第2節「ジブラルタル――吸血姫と米国士官」

 モンバサからスーダンのハルツーム、ナイジェリアのラゴス、モロッコのカサブランカ、そしてジブラルタルへと飛行機を乗り継いできたプリシラの旅は、ジブラルタルで足止めを食らうことになった。

 到着地であるロンドンが、昼夜を問わない独軍の激しい空襲下にあり、到着がままならないらしいのだ。

 真夜中のジブラルタル基地内で紅茶をすすりながら、プリシラは腕を組んで管制塔の光を見やっている。

「――全く、ドイツ軍め……。ソ連を攻めているのならおとなしくそちらに集中していればいいものを」

 向かいに座るヴィクトリアがいらだたしげにコツコツとブーツのつま先で床を叩いている。

「落ち着け。ヴィクトリア・ローズモンド。そのソ連を裏で支援しているのも我々なんだ。奴らが手を緩めるはずもない」

「しかし、あんな奴らと手を組む日本帝国もくだらない連中であるということではあります」

「まあな。それは否定しない。枢軸は日本にとっても悪い手だった。交渉の一種だったと思うが、交渉手段と言うよりも『本気で対立する』メッセージになっていた」

「全く賛成ね。それで? その国と未だに交渉している中佐殿の考えこそ知りたいものね」

 プリシラはその声を聞くなり、紅茶のカップを置いて、相手も見ずに目を閉じる。

「すまないな。珈琲はここにはないようだ。何しろここは英国の上品な基地なのでな。それともコカコーラのほうがお好みだったか」

 声をかけた当人は、そこ言葉に鼻白む。

「……あなたがつまらない告げ口をする計画だと聞いてね。ロンドンに到着する前に捕まえられて良かったわ」

 許可も取らずにプリシラの前に座る。大きな音を立てて椅子を引きつつ。

 アメリア・フォーゲル。米軍情報部、OSSの中佐だ。

 燃えるような紅い髪に緑の双眸。その雰囲気だけで熱気にあてられるようだ。

「――妾は静かで落ち着いた旅がしたかったのだ。ただでさえ暑苦しいアフリカの旅の最後にこんな者が面会に現れようとは」

「二つ。単刀直入に聞く」

「やれやれ。聞く耳なしか」

「一つ。日本軍と秘密交渉を持っているというのは事実? もう一つ。我が軍がモンバサを攻撃したなどと世迷い言を本当に英国本国に報告しようとしている?」

「英国は主権国家のはずだが。なぜ他国の情報局員に我々の機密事項を話さねばならん」

「建前はどうでもいい。我が国が連合国の一員として参戦したことはあなたたちにとってはありがたい話のはずだけど。その我が国に秘密でこそこそやっているのは非常に不愉快だわ。全部話しなさい! そのために来たのよ」

「アメリア。まずは紅茶でも飲め」

「……おあいにく様。珈琲かコカコーラを出してちょうだい。それよりもさっきの問いの答えは」

「二つともノーコメントだ。情報部員としての仕事が雑すぎるぞ。当人に聞けばいいだなんて、OSSはどういう教育をしてるんだ」

「敵ならね。でも味方ならこそこそすることはない。直接聞けばいい。英国は味方じゃないの?」

「英国に真の同盟国などおらぬ。他国は全て潜在敵国だ。――などと建前論を言ってもしょうがないようだな。しかし妾も軍人だ。命令がないかぎり妾の活動についてはたとえ誰であろうと教えるわけにはいかん。妾に話させたかったら英国軍の命令書を持ってこい」

 アメリアは黙り込んだ。

 そこに、ウェイトレスが珈琲を運んできた。ヴィクトリアが先ほど注文したものだった。

「アメリア・フォーゲル。お主に一般論として話そう」

 プリシラは紅茶を一口のみ、口を開く。

「米国が日本と戦うことで求めているのは何だ?」

「米国の安全。同盟国の安全。この二つね」

「それでは日本が戦争をやめて講和を申し込んだら受けるか。それで安全は達成できると思うが」

「無理ね。日本はナチスと同じ軍国主義国家であり、その体制が覆り、民主化しないかぎり講和はない」

「では話は簡単だな」

「何――!」

「日本の――いわゆる国家総動員体制とは、英国の挙国一致体制と同じようなものだ。講和の条件がその体制の停止だけでいいなら、講和には応ずるだろう。そもそも日本も我が英国と同様庶民院と貴族院があるような国だし、強力な独裁党が支配しているわけでもない……。独裁国家であるがゆえに日本と戦っているというのなら、ソ連と同盟している方がよほどおかしいだろう。日本がクリアできず、ソ連がクリアできるような条件を探す方が大変だぞ」

