第12話「逃走と闘争 中」

 

 化け物は俺の行動に反応するように、獲物を嘲笑う顔を見せながら、異様に長い右手を器用に叩きつけて来る。


 空気を引き裂くように、風切り音を鳴らしながら蛇のように襲いかかる化け物の右腕。予想通りの動きをしてくれるおかげで、なんとか反応することができた。


 わざと最初に出口へと逃げるという動きをし、化け物の初手を自分の対応できる形で誘う、この企みが見事にハマった。


 ちゃんと見切れたのは化け物の右腕の初動のみ、だけどそれだけで軌道は読み取れた。

 奴は自分の左足を狙ってきている、獲物の足の一本を最初に壊し、絶望して泣き喚く姿を見たがっているだろう。


 そんな傲慢な奴の思考を笑い、より強く地面を踏み、減速せずに突っ走る。


 やって来る攻撃に反応して、方向転換や回避のために減速するのは愚かな選択肢、人の速さで回避できない攻撃に対してスピードを落とすのは死路でしかない。


 故に、さらに速度を高める。


 人間の出せる全速力で壁の方にぶつかろうとしているように走る俺を見て、視線に入っていない化け物の動きがほんの一瞬遅くなったことを感じ取ることができた。

 化け物が自分の行動に理解できずに戸惑って作ってくれた機会を逃さずに、さらに一歩床を強く蹴った。


 その左足の一歩で上へと飛び上がり、左足を狙った化け物の一撃を回避し、右足で壁を踏みつけて、さらに上へと飛んだ。


 流れがスローモーションのように感じ、集中状態が高まってることがわかる。


 そして、俺が避けた化け物の右腕の一撃はドアの近くの壁に刺さり、化け物の顔から気色の悪い笑いは消えて、残ったのが怒りの形相のみに見える。


 頭が天井にぶつかる勢いで壁を踏みつけて飛び上がった俺を見て、化け物は足が膨れ上がるほど力を入れて、怒りの顔を崩さずに卑猥な笑い顔を作った。


 異様に長く感じる滞空時間の中、その顔を見て、奴の次の行動を読み取った。

 足の膨張した筋肉と前傾姿勢、次の攻撃は当てられるという自信の笑い、それを見てわかりやすい奴という感想と共に、自分の次の回避行動を反射的に決めた。


 腰を捻り、体の全体を動かし、両足を天井に向ける。この一連の人間離れの動作を一瞬で完成させ、化け物の踏み出そうとする気配を読み取ったその時、今日イチの力で天井を踏み抜いた。


 その反動でドアに走った最初の位置よりも後方の位置に飛び、両手で衝撃を分散しながら、受け身を取った。


 それと同時に大きな衝撃音が背後から鳴った。


 体を少し振り返って、後ろの様子を確認する。そこにあったのは頭が天井に突き刺さってる化け物の姿だった。


 右手の攻撃を外して、両手を使わずに、空中の俺を狙って噛みつき攻撃をしようと突っ込んだ奴だが、見事に漫画でしか見ない状態になっている。


 自分の体はどうなのか確認すると、危機に対応して心拍数が上がっている。

 感覚が研ぎ澄まされている状態になってくれた身体に感謝を思いながら、次の行動に体を動かす。


 再び足を動かして、走り出した。


 ただ逃げても、日が沈む前に捕まって終わるだけだ、それはわかっている。今自分がするべきことは、今あるもので隙を作って、ここから逃げ出すこと。


 それが奴に勝利する方法。


 胸の中で燃える感情を勝つために燃やせ、判断を誤るな。


 自分のすべきことについて一瞬で脳内で再度振り返ったが、昂る体と魂に何か予感をしてしまう。


 極度の集中状態に入っていることには気付いている、スポーツのアスリートが言うゾーンに入っている感覚はある。

 捉える必要のある物事を繊細に捉えられている。時間の流れさえ少し緩慢に感じられる。


 それだけではない、さっきの攻撃に対してはわずかの一瞬異常に緩慢に時間の流れを感じ取って反応することができた。


 当てはまる現象は、そう、『タキサイキア現象』


 本来なら事故などで危機に直面した時に発生する現象を、俺の体は危機察知能力で危機を事前に察知することで発動させ、脳が危険に対して対応するために時間の感覚の精度を調整し、危機に反応できるようにスローモーションで物事を捉えられるようにした。


