じさせる話しぶりだ。

「私はイドリス・ラフディ元少佐だ。イラン軍の軍人だったが、昨年の英ソの占領後辞職した。現在も名目上はイラン政府およびイラン軍は存続しているが、既に英国とソ連の傀儡だ。軍人をやっていてもイラン国に奉仕することにはならない」

「同意する。我々はそのような考えを尊重するだろう」

「――そうであればありがたい。我々の地政学上の位置や石油が重要なのは知っているが、それのみを求めて我々の地に傀儡を作ろうとするものたちはお断りだ」

 薫子は頷いた。

「我々が本当に求めているのは貿易相手だ。植民地ではない」

 自分の口がその言葉を発してから、本当にそうだったな、と薫子は思い至った。

(英仏のような巨大植民地を持つ者たちが、世界大恐慌の中でも自由貿易を維持してくれさえすれば、それでよかったはずだった……。今更言っても仕方のないことだが)

「そろそろ着く」

 イドリス・ラフディの言葉通り、アーバーダーンの街明かりが見えてきた。アーバーダーンの街の灯火管制はしていない。日本軍の航空機も、今はまだ昼間しか攻撃していないからだ。また、攻撃は港と石油掘削施設に集中しているため、市街地の灯火管制の必要性はないということなのだろう。アーバーダーンを出港した、あるいはアーバーダーンに向かう輸送船舶は全滅させる勢いで撃沈し続けているが。

「我々は英軍空軍基地、石油施設、港湾施設、そして郊外の駐屯地、そして市庁舎、放送局を攻撃・占領する。攻撃は朝五時を以て開始される」

 イドリスがよどみなく説明する。

「このうち空軍基地、石油施設、駐屯地、港湾施設は地上部隊だけでは攻略が困難だ。イラン軍部隊、あるいはインドから派遣された部隊が護っており、それぞれの兵力は大隊規模だ。また国境を接する英領イラクからの支援も想定されるため、こちらも潰しておかねばならない。そこに日本の空軍力を期待したい」

 薫子は頷く。全て事前に調整していたことだが、口頭でやりとりするのは初めてだ。齟齬がないようにしておかねばならない。

緊張感をもって周囲を見回し、一段と声を潜める。

アーバーダーン港の主要航路から外れた位置を、身を潜めて航行する小さなボートの群れは、今は英軍に見つかっていないが、そのうち見つかる可能性はある。

「分隊長、集合」

 小さく声をかけた。

 四つのボートから、それぞれの分隊の分隊長が薫子のボートに乗り込んでくる。

「我が機動艦隊の艦上飛航隊は早朝五時を以て地上部隊と同時に攻撃を開始する。飛航隊は二手に分かれ、一隊はアーバーダーンの主要四拠点、すなわちレーダー基地、軍港、石油施設、空軍施設を攻撃する。二つ目の隊は英領イラクから支援に来る可能性のあるバスラ港および空軍基地を攻撃する。我々はアーバーダーンを攻撃する一隊との地上との連絡員が主要任務だ。これらの地域では、施設だけでなく交戦相手となる地上部隊も積極的に攻撃してもらう必要がある。そこで地上部隊への目標指示のため発煙弾を撃ち込み、また必要な場合には通信も行う。そのため一〇名の分隊ずつこの四つの拠点への攻撃部隊に随伴する」

 薫子は英語で説明する。

「最重要拠点は郊外の駐屯基地だと判断し、その攻略部隊への随伴を、旦椋少尉が直卒する第一分隊とする。私、および千登勢中尉もそこに同行する。問題ないか」

「問題ありません」

 旦椋少尉が応ずる。彼女の瞳の意志の強さが薫子の印象に残る。

(彼女らには死んでほしくない……。しかしもう遅い。こんなところまで連れてきてしまった。願わくは、犠牲が少なからんことを)

「よし。ではこれより分かれて行動する。時計を合わせる」

 各分隊長が時計を診る。

「現在午前二時五九分五〇秒だ。五一。五二――五八、五九、今」

 そこで目を上げた。

「諸君の武運長久を祈る」

 それからイドリスにちらりと視線を向けた。

「――この地の英軍は捕虜をどう扱う?」

「概ね紳士的だ。奴らにも婦人兵が多い」

 薫子は半分ほど安堵した。

「……では捕虜となることを許可する。尋問には答えず姓名・階級のみを回答せよ。自決用の毒薬の使用は、各自の判断に任せる」

 更に薫子は続けた。

「また、繰り返しになるが敵軍の捕虜も丁重に扱え。イドリス殿にも要請してあるが、いかなる場合においても、捕虜への虐待は、我が帝国の誇りにかけてこれを禁ずる。各分隊において、イラン側にもこれを徹底するよう要請せよ。いいな」

 旦椋少尉、および四人の分隊長は、神妙な顔で同時に頷く。

 小型ボートはアーバーダーン港よりも更に、シャット・アル=アラブ川の上流、小さな天然の入り江に近づいていく。

 天候は曇り。ほぼ真の暗闇だ。薫子は目をこらす。

 遠くアーバーダーン港の明かりがわずかにとどき、岸辺の起伏が見える。

「――では上陸開始。各分隊はイラン軍に同行し、各拠点へ向かえ。かかれ」

 薫子が命ずるとほぼ同時、ボートは岸辺に乗り上げる。勢い込んで岸辺に向けて跳躍する。それに続くイドリス、玲次、旦椋少尉。そして第一分隊各員。

 攻撃開始まで二時間。音もなく、各分隊はそれぞれの目標地点に向かっていく。

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