第11話「逃走と闘争 上」

 一番危険な場所を聞かれたら、何を答えるだろう。大体の人は大自然での危険を挙げ、もう一方は人為による危険を挙げるだろう。


 今の自分が答えるなら、間違いなくこの屋敷の中だ。落雷や猛獣など自然界の危険でも、放射線や武器による脅威でもない、霊的な、超常的な恐怖の危険だ。


 1年前の帰宅中でも、超常的存在に遭遇した。人外の容姿と怪力による恐怖は猛獣よりも恐ろしかった。警察などの公的機関の安心感も頼りにならない、非日常の恐怖は人間の天敵と言っても過言ではない。


 あの時の恐怖を上回るのが今のものだ。

 逃げる道が存在する開放な住宅地とは違い、壁によって遮られた閉塞の空間の屋敷。扉や窓からわずかに漏れる光以外は暗闇に隠されている。


 そして、霊感で感じ取れる何かが2階から嫌な気配を放っている。


 今の自分はまさに籠中の獲物の気分だ。外から届く光も、出口を探す自分も、2階にいる奴も、状況的にこの表現がピッタリだろう。


 決心して段差から上がり、家の中に踏み入ってまだ2分も経っていない。


 玄関から見える階段の前まで進み、上の奴の存在を感じ取った自分は、2階に上がる選択を避けて1階の探索を選んだ。そこから左の方の廊下を進み、襖や障子を開けて道を確保しながら、探索を行っている。


「窓は全部開かない、入ってくる日光は不自然に弱い、裏口も同じく不思議な力で閉ざされている。ホラー映画によくある出られない家だな」


 小さな声でこの時間内速足で調べてわかったことを呟く。


 他にわかったことは、しばらくの間、誰もこの家に立ち入ったことがないことと、上にいる存在がまだ動かないこと。


 元々廃屋にある物品以外に、飲み物の缶や瓶、靴やタバコの吸い殻などが落ちているのが見えたが、肝試しに来た者が残したものだろう。

 だが、それらのものは埃被って、蜘蛛の巣が覆い被さっている。新しいものが無い様子から、しばらく誰もこの家に入ったことがないことがわかる。


 その原因が何かと問われれば、上にいる何かと答えるしかない。

 興味を持って肝試しにくるものがいなくなっただけの可能性もあるが、目を凝らして見える壁の血の跡が甘い考えを否定してくる。


 少し震える両手を握りしめ、俺は立ち止まった足を再び動かす。


 廊下を歩き、襖を開け、部屋に立ち入り、気になるものを拾い上げて観察する。

 舞ってしまう埃を吸わないように手で鼻を塞いで、窓から僅かに漏れる光を頼りに、調べ続けた。


「ゲームと違って、凄い恐怖だ」


 床のきしむ音、ビンが転がる音、些細な動きで舞ってしまうホコリ、明りがない閉鎖的な空間、それは画面越しではない、実際自分の体で体験している。


 前世は肝試しに行ったことがあるが、怪奇現象を体験した今と比べたら、まったく怖くない。


「二階にいつ動き出すかわからない何かがいるし、本当、急がないと」


 まだ恐怖を感じている体に力を入れ、俺はまた黙々と探索の作業を始めた。


 暗闇で見えないものはスマホの明かりで照らす。出口を探しながら、この屋敷に関する情報をかき集めようとしたが、数分が経っても大きな収穫はなかった。


 なんとなくわかったのは、上にいる存在はしばらく前にこの家に住み着いたものだということ。わかったというよりただの推測でしかないが、自分の直感がそれを確信へと変えている。


 この屋敷に残っているものや書類から、この屋敷にいた人の情報が断片的にわかった。日記があればもっと色々と知ることが出来たが、そんな物語に都合よく出てくるストーリーを理解できる便利なアイテムはなかった。


