第3節「モンバサ砲撃」
ホテルの姿見で白い海軍軍服の身だしなみを確認し、その上からヒジャブを被り、全身を覆う。これで体型も軍服もごまかせる。
薫子は、口を引き締め、足早に部屋を出て行く。
「――待ったか?」
部屋の外で待機していた千登勢玲次大尉に尋ねる。
「いえ」
「待ったと言え。私の準備が少し遅れた。急ぐぞ」
「レディにそれは失礼ですから」
「レディではない。上官であり軍人だ。そう扱え。何度も言っているだろう」
モンバサのホテルの木造の階段を降りていく。体重をかけるたびに木の板がきいきい鳴るようなホテルではあるが、これでもここでは高級な部類らしい。商用でやってきた東洋イスラム商人とその妻というのが設定だ。高級な部類のホテルに泊まるのは妥当だが、これよりも高級を求めると怪しまれる。
ちらりと玲次に振り向く。精悍な顔立ちだが、薫子には柔和な笑みを浮かべている。
統士――統合婦人士官学校などを作り、男子と女子の士官教育を分けてしまった弊害の一つがこれだ。将校を女扱いしたところでいいことなど一つもない。かといって同じ場で教育をすれば風紀が乱れること必定。頭の痛い問題ではある。
ホテルのロビーで立ち止まる。英国風のスーツを着た浅黒い肌の受付の男がこちらをいぶかしげに見ている。
玲次に目配せする。
「お出かけで?」
男が問うてきた。訛りの強い英語だ。
「妻が夜風に当たりたいと言ってね」
玲次が英語で答える。
「……随分と優しい旦那様ですな。尤も、美しい目の奥方だ。そうしたくなる気も分かりますが」
男はアラビア語に切り替えて、軽口を叩く。
「褒めるな。羨望は破滅のもとだ。するのもされるのもな」
玲次はアラビア語で短く答え、札を一つ、男に持たせた。
「これで何か買え」
「インシャラー。旦那は分かっていらっしゃる」
男はにやりと笑い、我々を通した。
ヒジャブを通して身体に流れてくる夜風が気持ちいい。空を見上げると、アフリカの壮大な星空に圧倒されるようだ。
「大尉は諜報畑が長いようだ。度胸がある」
足早に歩きながらそう水を向けると、玲次はクーフィーヤに影になった顔の奥で白い歯だけを見せた。
「英国諜報を担う八課ですから、英国の支配下にある様々な人々の気質を知るのも重要です。彼等には彼等の論理がある。先ほどのあれは、単に見目麗しい妻をつれている男はそれだけ周りの男よりも神に恵まれているのだから喜捨をしろということですよ」
果たしてそこには玲次自身の評価は入っているのか、それともあの男の評価をそのまま伝えただけなのか、薫子は多少気になったが、自分は「レディ」ではない、と宣言した手前だ。
「複雑だな」
とだけ返しておく。
「単純です。いろいろと理由をつけて本音を隠す西洋人のほうがやりづらい、と思うようになりました」
「――本音よりも建て前なのは我が国も同じだろう」
「確かに。しかし最近は大分本音に素直になってきたのではないですか。諸悪の根源のイギリスを懲らしめてやろう、だなんて、これほど直情的な戦闘行動はない。私はもう少し分析的に物事を進める方が好みですが」
「私もそうだな」
「少佐殿は確かにそうですが、私よりも一段上の立場で分析されているように思います。雑事というより、世界という碁盤で分析をしていらっしゃる。分析と言うより構想に近い」
「あるいは世界というキャンバスで自分好みの絵を描くか。下手をすると第三帝国の総統のようになりそうだな。それが危ういと? 確かに、分不相応に高いところばかり見ていては、いつか足場を崩されるかもしれんな」
「大丈夫です。少佐殿の足下は私が見張っておきますので」
玲次がそういった瞬間だった。
ひゅるるる――という不穏な、だが聞き慣れた音がする。
「伏せろ」
薫子は短く命じると同時に、玲次を強引に押し倒して道の脇に伏せさせた。
(この音は――艦砲か!)
着弾は数街区先だったが、爆風が容赦なくヒジャブを打つ。港の艦隊を中心に攻撃しているようだが、街区にも流れ弾が当たっている。
(――強硬派め……!)