 これだけではないはず、まだある、もっと何かくる


 数歩踏み出している間に脳内で思考を巡らせ、色々考えることができた。だがその思考も危機察知の作動によって遮られた。


「クッ」


 危機察知に反射的に反応するように、すでに曲がり角まで来た自分は限界を超える速さを出すために、さらに足に力を負荷させた。


 痛みを感じるほどの筋肉の酷使で、曲がり角に飛び込むことが出来た。それと同時に体の左側から衝撃と爆音が伝わってきた。


 化け物のさらなる衝突攻撃


 それに危機察知が反応して、化け物の攻撃範囲から避けるように曲がり角の方に飛び込んで回避した。


 無理をさせた両足と受け身を取った背中から痛みが伝わってくる中、脳で現状を把握させた。

 現状の把握を1秒で済ませたと同時に、現状の危機を理解して、次の回避に体を動かした。


 埃と木屑で見えてない化け物に面して、地面に着いている両足と尻を動かすために両手に力を入れ、体を持ち上げるように跳ね上がり、再び鳴った衝撃音の中、バク転を決めるように全身を動かして着地して立ち上がった。


 着地して、さっき座っていた場所を確認すると、右手を床に突き刺す化け物の姿があった。ひとコンマ反応遅れたら、その手は自分の足を断っていただろう。


 化け物の危険さを再認識し、さらに気を引き締めた。

 魂の強い炎は今も燃えている、怒りの闘志も弱ることなく体に動力を与えてくれている。やるべきことは変わらない。


 次の攻撃も避けてやる


 そう思った瞬間、体が流れるように後ろに一歩下がった。それと同時に、目の前で化け物の左手が空気を切り裂くように通り過ぎ、壁を貫通して穴を開けた。


 顎を狙ったな


 化け物が狙った部位の答えを反射的に心の中で出し、終わってない危機感で次の攻撃が来ることを悟って、足の動きを止めずに、体を動かし続けた。


 体を左にある化け物の壁に突き刺さった左手に対応できるように向きを変え、直感に従って壁の方にジャンプをした。両足の下を化け物の左手が通り過ぎ、右側の壁にぶつかった。


 俺は向かう壁を左足で蹴り、スローモーションで見える、迫った化け物の右手の突き攻撃を躱わした。


 動けている


 驚きを意味する感想が出たが、感情は驚きではなく冷静な喜びだった。この冷静さがあるのは、こうなることを予想していたからだろう。


 行動の妨げになると懸念していた足と背中の痛みが消えている、原因はわかっている、自分の体に対する把握はちゃんとできている。脳が多数の脳内麻薬を出してくれていることはもう感じ取れている。


 エンドルフィンやドーパミン、その他のものも多く分泌しているだろう。


 脳内麻薬の分泌の現象自体には特別さがない、生きる人間ならどこかで体験することが多い。

 だが、今自分の体に起きている事象は違う、目の前にいる化け物に怒り、魂が、体が一致して動いている。


 自分の魂を観測できる自分だから気づいているのかもしれない。


 日常生活ではなかなか体験できないほどの集中状態も、スローモーションで見えている感覚も、最適解で分泌されている脳内物質も、この危機を乗り越えるに必要な最高の状態に辿り着くための手段で、道だ。


 あぁ、あの時の状態に近づいている。


 一年間瞑想など修練を重ね、未だに再現したことがない、あの身魂合一の状態。


 近づいてきている奇跡に心を躍らせ、俺は着地と同時に体を伏せて化け物の噛みつき攻撃を躱し、蹴りを顎の方に入れた。

 びくともしない化け物に意に介さず、奴の右足に渾身の拳を叩きつけて、回り込みながら化け物のさらなる連撃を避けた。


 思考を巡らせながら、相手の攻撃を躱して、反撃を行う。難行である並行処理だが、師匠との稽古や組み手で充分に鍛えて来た。


 フェイントの動作などを駆使した牽制、相手の動作を鈍らせるほどの殺気、体の内側まで浸透する打撃、床に穴を開ける突きの蹴り、自然に変化できる多種の武術と戦闘スタイル、高水準で武器を扱えられる技量


