第4節「吸血姫登場」
裏手に回ったところにあった門扉も、表側と遜色ないほどに立派であった。その邸宅の入り口に控える一人のセーラー服姿の女性兵に、薫子は声をかける。
「こんばんは。月がきれいですね」
女性兵は薫子を見下ろし、何か言いかけたが、無言で銃を下ろし、扉を開いた。それから思い出したように口を開く。
「……この砲撃の礼は高く付くぞ、日本軍」
「――あなたもきれいですね」
薫子は煙に巻くようなことを言い、そのまま奥へ進んでいく。
「どういう意味です? 最初のは合い言葉ですが?」
「何も言えないが、何か言わないといけないと思ったのでな」
「それだけですか」
「実際、多少化粧をしていたのでな、褒めておいた」
「先ほど、あなた自身はレディではないとおっしゃいましたが」
「それはそうだ。軍人らしくはないし、褒められたものでもないかもしれない。が、そもそも戦闘は手段だ。幸福を将来得るための。あるいは今の不幸を少しでも軽減するための。男も女もな」
「不幸になり続けている気がします」
「戦闘を選択しなかった未来を知らないからだ」
薫子はぶっきらぼうにそう言った。
そして、扉をノックする。
「鍵は開いている。開くが良い」
凜とした、静かな声が聞こえた。女性の声だ。静かだが、力がある。
彼女の声については、もともとそう思っていたが、英国王よりもなお、英国らしく、古めかしく威厳のある声だった。
*
息をのむ美しさだ――と思った。
金色――というより白金色の細い髪が、豪奢に波打ち、天井のシャンデリアの光でまばゆいほどに輝いている。それを短くシニョンに後頭部でまとめ、当人は籐椅子に足を組んで、パイプをくゆらせながら座っている。その肌の色は透き通るように白く、その奥に赤い血液の存在も感じさせないところは相変わらず人間離れしている。紺色の金ボタンの身体にぴったりした制服に身を包んだその姿は、ほっそりとした印象でありつつ、ある種のオーラに満ちていて、この世のものならぬ力強さを感じる。
そして、その背後には、同じく紺色に金ボタンの制服を着た一人の女性将校がぴたりとつき、油断なく薫子と玲次を観察し続けている。
「久しぶりだな、プリシラ」
薫子が緊張とともにそう告げた。玲次は彼女にぴったりと付き、油断なく腰の銃に手を伸ばしている。
プリシラはなにも言わず、立ち上がると、つかつかと薫子に近づき、パイプを持っていない左手の手の甲で思い切り薫子の頬をはった。
衝撃で一瞬、よろめくが、踏みとどまる。
「この狼藉はどういうことか、説明をもとめていいのであろうな?」
顔を近づけ、詰問してくる。プリシラは薫子とちょうど同じぐらいの背格好だ。あまりに強く迫ってくるので肺が圧迫され息苦しいほどだ。
「――私も知らない。と言えば納得してくれるか?」
「するわけがないだろう! この妾(ルビ:わらわ)自身もスパイの疑いを向けられることになろうぞ!」
「……その件に関しては全くすまない。おそらくこの交渉を妨害しようとする一派の動きだろうと思う」
「――だとしてもその程度を抑えてこそのお主だろうが! 妾がこの交渉を成り立たせるためにどれだけ本国で苦労したことか!」
「……全くすまない」
「ふん……」
プリシラ・ブラッドフォードは身体を離し、籐椅子に腰掛けて足を組んだ。
「――お主自身は無力だが、お主らの艦隊はそうでもないようだ。おかげで本国での根回しが予定より巧くいったぞ」
「――そうか……」
安堵する。だが相手のリップサービス、あるいは何らかの欺瞞かもしれない。そもそも先ほどは「苦労した」といったのだ、この女は。
「要求を聞こう」
形の良い唇でパイプをくわえつつ、プリシラは言う。
同時に、自身と向き合う位置にある籐椅子を指し示していた。
薫子はそこに静かに座る。
「和平交渉の席についてもらいたい。降伏までは必要ないが」
今度はプリシラは怒らなかった。怒る気も起らないほどの内容だったか。
「正気か」
「キリンディニで艦隊は見た。まだ健在なようだ。だが、このままではそれも何ヶ月ももつまい」
「――ふん。醜いものだ。調子に乗って足下も見れない軍人というものはな。米軍がすぐにシンガポールを攻略するであろう。そうすればお主らはインド洋で挟み撃ちだ」
「だが、それには時間がかかる。アフリカももつまいし、ソ連ももつまいし、インドももつまい。君たちは本国が防衛できても、大英帝国は有名無実となるだろう」
「日本帝国もそうであろう?」
「――もともと、この先数年で我々の継戦能力は大きく削がれる。兵員の男女比のことではない。資源がそもそもない。それは分かっている」
そこで言葉を切り、意味ありげに、プリシラの深い青の双眸を見つめる。
「だが、英国も同じ立場になった」
