第三章 第1節

 イランは前年の一九四一年までは独立国であったが、ソ連への補給路を求めた英国とソ連の思惑により一九四一年八月に軍事占領されていた。同じく一九四一に英国に軍事占領されていたイラクとの国境に近いペルシャ湾沿いの都市、アーバーダーンは、イラン国内でも首都テヘランに次ぐ重要拠点であった。

 第一に、ペルシャ湾からの補給物資の陸揚げ拠点である。ペルシャ湾に流れ込む二つの大河によって形成されたアーバーダーン島の上にあり、優れた港湾能力を有していた。

 第二に、イラン随一の石油掘削拠点である。アーバーダーン製油所は世界最大規模を誇り、連合国、特に対独戦線で苦戦するソ連をカフカスやカスピ海の油田とともに潤していた。

 そして、攻める側からすれば、海側から攻撃しやすい地形である。

(――アーバーダーン。プリシラの『推薦』は的確だな。確かに日本が力を示すにはこれ以上の攻撃目標はない。但し、対連合国の戦争から脚抜けできなくなる虞があるが……)

一九四二年四月一五日深夜。

 伊二六号潜水艦の作戦室。ペルシャ湾。シャット・アル=アラブ川沖合。最大でも八〇メートルの水深であるペルシャ湾は、潜水艦の作戦海域としては浅い部類に入り、艦長の楡綾乃(ルビ:にれ・あやの)少佐は難色を示していたが、軍令部から同潜水艦の属する第六艦隊司令部に直接命じられては否とはいえない。

「――少数ということでしたが、三〇名近くもの陸戦隊にご搭乗いただくことになるとは思いませんでしたよ」

 やや皮肉を込めて言う。

 少佐なので同格だが、軍令部から派遣されてきた薫子に対してはやや遠慮がある態度。しかし自分の艦を危険にさらしていることについては若干のいらだちを隠しきれていない様子だった。

「すぐに済む。あと一時間だ」

「英軍は無論我が軍の攻撃に敏感です。アーバーダーンは最重要拠点ですから、駆逐艦の警戒も強い」

 楡少佐は言い、海図をにらみ見ている。アーバーダーン近傍のみの海図。今回の作戦のために特別に作られたものと見えた。

「とにかく、一時間以上は待てません。迎えが来なくても泳いでもらいますからね。浮上するだけでもありがたいと思ってください」

「分かっている。ご協力には感謝している」

 薫子は胸ポケットから砂糖菓子を取り出す。

「せめてもの例だ――では一時間後に」

「軍令部は物資が豊富なようで、結構なことですね」

 楡少佐は言い、それでも受け取った。


 

「ご体調。大丈夫なのですか」

 伊二六号潜水艦の司令室から戻る途中、傍らの玲次が聞いてくる。

「倒れられたのはつい数日前です。まだ快復されたとはいえないでしょう」

 薫子は翔鶴にて玲次と作戦会議を行った後、再び艦内で昏倒していた。玲次に助けられその後艦内の医務室で軍医に診てもらっていたようだが、一日ほどで意識は回復していた。

 軍医によれば、昏倒の原因は全く不明とのこと。注射もされ、いろいろと検査をしたが、貧血であるとか、低血圧であるとか、そういった昏倒の原因となり得るものは特になかったそうだ。但し艦内の医務室でできる検査は限られており、妙な病気が流行っても困るので血液サンプルは昭南市の軍令部に送ると言っていた。

「……あのプリシラ中佐が怪しいと私はにらんでいます」

「噛まれたところか。噛み痕自体はもうただの傷なんだがな。本当に吸血鬼だったらそれは危険だが……」

「吸血鬼というのは確かにおとぎ話です。しかし妙な感染症という可能性はある。遺伝的にそのような感染症の症状が出ない人間もいれば、てきめんに症状が出るような人間もいる……。英国が細菌戦を仕掛けてきた、という可能性は真面目に検討すべきかも知れません」

「病気に詳しいな、君は」

「兵学校に入る前――高等学校時代には生物学もやっておりました。我が国の状況を憂いてのことです。しかしまずは士官となり戦わねばと思い直し兵学校に進学しました」

「士官学校でも良かったのではないか。陸軍こそ主力だという考えもあるが」

「難しいでしょう。今後陸上戦闘において我が国は劣後せざるを得ません――と言えば、婦人将兵の方々のご不興を買うかも知れませんが」

「参謀本部も軍令部もそう思っているようだし、まずはそこから変えていかねばな。貴官のみ説得しても無駄だろう」

「恐縮です」

 玲次はわずかに頭を下げた。

「しかし今回の陸戦隊も婦人兵だ。――英軍は現地兵が多い。少しでもその考えを反証できればいいが」

「……男子として忸怩たる思いです。大和撫子を前線に立たせることになるとは」

「つまらんことを言うな。今更だぞ。男子だけでは数が少ないのだから仕方ないだろう。」

「……しかし上海事変で敗北し、捕虜となった婦人兵部隊は……」

「言うなと言っているだろう。捕虜の末路は女も男もない。だからこそ『死して虜囚の辱めを受けず』なんだろうが。この議論はここまでだ」

「は――」

 それから軽く玲次の肩を叩いた。

「心配は嬉しい。しかし口に出せば名誉を傷つける。その違いを学べ」

「了解であります」

 婦人将兵区画の目の前だった。潜水艦は狭い故、通常の士官室、居住室は婦人将兵用になっており、男性は士官も兵も魚雷庫の中に居住区がある有様であった。

「では一時間後に」

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