 師匠が持つこれらに対応する為に、体と思考の並行作業を必死に伸ばしてきた。

 必要になれば戦闘の最中で戦術や戦略を練り出さなければいけない武者にとっては、当たり前の能力だ。


 鍛えてきた能力を活かしながら、化け物の右手の叩きつけ攻撃を躱して、再び走り始める。


 体と魂の昂りの上昇が最高点に近づいていることに躍る心で、脳内で具体性がなかった計画にも詳細なイメージが湧いてきた。


 そのイメージの詳細を固め、走りの速さを落とさずにジャンプして、化け物の噛みつき攻撃を紙一重で躱した。

 空中に浮かぶ体のまま、化け物の頭を支えとして掴み、両足ですぐ近くの引き戸の襖を蹴破る。


 そのまま化け物の振り払う力を借りて、掘りごたつが設置されているリビングに飛び込んで、掘りごたつの上に着地して立った。


 着地の衝撃で埃が舞ったのと同時に、全身が求めた物がやってくることを確信した。


 最高点に到達する


 脳から分泌される脳内物質、全てを見逃さない集中状態、危機察知を引き金で発動するタキサイキア現象、身魂合一の状態なら簡単にこなせるこれらの現象を、今の自分は既に達成している。

 ならば、身魂合一に到達するまで一歩のみのはず。


 この予想を、高ぶる魂と体が確信へと変えた。


 脳内麻薬によって起こる高揚感よりも深い魂の興奮、思考を冷静に処理できる揺るがない落ち着き、これらが合わさって、肉体で生きる人間では到達できない地に立った達成感を原料に、全能感と化す。


 自分の状態の変化を感じている最中、化け物は狭い入り口から、肉屑と引き延ばされた血の糸で嫌悪感を誘う大きな口を開けて、噛みつこうとこっちに飛び込んで来た。


 それが奴にとって、狭い入り口で繰り出せる最も早い攻撃だったのだろう。


 体と魂の変化を最小から全体像まで見逃さずに感じながら、脳で化け物の攻撃を分析した。それと同時に、右手で首にある水鬼の爪を掴み、攻撃を避けるために体を右側へと動かした。


 怒りを煮詰めた感情で水鬼の爪の力を引き出し、向かってくる敵に反応するお守りから、相手を屠るための魔性の刃へと変える。


 スローモーションで見える世界の中、水鬼の爪を中指と薬指の間に挟んでいる右手の拳を化け物の顔面に叩きつけた。


 目を捉えた拳は水鬼の爪でその眼球を抉りながら、振り切った。


 人体をゼリーのように握り潰せる格上の存在を傷付けた拳の衝撃を感じた瞬間に、身と魂が最高到達点に至ったことを観測した。


 あぁ、今度は見逃さなかったぞ


 身も魂も、自分の全てを把握することが出来る身魂一致の状態、1度目は前世の記憶の覚醒に連なるように発生したせいで、変化の過程を全部知ることはできなかった。


 だが、今回は違う。


 来ると身構え、準備した自分は全てを感じた。


 殴打で直線に進んでいた化け物の軌道がズレ、壁の方に衝突した。自分も拳から伝わって来た力に対応するために、空中で力を逃しながら床に着地した。


 完璧な着地と力の逃し方に、自分の全てを把握できていることをより実感する。


 できなかったことを全て出来ることの喜びと興奮、自分の持つ全てを掌握できる感動、研ぎ澄まされた肉眼と霊的感覚で全てを捉えられる俯瞰、高ぶる感情と魂を御せる冷静。


 起き上がる化け物の顔と近くに落ちある眼球だったものを見て、今の自分に起こったものを分析しながら、全能感を噛み締めた。


 化け物の左眼を奪った。

 あの1秒にも満たない時間の中で、避ける、武器を取る、力を引き出す、狙いを定める、叩きつけて振り切る、全ての操作をこなせた。予想以上の動きができた。


「前回よりも精度が上がっているのか、それもあるが、これは意識の違いだな。全てができるとしても、しようとしなければ結果は出ない」


 左手を開けて、力強く握り、冷静沈着な声で言い放った。前回は構えを取っただけで終わったこの状態の力の一端を知ることができた。


 言い切った後、何か面白いことを思いついたような笑顔を浮かべて、左手で喉を触り、口を開けた。


「あっ、あ、うん、こんなこともできるんだな、なるほど、理論上可能なことなら全て出来る。肉体も魂も、全てを掌握すれば、人間という生き物はここまで化けるもんなんだ」


 69文字の言葉を、女声や老いた声で変化しながら声に出した。


 幼童から可愛らしい女の声、成人男性の成熟した声から老人の萎れた声、数種の質の声が連なってできた一連の言葉を口から出す。声帯などを完璧に操作できる今ならできる技だ。