「……共倒れが嫌ならなんとかしろ、と言いたいのか。ドイツはどうする」
「英国が和平に応じれば、同盟は解消する」
「もともとお主らがドイツと同盟などしなければよかったのだ」
「あれはいわば弱者連合だよ。世界恐慌だからといって、自由貿易による国際協調がなくなれば植民地を持たない我々は手の打ちようがない。我々――日本もドイツもな。手を組んで植民地を持っている連中から奪うしかなくなる。協調よりもエゴを優先したのはどっちが先だ」
「……もう一度協調しろと言いたいのか」
「日英同盟を再び結んでくれればありがたいが、そこまでは望まない。ただ、和平に応じてくれればいい。それと同時に我々が枢軸から抜ければ、米国としては我々と戦う理由はなくなる――はずだ」
「中国大陸の利権はどうなる? 米国は強欲だぞ。独占は許すまい」
「それだけのために戦争を継続しはしないさ」
「楽観的だな。奴らがそうしないと分析しているのではなく、そうしないでほしいと望んでいるだけに聞こえるぞ」
「……大陸利権は――ある程度共有すればいい。独占できるのが我が国の国益上は理想的だったが、それもまた強欲というものだ。『米国は強い』――それを今回学べば、我が国の強硬派にも妥協の余地も生まれるだろう。それは米国にとっても同じだ」
「『日本は強い』か? それは冗談で言っているのか? 米国が本気を出せば日本は勝てるはずもないだろう」
(これは試しているな)
薫子はすうっと息を吸った。
「――もし英国が和平応じず我々がこのまま戦い続けた場合どうなるか予想してみよう。まず、ソ連が負ける」
「――インド洋と太平洋からの補給ができなければ、早晩そうなるだろうな」
「ドイツはユーラシアの中央を支配するだろう。また、エジプトも取られる。地中海も支配する」
「であろうな……」
「インドも独立するだろう。中東もだ。インド、中東諸国はともに貴国への恨み骨髄だ。ドイツと結びつくだろう。ここまで来ると、容易にはドイツを敗北させることはできない。何しろ資源地帯が手に入る。人もな。いくらでも戦い続けられる。ドイツは強兵だ。その泣き所が人と資源だったが、その両方が解消するんだからな」
「ドイツは強烈な差別主義者だぞ。インドも中東も従うかな?」
「――比較対象は聖人君子ではない。イギリスと比べてマシならそちらにつく」
プリシラは黙り込んだ。
「それに、中東の中でもイランはアーリア人だ。定義によってはそうなる。インドもそうだ。ドイツが強烈な民族主義者だからといって、そうそうイギリスの思惑通りにはいかないだろう」
プリシラは目を伏せる。金色のまつげが目立つ。それから視線を上げた。
「とはいえ米国が参戦すれば戦局は覆る」
「同意する。米国は強い。資源もある。人もたくさんいる。しかし本格反攻までには時間がかかるぞ。その間英国はどうなる? ドイツとアメリカの戦争の最前線だ。米国に頼りすぎれば主導権は取られてしまう。植民地を失うだけでなく、英国自身が米国の植民地のようになるぞ」
「――脅迫か」
「共倒れを避けるべきではないか、と言っている。このシナリオでも我が日本帝国の未来はそれほど明るくない。英国と同じ立場だ。鏡写しのような、な。ドイツは遠い場所で活躍してくれる分には心強い味方といえるかもしれないが、隣人としては最悪だ。彼等とともに同じ陣営に長くい続けることはできない。何しろどう逆立ちしても我々日本人はアーリア人ではない。イランやインドはその定義に入る余地があるが」
妙齢の英国士官は立ち上がった。パイプをくゆらせながら、ゆっくりと部屋の中を行ったり来たりする。その仕草自体に意味はないが、鑑賞する余地はある、と薫子は思った
さながら動物園の檻の中のフラミンゴか丹頂鶴のように、すらりとした優雅な脚取りだ。
そのフラミンゴがくちばしにくわえたパイプを外した。
「――ソ連を負かす、と言ったな?」
「言った」
「――それがお主の話の最大のホラだ。ソ連には人がいる。資源もある。そうそう負けはすまい」
対抗上、薫子も立ち上がった。
「だが工業力が貧弱だ。農業力もな。だから君たちは兵器や食料を送っているんだろう。あんなに大量に。我々は鹵獲しがいがあるが。ああした兵器や食糧がなければソ連は勝てまいと理解しているから送っているんだ。君たちが何と言おうとな。それを完全に絶つ、と我々は言っている」
「――単にドイツを疲弊させるためだ。それ以上の意味はない。支援がなくてもソ連は勝つが、それが遅くなる。その間に多くの被害が出る。それに、ドイツを勝たせることは道義的に容認し得ない。国家社会主義は危険だ」