「日記書いている人って、どれくらいいるんだろう」


 口に出た疑問を無視し、俺は分析を続けた。


 断片的にわかったことも十分にある。この屋敷に住んでいたのはある夫婦だったこと、約12年前に妻の方が先に亡くなり、男はその数年後に病死した。そこそこ金を持っていたことも、男は有名な作家であったこともわかった。


 だが、彼らが超常的存在になる要素が見当たらなかった。


 ホラー作品でも、怪談や古文書などの物語でも、怨霊や化け物に成り果てるのは、強い恨みや執念を持って亡くなったものか、風水や縁起が非常に悪い場所で亡くなったもの。

 第三者の干渉が無ければ、普通はただ一人の人間として亡くなるだけだ。


 まったく知識がないけど、多分、そのはず。


 今ある情報では、この家に住んでいた二人はどちらにも当てはまらない。両者とも強い執念か何か持ってなくなったとは思えないし、この場所も、前回通りすがった時はこんな禍々しい場所ではなかった。


 この家がこのように変わったには何か原因があるに違いない。


 そう考えれば自然と一つの答えが出る。


「一年くらい前、俺がこの場所を通った時よりも後、何ヶ月前か、何週間前かわからないが、何かがこの屋敷に住み着いたと考えるのが自然だな」


 この推測に納得したのか、この推測を元に、さらに思考を進めた。


「肝試しする人も、この場所に入る人も減ったのは、上の奴が入ってくる邪魔者を排除するようになったからか。それなのに俺を狙ったのか、俺が運悪いだけか。いや、これは必然か」


 背中を壁に預けて、腕を組みながら思考を続けた。


 よく考えれば、自分がなぜ狙われたかについてちゃんと考えていなかった。

 上の奴が対象選ばずに通りすがる人全員襲って屋敷に攫ったら、大事件になって、大きな騒ぎを起こしただろう。だが、そうはなっていない。ここ辺りで失踪事件が頻発している情報なんて耳に入ったことはない。


 それなら奴は対象を選んで襲っているとしか考えられない。無差別に人を襲う理性のない化け物ではなく、慎重に自分の存在がバレないように行動できる、狡猾な存在であるのがわかる。あの罠を仕掛けられる程度の知性を保有しているのも明白だ。


 あの壁の血の跡は過去襲われた者の残したものだろう、肝試しでここに入った命知らずの者か、自分と同じく道を通って誘惑に負けて罠にかかった者か、どんな人かはわからない。


 だが、人を選んで襲っている奴が、ここに自分を攫ったことには原因があると考えるのが普通だ。


「あるとすれば、霊感とかある人間を選んで食べているとか、そんなところだろう。無差別に人を襲えないなら、効率的に少数で自分を満たすようにすれば良い。

 まぁ、必ず食にするわけではないか、あの時の化け物女は俺の魂に目をつけて食べようとしたけど、こいつは自分の好みで人を殺したいだけかもしれない」


 まだ2階にいる姿の分からない何かが、自分を狙った原因について考えたが、今一番重要なことを思い出す。


「狙われた原因わかったとこで、意味ないな。お金目当てなら現金差し出せるけど、さっきの血の跡見ればそんな甘い考えなんて出てこない。今はここから抜け出す方法を考えないといけないけど、難しい」


 1階を調べ始めてから数分は経過している。上にいる存在の詳細な情報は全く掴めていない、外に逃げるための開けられる窓も扉もなかった、ただ、現状の危うさと自分の無力さを感じるだけだ。


 不安を押し殺すように、目線を念珠に向ける。


 少し落ち着きを与えてくれた以外、まだ大きな効果を見せていないお守りは、今の自分の唯一の武器である。まだはっきりと意識して使用していないが


「やっぱ打開策に繋がるのはこのお守りたちか。これで扉を閉ざしている力を打ち消せないか試すのが一番だろう。迂闊にやったら奴がそのまま降りてきて襲ってくる可能性が高いから、後回しにしたけど。ここからどうするか」