 怒りの形相を浮かべた化け物はそんな変化する声に反応して戸惑った顔を一瞬浮かべたが、奪われた左眼のことを思い出したのか、醜い叫びを上げながら右手を振りかざして来た。


 そんな様子に驚きも感じずに、自分は動作の初動で来る攻撃の軌道を読み取って、一歩後ろに下がって鞭のような一撃を避けた。


 まだ空中に舞っている埃などを二つに断つように迫ってきた攻撃を、遅緩した世界の中で見つめながら口を動かす。


「なるほど、血流の操作も、脳内物質の分泌も、今なら自分で精密に行えるのか。さっきは肉体が判断して行っていたけど、この状態になると雑に見えるな。心拍数を上げすぎていたし、脳内麻薬も過剰に出し過ぎている」


 さらに続く化け物の連撃を最小限の動作で躱し、相手の隙が出るまで自分の独り言を続けた。


 目に映るのは人外の怪物のみ。


「この世界の化け物について考えてたけど、こうして実物を観察してもわからんな。ただ魂が存在するが故に、幽霊とか殭屍が自然に発生するホラー的な世界と思ってたけど、本質的に違うなこれ。普通の世界に無理やりねじ込まれたような異質さがある」


 今の状態で見える世界と、普段のを遥かに凌駕している感覚で感じ取った化け物について分析を行い、出た答えを口にした。


「地球上の化け物と思ったら、異次元から来た怪物とか、人類を滅亡するために作られた兵器とか、そういう世界観の作品もあるし。うん、考察が捗るね」


 化け物が投げつけて来た埃まみれの靴を頭を傾けることで躱して、独り言を途切らせずに口を開いた。


「まぁ、今のこの状態はあくまで自分の全てを掌握できているだけだから、未知の化け物についての分析は知識が無ければ限界があるな。素直に優先順位の高いことからやるとするか。この戦いの勝利と、この状態を完璧に使いこなせるようにすること」


 そう言いながら、化け物の右手の突き攻撃を躱して、水鬼の爪を持った右手を化け物の右目を狙うように動かした。


 化け物は残り一つの目が狙われることを予想したように、迫って来た俺の右手に噛みつこうと反撃を行った。


 化け物なりの知恵だろう、弱点を攻めてくる相手に対して罠を仕掛ける、稚拙だが、戦いの中では役に立つ。

 そしてそれは見事に右手が通るはずの場所を噛んでいた。

 当てようと構えた攻撃だ、当然精度は高い。


「予想通り、獲物を狩るためにちょっと知恵は働くが、動きが単純で読みやすい上に攻撃に変化がない、化け物スペックを全然活かしていないな」


 自分は右手が無事なことを確認し、一歩後ろに飛んだ。リュックのものを取り出しながら、言葉で化け物の動きを評価した。


 その化け物はというと、口の中に入れたものに苦しめられて、苦痛の顔を浮かべている。

 さっきの行動はわざと右目を狙うように動き、わかりやすい反撃で噛みついてきた奴の口内にお守り二つをプレゼントした。予想以上にうまく行ったことに、化け物の戦闘知能と技の低さを感じる。


