第二章 第1話

「そんな! 降伏してもどうせ全員殺されます。それよりはこのまま立てこもった方が……!」

 女性の声が聞こえる。誰だっただろう。母ではない。母は既に殺された。それから自分をここまで連れてきた人だろう。

 重苦しい沈黙。血のにおいと、火薬のにおい、人の腐った死体のにおいが湖全一体となって、兵舎の中に立ちこめている。

「――しかし、師団本部が降伏せよと命じてきたのだ。命令ならば受諾しなければならない」

 男の声がする。

 薄暗い中、そこだけにろうそくがともされていた。地図を囲み、数名の軍服を着た男たちがそれを囲み、その周囲に兵士たち、民間人の男たち、女たちがみな一様に不安げに押し黙っていた。

「それに、赤軍は降伏すれば捕虜として扱うと言っている」

 ろうそくのともされたテーブルを囲む一人の将校が言った。

「彼等はいつもそう言う! しかしそれは全て嘘だ! 白軍ロシア人もだまされて殺された! 同胞も殺された! ユダヤ人もアメリカ人も殺された。信じる理由はどこにもない。降伏しても殺される! ならば戦い続け一縷の望みに欠けた方がマシだ」

 民間人の男だ。たしかアムール川経由の魚介類の貿易を生業としていた男だったと記憶している。周囲の悪臭に混じり、わずかに彼からは魚のにおいがした。

 平和なとき、遊びに行くと、いつも彼はいつも魚の缶詰をくれたのだ。

「それでもそれが国策ならば受け入れるしかない」

 絞り出すような声だった。

 それが一〇〇名足らず、最後の命の砦に残っていた同胞の運命を決めた。



「少佐殿! 少佐殿!」

 薫子がその悪夢から覚めたのは玲次の声によってであった。

(悪夢? いや、現実だ。現実の記憶の再現だが、悪夢のようにいつまでも思い出されるな……)

 揺れから推測するに、全長一〇メートル程度のボートだ。エンジン音から推測するに、海軍のボート――十米特型運貨船だろう。プリシラに噛まれた首筋がじんじんと熱い。痛みではなく熱が首を中心に全身に充満している気がした。

「私はどれぐらいこうしていた……?」

「およそ二時間です。あの後、英軍の自動車で海岸まで送り届けてもらい、そこで迎えの小発に」

 小発と小型発動艇――つまりこのボートのことだ。艇尾のエンジン部に操縦兵が、艇首の機関銃座に機関銃手が、それぞれ乗り込んでいる。

 後部にのせられた薫子は操縦兵にちらりと目を向けた。女性だ。二〇歳前後といったところか。

「――世話になる」

「いえ。お役に立てて光栄です。イギリスに降伏を突きつけに行っていらしたのでしょう。イエスか、ノーかと。イエスといいましたか」

 勇ましいな、と薫子は心中苦笑した。

「君は子供を育てたことはあるか?」

「姉の子ならば、面倒をみたことはあります」

 誇らしげに、兵士は胸をはった。

「イギリスにとってはな、世界中に広がった植民地はすべてきらびやかなおもちゃのようなものだ。とりあげようとするとどうなる」

「泣きわめきます」

「そういうことだ。かみつかれたよ。凶暴だ」

「駄々っ子ですね。もう少し折檻が必要ですか」

「ああ。力を見せないとどうにもならないらしい」

(本当にそうだ。もう戦争はしたくないのだが)

 プリシラの意図は分からないが、事情は日本と同じなのかもしれない。つまり痛い目を見ない限り強硬派はその姿勢を改めないということだ。婉曲的に、「英軍の強硬派を叩き潰して自分の意見が通りやすいようにしろ」と言われたような気がした。とすると、その言動はさておき、相当に薫子に対して融和的な態度だったのかもしれない。

 昔から謎めいた女で、その真意がつかみにくい人物ではあるのだが。

 そもそも、実際に会ってくれたのだ。

 だからこそ、彼女の心証を極端に悪くしたあの砲撃は許しがたい。

「しかし砲撃には参った。何か聞いているか」

「――作戦参謀の洲月少佐ですよ。彼女が夜間砲撃を主張したんです。モンバサ島そのものは狙わず、キリンディニ港の艦艇だけを狙うと言っておりましたが」

 洲月菫。聯合艦隊・第四艦隊の作戦参謀だ。薫子も所属する、航空兵力主体でインド洋の通商破壊を担う艦隊である。

一九四一年一二月の開戦時、第二艦隊が主力の航空戦隊とともに「飛虎義勇艦隊」として抜けたあと、日本海軍は体制を再整理した。

結果、第一艦隊は昭南市(旧シンガポール)に置かれた大本営の防衛に、第三は朝鮮・台湾・中国大陸・フィリピン、第五は千島列島方面および日本本土が担当海域となっている。そして第四艦隊と第六艦隊がインド洋の通商破壊担当だ。第四は航空戦力主体、第六は潜水艦戦力主体であり、それぞれ昭南市を基幹母港とし、セイロンおよびセーシェルを拠点に作戦を展開している。

このうち第三と第五は艦隊の名が付くものの駆逐艦と海防艦主体のお粗末な装備であり、飛虎艦隊に主力の半分を取られた後の残りは、第一と第四で分け合っている、という状況だ。

「そんなに狙いが正確なら誰も苦労しない。モンバサにも何発も落ちていたぞ。奴らの癇癪がひどかったのもそれが理由だ」

「それは……余計なことをしたものですね、洲月少佐も」

「やつは余計なことしかしない」

 薫子は言い切り、押し黙った。

 痛み――と言うよりも熱がぶり返してきたようだった。

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