 意識してお守りを使わずに、自分の力だけで窓や扉を開けることしか試さなかったから、どれくらいの効果があるか分からないが、勝てるかわからない化け物に立ち向かうより、逃走に力を使った方がいいと考えるのが常人の思考だろう。


「だけど悪手な気がするなぁ。逃走する獲物と狩人に思えるが、実際は城砦を攻める側と守る側なんだよな、これ」


 上下左右、前方後方に逃げられるわけではない。攻められる場所は限られている、日が沈むまでの時間も少しずつ減っている。ただ、扉一つぶち破ればいい状況に見えるが、実際は上にいる奴の力が掛かっている防壁を破らなければいけないようなもの。


 扉を破ろうとすれば奴が全力で止めにくるだろう、ただ逃げるだけの単純作業にはならないのが目に見えてしまう。


「それでもやるしかないか、奴がいる2階に直接踏み込んで対決するよりマシだろうしな」


 そう言い、姿勢を正して、破るべき扉について考え始める。


 本当は掃き出し窓を選びたいが、残念なことにシャッターで遮られている。小さな窓は普通に考えて選択肢外、残るのは正面玄関の引き戸と裏口の扉。


「正面玄関は階段から近いから、ないな。蹴破るのもちょっと難しそうだし、裏口の扉の方がいいな」


 選択肢を排除法で減らし、出る場所を決め、足を動かした。背中に付いた汚れを叩き、暗い廊下を進む。


 十数メートル程度の距離を普通の速さで進んでいるが、体感時間では無駄に長く感じてしまう。


 ただの歩行でこうも緊張している自分に少し驚きを感じたが、一つのミスが命取りになり得るこの状況で、体があらゆる事態に対応できるように、できるだけスローで物事を捉えられるようになってもおかしくはないと自分を納得させた。


 長く感じた時間も終わりを迎えた。足は選んだ裏口の出口の前にすでに着いている。目の前にあるのは木製の片開きのタイプのドア。


「裏口か、いや、家にあるのは勝手口と呼ぶんだったか。台所に設置されてないけど、勝手口と呼んでも問題ないだろう」


 そう言いながら、左手で埃まみれのドアのぶを握って、右手で扉を押した。びくともしない扉に、再び化け物が掛けた力の強さを思い知る。

 だが、こんな壁をもぶち壊して家に帰らないといけない。家にはまだ家族が待っているから。


「身につけてるお守りを使ってこれを破いて、全速力で逃げる。それに気づいた奴が階段から降りて襲いかかってくる、ここに来る前に抜け出さないとゲームオーバー。うん、不安しかないな」


 自分のやるべきことを口にして確認する。不安要素しかないが、やらない選択肢はない。淀んだ空気を我慢して深呼吸をし、覚悟を決める。


 決心が定まった、居るべき場所に立っている、時間の浪費なんてできないとわかっている。最後に考えるべきことに思考を向ける。身につけているお守りの一つ一つを見つめ、扉の力を破るのに使うものをどれにするかについて考え始める。


 屋敷に入ってから色々触っているが、お守りはまだ何も反応していない。勝手に反応されても確かに困ってしまう、ならば、自分で使うしかない。


 水鬼のペンダントは最初に選択から外す。持ち主に危害を及ぼすものに力を発揮する怨念の詰まったお守りだが、扉に掛かっている力には反応していない。

 オートで対象を選んで働くように機能するお守りだから、今この扉に使うためには、自分の力でこのペンダントを引き出すしかない。しかし、人外の怨念の扱い方など、生者の自分が何も知識と訓練なしにできるとは期待できない。


 次に扱い方が分からないのが、右手首につけているこの念珠である。


 紫檀のカリンでできたこの念珠、霊的感覚が優れている自分には、これに宿る高僧の残した力が感じ取れる。長い年月が経ち、すでに残り火のように弱まっているが、それでもこれほど深く高明な力は他に見たことがない。高僧の境界と修為の高さが身に感じる。