「でも、赤と白のお守り二つを消費してこの成果か、体の中を狙わなければ、かすり傷にしかならないな。結局、守り用のお守りを攻撃に使うならこれが最適だ」


 今身魂合一の状態になっている自分の目なら、化け物の負傷の程度がわかる。体内に入れたお守りがどれくらい効果を発揮しているか感じ取れる。


 貴重なお守り二つを相手の体内に入れることで最適な方法で消費することができた。自分の判断が間違いでは無いことに達成感を感じるが、化け物の強さも余計際立つ。


 実際、奴は自信の噛みつき攻撃が外れたことと体内から襲いくるお守りの力に取り乱れているけど、数秒もしないうちに体内の力を抑えこみ始めた。


「強いな」


 神社の神職の人が作った赤のお守りも、僧侶が作った白のお守りも、込められた力は本物。今の状態に入った自分は込められた力の本質を感じ取ることができた。


 信仰に身を捧げた者が渾身の力で作ったお守りには、人の恐怖に打ち勝つ信念と心の結晶が詰まっている。それは邪を祓い、魔を退く。


 邪悪の化け物の体内の中に神聖な物を入れることで、常に効果を発揮できるようにした。これで化け物は神聖なデバフを抱えたまま狩に臨まないといけなくなった。

 圧倒的な力を持つ敵には正面から打ち勝つことはできない、だから序盤にその足元を乱すように策を打った。


 回復し始めた化け物を見つめ、次の行動に移そうと体を動かす。


「次はその右目を貰う、覚悟しろ」


 強気な挑発発言を言い放ち、俺が取った行動は逃走だった。理想な動きを行える体で扉を蹴り破って、廊下を走った。


 挑発の言葉を理解したように、逃走をした獲物に怒りながら叫び、長い両手と筋肉質な両足を使って化け物は追いかけてきた。壁や扉にぶつかるも、気にせずにただ体を動かした。


 並の家よりも大きいこの建物も、化け物にとっては窮屈そうな場所だった。それが自分にとっての地の利となってくれた。


 化け物との距離が縮まないように全力で足を動かし、廊下、曲がり角、部屋、化け物の視界から離れるように家の構造を使う。

 化け物にとっては簡単に壊せる障害物のはずだが、化け物も隠れる住処を壊して獲物を逃すほどの馬鹿ではなかった。


 それが自分にとっての地の利であり、障害でもあった。


 化け物の視界から逃れた4度目、急停止をしながら片肩に掛けていたリュックを外した。中身を出したリュックはただの物を収納する道具となった。

 最初は化け物に投げつける投擲物として使用しようとしたが、身魂合一になった時、一番の活用方法を見出すことができた。


 少し開いたリュックを手に持ち、耳で化け物との距離、化け物の体勢を聞き、脳内でその様子を浮かべた。


 今だ。


 3秒も過ぎてないその時、化け物にとっての曲がり角から俺はリュックを手で突き出した。その高さは丁度化け物の頭の位置だった。速さを緩まない化け物の勢いのおかげでリュックは見事に袋となって頭部に被った。


 突然の変化に化け物は下手な急停止をし、真っ黒になった世界に戸惑い怒り、両手を地面に叩きつけてから、頭部の方に動かした。

 それを見た自分は狡猾な笑顔を浮かべ、音を立てない歩法を使って化け物の前に詰めた。


 化け物は両手で頭に被ったリュックを掴み、叫びながら引きちぎろうと筋肉を膨らませながら手を動かした。その初動を見逃さなかった俺は再び水鬼の爪の力を怒りの感情で引き出し、構えて手を振った。


 そして、奴の視界を遮っていたリュックは引き千切られた。


 常人では頑張ったところで素手で引き裂けない丈夫な物だが、化け物の蛮力の前では薄紙同然だった。化け物にとっては再びの目に映る世界だったが、その目に映ったのは一度左眼を奪った忌々しい鋭い刃だった。


 自分の手の中にある刃と化した水鬼の爪から伝わってくる感触、目に映る化け物の顔面で達成感を感じた。


「奪った」


 返り血の付いた顔に獰笑を浮かべて、すぐさまに両足で地面を蹴り、後ろに飛んだ。目に映るのは叫びをあげる怪物だった。


 左目を失って数分も経たずに右目も失い、視界が消えた代わりに虚無な世界を手に入れた化け物は怒り狂っていた。足で床を踏みつけ、長い両腕を振り回しては叩きつけ、守るべき棲家を傷つけていた。


 しかし、その物に当たるための暴力もあまり成果を出さなかった。


 猛獣をねじ伏せられる怪力も、せいぜい壁に小さな穴を開けることしかできず、壁に突き刺さった腕を引き抜くのにも力を入れるその様子は、怒りを発散できずにさらに苛立ちを増す頑童そのものだった。