「同意する。国家というより民族社会主義だからな。自民族の発展と自民族の中での社会的福祉を目指す思想だ。それ以外の民族には迷惑でしかない。しかし、ソ連がそれに比べてマシといえるかどうかは別だ」
「――明確に差があると思うが」
「では聞こう。ソ連はよくいろいろな民族をその故地から切り離し、べつのところに移住させることをやる。これはソ連特有の思想が民族という概念そのものを排除を要求するからだと理解しているが、ロシア民族をその故地から切り離し強制移住させたことはあるか?」
「――ないな」
「これからそれを行う予定はあると思うか?」
「……ないだろうな」
「民族主義という概念――自己と宗教的あるいは遺伝的に近縁な個体を有利に扱い、それ以外を排除したい――という思想は、狩猟採集を行っていた頃からの人間が持つ原始的な欲求だ。動物としてのヒト種の宿痾であり、どんな綺麗な理論を作ろうが、程度の差はあれ現在の人はそれを持っている。ドイツとソ連の違いは、その本音を認めるかどうかの違いだけだ。ソ連は認めないだけでそれに忠実な政策をしているし、それを批判したらシベリア送りになる。少なくとも私からはそう見えている」
「悲観的すぎないか。それではあらゆる国がそうであるということになるが」
「それに対しては3つの立場がある。それを容認し、推進する立場。ドイツだな。そんなものは本来ないと宣言し、認めないが裏ではそれに従ったことをやっている立場。ソ連だ。そして、そうしたものが人間にあると認めつつ、それに対する対策を漸進的にでも推進しようとする立場」
そこで言葉を切る。
「日本帝国は三番目だと言いたいのか」
「私の一派によって三番目にしたいと言っている。今砲撃している連中がそうであるかは知らない。英国との講和は我が派の力を強める。そして、独ソ以外はみな、状況によっては三番目になる余地がある」
「その二つを倒すのが世界平和のためか。ドイツが勝ったらどうする」
「倒す。インド洋の制海権は、中東やインドにドイツが頼るようになれば重要になるだろう。そこを突く。無論英国の支援も期待している」
プリシラは傍らの副官たる女性士官にパイプを渡し、腕を組んでどっかりと籐椅子に座った。
「ご高説うけたまわった。相変わらず演説が好きだな。独裁者の素質がある。――ただ、それだけでは足りんな。インド洋の封鎖だけではソ連は相当もつぞ。その間に米国がお主らを叩き潰す。それが見えているのでこの話にはのれん。――他力本願ではなく、自ら戦って勝ってみろ」
「英国に?」
「――そうだ。我が領土に直接侵攻してみろ。そして勝って見せろ。例えばイランだ」
薫子は絶句した。
「何を躊躇している? 今だってお前たちは我々を攻撃しているではないか。今のこの場が特別なんだ。私がお前を撃たないこと、お前が私を撃たないことが」
「……その関係を維持したいと思いここまで来た」
プリシラは心底軽蔑しきった目で薫子を見た。それは、薫子を人間として――権利ある個体として取り扱うことに一瞬迷いを生じたような、そんな視線であった。
「甘いな、人間」
まったく躊躇のない、流れるような動きで、プリシラは薫子の制服の襟をつかみ壁に押しつけ、制服そのものをびりり、と破いて首筋にかみつく。ずぶりと犬歯が沈み込み、血があふれにあふれて、薫子の肌の白と、破れた制服の白を堂々と赤の鮮血が浸し、侵し、まるでそう定められていたかのようなどくどくとした怪しく美しい血模様を描き出した。
「がっ――ぐふ……」
「少佐どの!」
瞬間、玲次はプリシラに斬りかかっている。しかし、控えていた女性士官がプリシラを護るように動き、サーベルで玲次の刀を受け止めた。
玲次はそこで止まらず刀をいったん引いて相手のバランスを崩し、当て身を食らわせて倒す。次の瞬間には流れるような動きで刀の柄をプリシラの脳天に叩き下ろす。
が、その攻撃は叶わなかった。
プリシラが玲次の刀の柄を指二本で挟み、受け止めたからだ。
まるでサクランボでもつまむような、優雅で力の感じられない仕草だった。
「その程度か、人間」
「あなたは何者だ……」
「――英国海軍士官だ。それ以上のものではない、お前にとってはな」
ぴん、と指ではじくと、玲次は姿勢を維持できず二、三歩よろめいて倒れた。
「……手当てしてやれ。人間はもろい」
女性士官にプリシラが指示すると、彼女は頷き、薫子の制服を脱がせて、包帯を巻き、止血する。
「……今の約束、信じて良いか」
薫子は血の気を失っていく自分を自覚しつつ、自らを見下ろすプリシラを見る。
「――約束しよう。やってみろ。全てはそれからだ」
薫子が記憶しているのはそこまでだった。いつの間にか、激しい砲撃音はやんでいた。
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