 だが、この力を使って扉を破れるかと聞かれたら、俺は曖昧な否定の返答をする。強く念じて扉に押し付ければ出来る気もするが、その使い方は雑すぎると直感が言っている。

 仏法を精通していない自分がではうまく力が引き出せないだろう。今の状況で貴重なアイテムを浪費できるわけがない。もっと適切な選択があるはずだ。


 残されている4つの選択肢について分析を始める。


 仏像のお守りは念珠と比べてまだ扱えそうなだが、この扉を破るのに力が足りるか少し怪しいと感じる。赤のお守りと白のお守りは力が同程度に感じるが、どちらも扉を破るには向いてないと思う。


 持ち主を守る前提で作られたお守りだ、余程の使い手じゃ無ければ、その力は持ち主が自分で引き出して扉を壊すのには適していないのも道理だ。


「やはりお札とかになるか。貼って使えるように出来ているし、力をどうやって引き出すか変に悩んでミスする心配もない」


 そう言い、一番扱い易いのはお札の呪符と判断した。


 他のお守りを使うのも不可能ではないだろう。一般人からしたら、身につけてるお守りを自分で制御して使用するなんて、奇想天外以外の何物でもないが、本当に未知の脅威を予想してお守りを用意した自分にとっては、お守りとは使い方を熟知すべき重要な道具である。


 お守りなんて縁起がいい、精神的な安心を得られるなどの理由で購入するのが普通だ。自分もこの世界を知るまではそうだった。


 身を守るために、効果のある本物のお守りを手に入れて、それだけで安心したわけではない。自分が本物のお守りを手に持って、最初にしたことは、自分の霊感でその中に宿る力を感じ取ることだった。

 身を守るための道具の力やその本質をできるだけ理解できるようにしたかった、それが怪異から身を守る力となると思ったから。


 前世の記憶を持って生まれた他人より強い霊魂も、目に見えないものを感じ取れる霊感も、鋭い直感も、それを可能にした。

 一目で力を見抜けたものもあれば、触れてもわからなかったものもあった。だから肉眼では見れない力をお守りの一つ一つから確実に感じ取れるように、数週間をかけて瞑想などの訓練をした。


 その延長線でお守りの力を自分で再現できないかなど、色々と試したこともあった。当然成功しなかった。だけど、そのおかげでお守りの力を感じるだけでなく、触れることもできるようになった。

 大事なお守りを壊して無駄にしてしまうことを心配して、直接操ることは試さなかったが。お守りの力の理解がそれなりに深まった自分には、ある程度なら使えるという確信があった。


 その確信を今行動に移す。


 リュックからスマホなどの貴重品を取り出してポケットに入れ、リュックを片肩にかけていつでも投げ捨てられるようにする。そして、右手の指で呪符を挟んで持つ。


 印であり、象徴でもある呪符。符の存在は古来より証書として存在し、権力の象徴を担ってきた。それが鬼神の世界や民間の信仰や宗派では特殊の意味と効果を持つように、神秘的一面を保有するまで変化と遷移を繰り返してきた。

 古代での天地神明に対する崇拝は根強く、符の神秘の一面が後から付いたものか、生まれた時にすでに備わっていたものか、その真相は僕にはわからない。


 だが、呪符がただの符ではない体系になったのは明らかである。

 符籙と呪語が合わさってなった呪符、天と地から星々、神 仏 仙から妖 魔 鬼、その全てと交信対話を可能とできるように、様々なものが込められている。呪符とは超常的な存在や力に通じる媒介であり、経路である。