 本来棲家を守るために壁などを強固にしていた力が、今は化け物の怒りの発散の破壊活動を妨害している。自分の邪魔をしているのは自分の力だと気付いたのか、両手の指を口に入れて噛み、怒りを自傷の痛みで誤魔化そうという愚行に走った。


 口から溢れる血と共に、空洞となった両目からは血が涙のように流れていた。


 そこに悲しみの感情があるかを考察しようとする自分の心を抑え、自分の行うべきことについて考える。


 目の前にあるのは常人なら逃げ出したくなる光景だ。

 不満をぶちまけるために物に当たる子供はまだ笑ってみていられるが、人を片手でひき肉にできる怪物が両手でストレス発散していたらただの恐怖映像だ。


 まぁ、その原因を作ったのは自分だけど。


 俺は体の調子をもう一度確かめ、もう一度やるべきことを考える。


 力も速さも防御も自分を凌駕している格上と戦うに必要なことは大体決まっている。

 自分に有利な環境を作る、自分の力を完璧に使いこなす、戦いの中での成長、相手の弱体化で同じ土俵に引き摺り下ろす、そして救援を求める。


 一つ目は相手の無駄にでかい体格のおかげでなんとか成り立っている、二つ目と三つ目は着火した怒りで成った身魂合一で達成した、四つ目の戦いを成立させるために相手を削るのは、化け物の体内で暴れてくれているお守りと奪った両目でなんとかなった.


 しかし、これでもまだ足りない。化け物の怒りにもうひと押しが必要だ。


 だから、気持ちのこもった嘲笑を顔に浮かべて、拾った木材を化け物の顔面に投げつけた。化け物の顔がこっちに向いたことを確認し、脳内で浮かんだ最適な挑発を声に出した。


「低脳の乞食老害さん、いい年して子供みたいに暴れないの、このままじゃあ老人ホームに入れられちゃうよ。まぁ、シワシワのゴリラお爺さんは保護施設に入れられるか、そのまま射殺されそうだけど」


 思いつく最悪の言葉を挑発に使った。相手が憎い人外の化け物だからか、ピー音が入るほどの罵倒に躊躇いが一切なかった。


 化け物が言葉の意味を理解してくれたことが、青筋が立った鬼の形相でわかる。挑発の効果を確認して、戦いを続けるために、俺は両手を叩いて後ろ歩きを始めた。


「おじいちゃん、こっちですよー。僕のような中学生も捕まえられない化け物失格のあなたでも、歩くことくらいできるでしょう。はい、イッチニー、イッチニー。お、お怒りのようね、血が頭に昇るのは脳梗塞に気をつけてないといけませんよー」


 続く挑発の言葉に化け物はさらに血管と筋肉を浮ばせながら、雑な叩きつけ攻撃をしてきた。距離を取っていたおかげで自分は難なく避けることができ、近寄ってくる化け物に煽り続けた。


「ゴリラみたいな短足の足でよく歩けましたねー、ほら、足元に気をつけないと転んじゃうよ。そうか、おじいちゃんもう両目が見えないか。まぁ、その両目を奪ったのは俺だけど。」


 予想通りに速さと力の増した化け物の追撃をなんとかギリギリで躱し、最後の一押しをするために距離を取りながら言葉を続けた。


「お、キレてる。そんなに悔しいのにまだ全力出してないのー?まっさかぁ、本気を出さずに負けた後に、全力出してなかったからとか言い訳するんじゃないでしょうねー。人間なんか食わないで、主食を腐ったバナナにした方がお似合いなんじゃない?」