薫子は歯ぎしりした。軍令部第三課――情報担当の自分が英国士官と今夜密かに交渉することは艦隊の上層部は知っていたはずだ。
(交渉を潰す気か……! 馬鹿な)
だが、今何を言ってもどうしようもない。
この暴挙の理由、問い詰めれば連絡不備だなどといくらでもいいわけは出てくるだろうが、責任は取らせねばなるまい。
が、今は生き残ることが最優先だ。
生き残り、そして、交渉相手と相まみえることが。
「とにかく、港から離れる。迂回路で目的地に行く」
「いったん撤退を……!」
「これだけの調整をし、奴を引っ張り出すのに何週間かかったと思っている。このまま帰れるか!」
薫子は言い捨て、次の着弾と同時に走り出した。それに続く玲次。
モンバサは、モンバサ島を中心とする市街地があり、その南および西の入り江がキリンディニ港になっている。本来ならモンバサ島を狙う必要はなく、その南方あるいは西方の入り江だけを狙っていればいいはずだが、西方を狙う砲弾はモンバサ島を飛び越える関係上、距離を間違えればモンバサ市街地に落ちる。
それがモンバサ市にも相当の砲弾が降り注いでいる理由らしかった。
(――と言う理由をつけてモンバサ市街地への攻撃を正当化するつもりかな)
薫子は思うが、今はそういう推測は役に立たない。
薫子らが投宿していたホテルはモンバサ島の南岸、モワ・アベニュー沿いにあったが、目的とするホテルは、同じモワ・アベニューを東進し、アベニューが島の中心部に入り込んだ位置にある。イギリス高等弁務官府の近くだ。
要するに、今の道を進んでいけばいいわけだ。砲弾が飛んでくる方向に向かって。
(殊更モンバサ島を狙っているわけでもない……。そうする理由はないからな。とすれば弾着の前に伏せていけば大抵の攻撃は防げる。いける!)
薫子はそう決意し、更に駆け出す。
が、すぐに足を止めた。
「少佐どの」
玲次が短く言う。とがめるように。
「――けが人だ」
倒れているのは現地の少女だ。イスラム教徒ふうではない。ヒジャブのようなものはみにつけておらず、服装は簡素だ。どこかにぶつけたのか、血を流しているが、怪我はそうひどくはなさそうだ。
「捨て置く、と言う選択肢もありますが」
玲次を無視し、そちらに向かう。
「おい、大丈夫か。しっかりしろ」
スワヒリ語で話しかける。
「大丈夫……ありがとう……」
少女は言うが、かなりの血が出ていた。
「急ぎましょう」
玲次が急かす。
「見捨てろと言うことではありません。英軍が対応するでしょう。支配するということはそういうことです。住民を守るのも支配者の務め」
「――だがこの子は私が見つけた。軍人が血を流すのは民を護るためだ。目的と手段を取り違えてはならない」
ヒジャブの一部を破って包帯を巻き、止血する。
誰かの影が近づき、彼女を照らす月明かりが、やや隠れた。
「誰だ」
鋭い誰何の声がする。銃を突きつけられている。とっさにそう悟った。両手を挙げ、ゆっくりと立ち上がる。
「無礼だぞ。妻はこの子を助けようとしていただけだ」
玲次が英語で言う。
「そこの女に聞いている。誰だ」
声は女性だった。
「私の妻だが」
玲次が尚も言う。
「女。答えろ」
薫子は振り向いた。セーラー服の女性兵だ。小銃を突きつけている。眼光は鋭い。
「アニサと申します」
アラビア語で答えた。
「この子供を助けておりました、兵隊さん」
女性兵士はじっと薫子を見つめた。
「……いいだろう。行け。我々が後はやっておく」
薫子は何も言葉を発せず、イスラム教徒ふうの礼をして、そのまま歩き出す。それに続く玲次。兵士のほうを伺いつつ、彼女の視線が切れたところで一気に欠けだした。
「……なんて馬鹿なことを。ばれては困るところでした」
「困る――とは控えめな表現だな」
「分かっているならもうやめてください」
「――考えておく」
そこで、薫子は立ち止まった。
目的地――英国高等弁務官府の隣の、何の表札も掲げていない邸宅。
その敷地の脇道に、薫子は迷わず入っていく。
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