第3話

薫子の最初の記憶は、おそらくアムール川で水浴びしたときのものだ。白い水着に身を包んだ母親の笑顔がまぶしかった。あれは確か、一九一九年の夏、薫子が四歳の時だった。

 当時、薫子と、彼女の本当の母親は、ロシア帝国東方、ハバロフスク州ニコラエフスクの娼館にいた。本当の父親は知らない。多分母親の「客」の一人なのだろう。どんな民族の、どんな職業の男だったのか。薫子の容姿からすれば、日本人ではないだろう。しかし、ロシア人ともかぎらない。ニコラエフスクは当時相当に国際的な都市だった。ドイツ人かもしれないし、フランス人かもしれない、あるいはイギリス人、アメリカ人の可能性もある。

 いずれにせよ、幼い薫子には、特に嫌な思い出はなかった――ように記憶している。幼い頃なのでよく分からないが、比較的自由に日本人街を行き来していたし、ロシア人街にも行っていた記憶がある。

 もしかすると、薫子以外の街の住民にとって、薫子の父親のことは公然の秘密であり、父親のことを慮って優しくしてくれていたのか、とも思う。

が、関係者が全員死亡した今となっては、真実はまるで分からない。

 そう。当時その町に生きていた人々は、あの思い出の後、ほとんどが死んだ。

 一九二〇年三月。

 一九一七年に勃発したロシア革命から続く白軍と赤軍の戦いは、第二次世界大戦後、列強各国の介入を招き、シベリアに出兵した日本軍もニコライエフスクに進駐した。日本軍は白軍――ロシア帝国側――と同盟し、赤軍――ロシア革命側――と戦う立場であったので、当時は白軍側が支配していたニコラエフスクへの進駐は平和的なものだった。しかし、次第に赤軍が街に迫ると事態は切迫していく。

 一九二〇年、尼港に迫った赤軍は、都市を支配するロシア白軍と日本軍に対し開城を迫る。充分な戦力がすでになかった白軍は判断を日本軍に委ね、日本軍は市民の安全を保つことを条件に開城を認めたが、その約束はすぐに赤軍により裏切られ、ロシア人市民の虐殺が始まった。赤軍は日本軍に対しても武装解除を要求したが、虐殺を目の当たりにした日本軍はこれを拒否、ロシア市民および日本人居留民を含む外国市民を護るため赤軍との戦闘に入った。

が、衆寡敵せず、次第に追い詰められていった。

 そして一九二〇年三月一七日。最後に残った八〇名あまりの日本軍将兵および日本人居留民は、ハバロフスクに展開していた上級部隊および領事の指示により、武装解除をすることになった。

(――しかし、それが間違いだった。降伏が常に平和的な結果をもたらすとは限らない……)

 薫子は目を閉じた。

 後に尼港虐殺事件として知られるその惨劇を生き残った日本人はほとんどいない。

 薫子があの惨劇から逃げおおせることができたのは、まさに奇跡としかいいようがなかった。

 アムール川から満州を縦断し、朝鮮との国境にたどり着いたのは数ヶ月後だった。それから、母の故郷であった佐賀に至り、その孤児院で暮らしていたところで、現在の父である神崎拓朗少佐に見いだされ、彼の養女となった。

 後で聞いてみると、周囲の子供より体格が良く、名前を「薫」と聞き間違えたことで、父は薫子を男子と勘違いしていたという。当時は男子が生まれないことが日本中で大問題となっており、父は養子として男子を迎えたいと奔走していたところ、焦って間違えたとのことであった。だが、薫子を連れ帰ると、母親は「なんてきれいな子」と一目で気に入り、すぐに女子と分かった後も大切に育ててくれた。

「男子が生まれない」という問題は、それから八年後、薫子の弟がようやく生まれたことで解決したが、その頃には既に、薫子は統士を目指し日々勉学に励んでいた。

 尼港での虐殺。

 当時五歳の薫子には何もできなかったという、後悔が彼女の胸の内で重たい澱のようにずっと沈殿していた。その後悔の澱は、日々きな臭くなっていく国際情勢の中で、自分を引き取り、大切に育ててくれた両親やきょうだいたちを、どうしても護りたいという思いに昇華していった。

 その思いは、今の方が強い。

 昔から、尼港虐殺の記憶を思い出しては、「いつ、どのようにすれば防げたのか」を考えるクセがついていた。

 今、尼港ではなく日本全体について、同じことを考え続けている。

 そして、尼港とは違い、日本はまだ手遅れではないのだ。


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