 挑発の言葉を言い終えた瞬間、化け物は今日一番の咆哮を見せた。大きく開いた口からは騒音と共に異臭が飛んでくる。

 俺は鼓膜が破れないようにと自分の耳を塞ぎ、目の前の化け物の次の行動を待った。


 化け物は叫びながら右腕で壁をぶち破った。霊感で感じ取った力の流れと、壊された壁が自分の目的の達成を報じてくれた。


 両目を奪われ、獲物の挑発に怒り狂った怪物は全力を出すために、住処を守るために使っていた力の全てを自分の体に戻した。


 俺の逃走を邪魔する力がなくなった代わりに、本物の化け物ができた。


 この家のあらゆる場所から流れてくる力と、目の前の化け物の膨れ上がる肉体の存在感が自分に危険を知らせてくれる。

 危険察知能力の疼きで、化け物が家に掛けていた防壁の力の総量を思い知る。


「獲物を逃さないためだけにこんなにも力を使っていたのか。いや、頭悪い自分の怪力で家を壊さないためにもそれなりの力を割り振ったのか。

 それだけではないな、物音が外に響かないようにするためにも力を使ったな。ちっ、どんだけ慎重派なんだよ、戦い方は乱雑なのに、狩の準備だけは一人前」


 化け物の体に流れ込む力の分析を行いながら、化け物の増した力を感覚で測ってみた。ピンピンに働く危機察知の強さで、化け物が倍近く強くなったことがわかる。


 準備を終えたのか、さっきまでの様子とは違った化け物が目の前に卑屈そうに立っていた。膨れ上がった筋肉と血管、歯は人間のものから獣の鋭いものへと変化し、爪の鋭さもさらに増している。


 見た時に教科書に載っていた餓鬼の絵を思い出す元の様子とは、雰囲気が大きく異なっている。老人のようであるのは変わっていないが、人間の血肉を貪る狡猾な悪鬼から全てを破壊する獣に変化していた。


 膨れ上がった大きな体を見て、さっきの姿はこの家での活動を行うために小さくなったものとわかる。


 デカくなった図体のせいで元より狭かったこの家がさらに邪魔になっている。だが、化け物はそんなことを気に留めず、体を壁にぶつけて跡を残しながら少しずつ歩み寄ってくる。


