第3話

「早くも記憶の手がかりを見つけたかもしれない」


 そう言うと、テーブルの向こうで目玉焼きをナイフで切っていた沙那が顔を上げた。


「よかったじゃないですか!」


 そう言いながら、切り分けた半分を俺の皿に移してくる。

 ちなみに、今の時代卵はけっこうな高級品らしいので、二人で一つを分けている。


「私のことですか?

 それとも、量兄さんのことですか?」


 期待に満ちた目で訊いてくる沙那には悪いが、


「いや、違う」


「そうですかー……」


 しゅんとなって目玉焼きを掻き回す沙那。

 それを見てふと、自分という人間は目玉焼きを食べる時果たしてどういう食べ方をするものだったか、と思う。

 とりあえず沙耶と同じようにしてみて、切り分けたパンの断面にそれを擦り付け、飲み下す。


(うん、うまい……)


 しかしこれが正しい「昔の恒矢の食べ方」かどうか、という点は結局分からなかった。

 昨日の量河のお茶の件といい、味の方向で記憶を取り戻すのはどうも向いていないのかもしれん。

 などと考えているうちに朝食を食べ終わった。


「ごちそうさまでした」


 沙那が洗い場で皿洗いを始めたので、こちらは食卓の上の食器を重ねて持っていく。

 そしてしぼった濡れふきんでテーブルを綺麗にした。


「……ふう。

 じゃ、行きましょうか? 兄さん」


「うん」


 沙那に問われて俺は、昨日のうちに用意しておいた鞄を手にとって立ち上がった。

 

 いよいよ『セーフティ』への初出勤、である。




***




 早朝六時、沙那と恒矢は家を出た。

 まだ空気に薄らと靄が掛かり、三月と言えども冷気が身体に染み入る時間だ。


「昨夜、よく眠れなかったみたいですね」


 歩きながら欠伸をする恒矢に、沙那が問う。


「いや、眠れなかったとか眠れたじゃなくて普通に時間が早いんだよ……なんでこんな早いの?」


 家を出たのは六時だが、朝食、着替えなどの準備を済ませる時間を考え、五時には起床していた。


「『セキュリティ』と『セーフティ』本部へのバスがまだ本数を増やせないんですよ。

 一時間に二本ペースです。

 だから、早く家を出る必要があったんですね」


 傍らを行く沙那の言葉に、恒矢は車道を見遣る。

 たしかに交通量は皆無というわけではないが、疎だ。そもそもが元々は閑静な住宅街であったことが予想される区画ということもあり、道自体が激しい往来など想定していないものに見えるし、時間帯のことも考えると、これが適正なものなのではないか? と思わないでもない。