「では英国の戦争目的は」

「ドイツの打倒だ。ドイツの存在は我が欧州の安定を脅かす。一世紀前のナポレオンと同じようなものだ。欧州の安定が我が英国の国益だ。日本はドイツの同盟国だから倒す。しかし日本の中には枢軸を抜けるという動きもあるらしい。日本が抜けてくれるのは非常に好都合だ。何しろ奴らはインド洋に進出し我々の戦略を非常に効果的に妨害している。日本が抜けてインド洋から撤退するならそれでいい。その際には日本は国家総動員体制も解消するだろう。逆にそのような確約があっても米国が日本と戦うとしたら、その目的は何だ?」

「中国の解放」

「はっはっは。本音だな。市場という意味だろう」

「中国人民の解放」

 アメリアはいらだたしげに言い直した。

「もう日本は男の兵隊がいないから陸戦はやらん。満州だけで満足するだろう。逆に満州はソ連の防波堤という意味で日本に護らせるぐらいでちょうどいい」

「なぜそこまで日本の擁護をするの」

「擁護をしているわけではない。我が英国が欲しているのは世界秩序だ。それを乱す国は倒す。日本も分をわきまえ秩序の擁護側に回るなら、それを擁護するのもやぶさかではない。日本に分をわきまえさせる方法が戦争しかないのなら、もちろん戦争によって日本を倒す。交渉によってそれが達成できるなら、交渉によって日本の態度を変えさせる。米国もその姿勢でよいはずだが、去年の君たちの交渉は非常に粗雑だった。まるで戦争を自ら欲しているように見えたが――」

「……聞き捨てならないわね。それで参戦してあげなかったら、どっくにドイツにやられていたくせに」

「もちろん、ドイツと戦ってくれるのはありがたい。それに関しては何ら文句を言うつもりはない。しかし日本を挑発したのはドイツと戦うための方便だったのだから、その方便としての役割が終わった今、彼等を戦争から退場させても特に問題ないのではないか、というのが私の見方だ。もちろん、彼等が占領した土地を全て返還するのなら、だが」

プリシラ――英国の立場としては、特にシンガポールは痛い。セイロンとセーシェルもだ。

 アメリアは歯ぎしりした。

「考えは分かった。少なくとも米国と戦うということではないと理解した」

「無論だ。――米国にひとつ助言しておく。外交には無論、大義名分が重要だ。それがないと世論を動かせないし、そうやって考えた大義名分がしばしば本質を突くこともある。しかし、外交官や宣伝屋が創作した誇大な大義名分に引きずられすぎないことだ。ゲッベルスの言葉だったか。『嘘は大きいほどいい』といったかな。その陥穽にはまらないようにな」

「……ご助言をどうも。忘れないように言っておくと、我々はもはや植民地ではなく立派な主権国家なのだけどね」

「――しかし若い。我が英国の庇護を離れてたった一五〇年だ。国家としては未熟だと思うぞ。それを自覚することだ。コカコーラもいいが、たまには紅茶の味も味わえるようにな」

「失礼!」

 アメリアは乱暴に立ち上がり、すらりとした長い脚で大股にカフェを出て行った。

「……騒々しい奴だ。しかし、今回の旅行の目的は既に達したな」

 ヴィクトリアに話しかける。

「達した? まだロンドンには行っていないですが」

「妾は言ったはずだぞ。この件を本国に報告する動きをして、米国の反応を見る、と。アメリア・フォーゲルがまさにその『反応』だ。奴らはおそらくモンバサの爆破テロも裏で糸を引いていたはずだ。それは、奴らがまさに言っていたように、『英国が米国に弓を引く』可能性を恐れてのことだ。しかし妾の考えを聞き、おそらくそれはないと結論し、帰って行ったのだろう」

「――やり方が陰湿ですね」

「陰湿かどうかは知らんが、粗雑ではある。爆破テロを行うことといい、単刀直入に聞いてくることといい――どうにもな。しかし役立つ同盟国ではある」

 プリシラはお茶を一口飲んだ。

「しかし、ロンドンには帰るか……。挨拶したい人たちもいる……」

 彼女は目を閉じた。

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