 目の前の脅威を見て、自分の持つ危機察知から五感や霊感、あらゆる感覚を総動員して化け物の攻撃を警戒しながら、足を動かす。

 最初の攻撃を避けられる安全距離を保つように後ろに下がる。


「本当に化け物だな。相手の隠していた力を見誤るとは、身魂合一も万能ではないな。完美に自分の全てを使いこなせても、基礎が低くては、チッ」


 頭部を狙った化け物の最初の一撃に、体が本能的に動いてくれた。


 怠っていない警戒のおかげで、さっきの倍の速さはある化け物の右腕の薙ぎ払い攻撃をなんとか避けることができた。


 両目を失った化け物が的確に自分の頭部を狙ってきたことに、予想通りという感想を抱く。

 暗闇に生きる化け物が両目以外に、聴覚などの優れた感覚を持っていてもおかしくはない。攻撃の強さも予測した範囲内。


 これほどの相手を前にしては、俺も話す余裕はない。


「コ…ロス」


 殺意のこもった言葉と共に化け物の次の攻撃が飛んでくる。


 腹を狙った一撃に対応するために全身の筋肉を総動員し、どうにか避けたが、生き物の範囲を超えた速さの攻撃の風に肌が痛みを感じる。


 速い、そして力強い。

 この攻撃が連続で来たら、三発目で擦り、四発目で当たり、五発目で止めを刺される。


 化け物の攻撃の質はさっきのものとは異なっていた。

 先程の攻撃は、怒りで速くなることもあった、だが、それはただ獲物を弄びながら捕食したいという戦いから程遠い油断から、怒りを解消するための発散に変わっただけだ。


 技術もない、変化もない、本気で仕留める気もない奴の攻撃は躱せた。きっと今まで適当に攻撃しても獲物には当たっていたから、雑な攻撃方法を放置してきたのだろう。

 さっきの化け物の速さの雑な攻撃なら対応の範囲内だった。


 今の攻撃は違う。

 技術はない、だが殺意はこもってある。変に手足を狙う遊びの攻撃から、当てやすい部位や急所を狙う確実な攻撃に変わっている。


 そんな危険な攻撃の二撃目を躱すと同時に、階段の方へと走った。


 攻撃を避けるために無理をさせた足の調子の確認を数歩の間に済ませ、距離を詰めながら右手で突き刺してきた化け物の攻撃を躱す動作で、階段に駆け上がった。


 大きな化け物にとって、階段の通り道が狭かったおかげで、時間を稼ぐことができた。

 化け物はその狭さを気にすることなく、四肢を使って上ってくる。その怪力を抑えることなく、壁にひびや凹みを作りながら体を進ませる。


 化け物が上がってくるまでの時間を心の中で数えながら周りを見渡す。初めて見る2階の構造を脳内で予測補完して、これからの動きを計画する。


 その詳細を決め、化け物が2階に踏み入れる約2秒前で足を動かした。


 扉を開けて、閉めながら部屋に入る。視覚を失った化け物が何を使って自分を捉えているのかを見極めるためにも、物音を立たないように部屋の奥に静かに立った。


 扉を紙のように破りなが入ってくる化け物を見つめながら、息を止めて、回避の構えのまま立つ。

 苛立った様子で首を動かし、咆哮を上げて獲物を探す化け物を見て、直接捉えている訳ではないことを知った。


 先程建物に力が掛かった状態なら違っていたのだろう。

 だが、今の化け物は全ての力を肉体に注ぎ、殺すためだけに動いている。改めて結界のようなものを張らない以上、肉体を使って獲物を探さないといけないはずだ。


 数秒間化け物を見つめ、獲物を見失ったことにさらに怒りを増し、右手を鞭のように振って壁に穴を開けた後、拳で床に穴を開ける化け物を見て、悪い予感が自分の体に走る。


 これ以上はダメだ。


 獲物が見つからない以上、怒り狂った化け物は別の手段に出る。結界を張り直すのも、冷静に戻るのも選択だ。

 あるいは、ここから飛び出し、怒りに身を任せて殺戮を繰り返すのも。


 最悪を回避し、最善を手に取るために選択肢を選ばないといけないことを理解している自分は、動くことにした。


 一応この事態も予想し、取るべき行動も考えといて良かった。


 事態が予想の範囲外になっていないことに心が少しホッとするも、神経をすぐに研ぎ澄まして、足に力を動かす。


 運動するための呼吸音と床を踏み出す音を同時に鳴らしながら、鋼鉄の大鞭のような化け物の攻撃を躱した。

 さらに建物を痛めつけた攻撃を気にせず、床を蹴って、壁に飛び、そのまま壁を蹴って上に上がった。


 その音に反応した化け物の追撃は的確に俺が踏んだ場所を捉えた。手加減のないその一撃は壁に大きな穴を開け、隣の部屋に繋がる通路を作ってくれた。

 だが、俺の飛んだ高さを捉えられなかった攻撃は当然当たらなかった。


 そのまま、畳み掛けるように天井を蹴り、加速して下にいる化け物に向かった。


 化け物はその音を見逃すことなく、一度は見たことのある動作を予感したように、天井に向かってそのまま鞭のように右腕を動かした。


 速いっ


 だけど、その攻撃も当たらない。

 技術がない、弱者を痛めつける経験しかない化け物が、上からくるものに対して行うであろう攻撃なんて予測できる。上からくる攻撃に無防備なのは、化け物も同じだった。


 上から一直線に着地し、一歩踏み出して化け物の間合いに詰めた。間合いに詰められた化け物の怒り顔にも焦りが浮かんだが、俺はそれを気にせずに水鬼の爪を振るった。

 その一線は化け物の顔面を通り、鼻を抉った。


 空中に舞う抉られた鼻、また一つのパーツを失った化け物の顔面、抉られた肉は生きる者のではなく、死肉そのものだった。


 念のための化け物の嗅覚を潰そうとした攻撃が成功したことを確認し、俺は流れるように体を動かし、化け物の両足間を通って、悲痛と怒りの混ざった叫びを上げた化け物の乱暴な攻撃を避けた。


 姿勢を低いままに化け物が開けた壁の穴から隣の部屋へと走る。

 化け物の振り返りながら放った一撃が背中に擦り、衣服だけに傷が残ったことに生命の危険を感じるも、身魂合一は揺るぐことがなかった。


 さらに怒り、激昂した化け物を見て、計画通りという安心を感じた。


 この状況に持って来る為に理性を失うほど怒らせたんだ、ここで冷静さを取り戻されるのも、怒りの矛先が他に向くのも、失敗に繋がる。


 人の命を弄ぶ恐怖に怒って、身魂合一になった俺が激昂させた化け物と始めた戦いだ。


 締め方は俺が決める。

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