「いーえ、戦争が起こる前はもう少し多かったはずですよ。

 たしかに住宅街とはいえ、少し歩けばすぐ大通りに出る場所ですし」


 沙那が恒矢の問いに答える。


「ふーん……。

 でも、それなら一時間に二本ペースってけっこう……いやかなり少ないんじゃないか?」


「それはですね……とと、恒兄さん、あんまり車道に寄ると危ないです」


 そう言って沙那は恒矢の腕を引いて、自らの身体の方に寄せる。

 初めはその意図が分からなかった恒矢だったが、足元からの振動と、底鳴りするような重低音を聴き、黙って車道に距離をとった。

 程なくして、大量の瓦礫を積載した重機が二人の横を通り抜けていく。


「バスの本数を増やせない理由は、ドライバーの不足などもありますが、一番はあれですね。

 今は公共交通機関より重機を通すことが優先されているんです」


 なるほど、と言いつつ恒矢は別のことを考えていた。

 今の重機が迫る音、沙那は自分よりも遥かに早く気付いていた。

 エーテル・アーツ『感知(アウェアネス)』の効果により運転手のエーテル反応を得たのだろうと推察できるが、それが重機かどうかは分からないはず。

 すると、周囲の事象に対して五感自体が鋭敏に反応するようになっている……とも考えられる。

 バス停に着いたので、待っている間に沙那に尋ねると、概ねその通りだと言う。


「『セカンド』は身体能力の面においても普通の人類を越えることが多い……というのが定説ですね」


「へえ……でも俺、そんなに自分が変わった感じがしないけど?」


「恒兄さんはそもそも、半年間寝たきりだったことをお忘れなく。

 今普通に歩けてることが、普通の人より遥かに早く回復してる証なんですよ」


「そんなもんかね」


 頷いた後、恒矢は沙那に顔を向ける。


「……そういえば、その普通の人っていうのも何か呼び方があったりする?

 俺らが『セカンド』なら、そっちは『ファースト』って呼んだり」


「……あんまり言わないほうがいいです、それ」


 沙那が唇の前に人差し指を立てる。


「え、なんで?」


「あんまりあからさまな呼称が広まると、人類分断の恐れがあるということで、二〇三一年の七月にMIFが禁止令を出してるんですよね。

 エーテル・アーツを得た人類のことは、初めは『ネクスト』『ネオ・ビーイング』『アナザー』など色々呼び方がありましたが、紆余曲折経て『セカンド』と呼ぶようになったんです。ただ、どんな呼び方であっても結局私たちも人類ですから、大きな括りとしての人類に対して『ファースト』や『オリジン』などの呼び方をすることは禁じられました」


「……なかなか面倒な事態があったみたいだな」


「語り尽くせないほどにありましたよ。

 ……というところで、バスが来ましたね」


 沙那が言ってからしばらくして、こちらに向かってくるバスが見えてきた。

 ぎゅっと制帽を深く被った沙那と一緒に乗り込む。

 車内はあまり人がいなかったので、恒矢と沙那は最後尾に乗り込んだ。

 

「大変だな」


 恒矢が言ったのは、沙那に対してだ。

 制帽を被り直したのは顔を見られないようにするためだろう。

 日常的な苦労を偲んで言うと、沙那がこそっと応答する。 


「……昨日も言いましたけど、量兄さんと私は顔と名前が知られてるんです」


 別に芸能人というわけでは無いからあからさまに声をかけられたりはしない。

 しかし、視線は常にどこかで感じており、それが気にならなくなる境地にまだ沙那は達していないのだと言う。


 バスはそのまま進んでいく。

 整備が行き届いていない凸凹した地面を走るので、少し走るたびにバスはガタガタと揺れた。

 かなり激しい揺れだ。

 振動の中で恒矢はふと、自分が車酔いをする性質だっただろうかということを思う。

 しかし、記憶には浮かばない。

 『セカンド』としての五感強化が平衡感覚にも及ぶのなら、少なくとも今は問題ないのだろうが……。

 隣の沙那を見るが、彼女も平然としている。

 その頭に載せられた制帽の、赤と黒の意匠を見て、恒矢は昨日の夢のことを思った。

 夢の少女が被っていたのも、これと同じ帽子だったはずだ。

 つまりあの少女が着ていたのは、今の沙那の格好と同じ……MIFの制服ということになる。

 恒矢が記憶の中で勝手に着せたのでもなければ、あの少女も所属はMIFと考えていいだろう。

 人間関係に関する記憶を全て失ってしまった恒矢にとって、自らの記憶の中からすくい上げたただ一人の人間だ。

 ぜひ訊いてみたいところだが、


(夢の中の人間の顔を人に説明するのって、難しいよなあ……)


 起床してすぐに筆をとり、頭の中の映像を紙に描きあらわさんと試みた。

 しかし、完成したのは奇怪な愚作。

 どうもこの身体には絵心が無いらしいと悟った恒矢だった。

 では言葉で説明してみたらどうかと思ったものの、今朝は初出勤でバタついて沙那に訊く時間もとれなかったのだ。


(帰ったら、時間とってもらうか)


 そう思って恒矢は横を向く。

 車窓が流れていく。

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