 呪符を手に持てば、道具であるという認識をしてしまうのは間違いではないだろう。呪符についての知識が貼ったり所持したりするものという程度の人も少なくない。

 しかし、呪符は儀式でもある。神々などの超常存在と交信するための呪符、製造する工程から使用する方法まで多種多様なものが含まれている。


 例を挙げれば、呪符の書かれた記号や文字は神明の名が含まれている。呪符に纏わるそれらの全てに特別な意義が存在すると信じられている。


 符を書くための紙や墨などの材料、作る時の時間帯や場所、必要な祭壇や祭礼、符に書かれる文字や符号、そして、使用する時に唱える呪文、手で結ぶ印、体を動かす歩法、その全てには意味が込められている。


「まぁ、道士でもないから、そんな細かい使い方まではわからない。でも、師匠も使った時は急急如律令を唱えて貼っただけと言っていたから、心配はいらないだろう」


 呪符の認識を確認し、使用方法を思い出して脳内でシミュレーションを繰り返した。問題はないと確かめ、呪符を使おうと行動に移す。


 指で呪符の上部を掴み、扉に貼り付けるように押す。呪符の状態に問題がないともう一度確認をし、集中して体の感覚を研ぎ澄ませた。


 準備万端だ。


「急急如律令」


 自分の体の力を総動員して呪符に集中して、力強い声で呪文を言い放った。その声に応えるように、指から呪符の強い力が伝わってくる。

 他のお守りと違い、唯一宿る力の性質がイマイチ感じ取れなかった呪符だったが、今感じ取った力から、この符は邪のものを屠るために作られたものとわかった。


 呪符の力について思考を巡らせたその一瞬が過ぎた時、破裂音と共に突風が扉の方から飛び込んできた。体が1メートルほど後ずさり、その力に驚きを感じるも、呪符を落とさないように強く掴んだ。

 突風で舞う埃を防ぐように小さく閉じた目で、下部から三分の一が燃えた呪符を確認し、目を扉の方に向けた。


「力は破ったけど、扉は壊していない」


 そう言いながら、体はすでに扉の方に動いていた。呪符で破れるのが扉に掛かった力だけという可能性は既にして考慮していた。だから、迷い無しに扉を蹴破る動作に行動を移せる。

 扉に近づくために二歩踏み出し、全力の後ろ飛び回し蹴りを扉にぶつける為に三歩目を踏み出そうとしたその瞬間。体に電流が走るような、鳥肌が立つ感覚が体の内側から伝わってきた。


 その感覚は今日一番の危機に対する察知


 感覚の意味を悟り、既に出た蹴りから受け身と守りの体勢に移そうと体を動かしながら、危機は上からくることを知った。


 目線を向けた天井から何かが来る、そう思った瞬間、耳の鼓膜を破られそうな程な爆音が轟いた。けたたましい埃まみれの衝撃が体にぶつかり、おぞましい存在の叫び声が聞こえた。


「クッソ、マジかよ」


 予想外の事態が起きた。


 化け物が降りてくるまでに脱出することができるという期待はそれなりにあった、自信も大きいものだった。

 実際、呪符の使用には問題がなく、扉に掛かっている力も破ることができた。化け物が速くても、階段から降りてくるまでにこの屋敷から抜け出すことができるという確信はあった。


 だが、その計画も目の前にいる存在の蛮力によって打ち破られた。


 階段を使わずに、2階の床を破って直接降りて来た。雨風に耐えられ、人間の力では壊れないようにできている木造の建築物を体動かすだけで損壊した。

 屋敷の扉や窓に鍵をかけ壊されないようにしたものの行動には思えない暴挙だ。


 現状の理解を3秒で済ませ、戦闘体勢を整え、まだ使えそうな呪符を仕舞う。

 容易く床をぶち破られる存在の力を警戒し、攻撃を瞬時に避けられるように、被害を最小限に抑えられるように、防御を怠らないようにした。


 その状態が数秒続き、目の前で舞っている埃と木屑も落ち着いて薄くなって。目の前にいる存在の容姿が目に映り、その様子がわかった。


 天井の穴の下、2階の床だった木材を踏みつけている化け物がいた。


 白茶色の肌に毛の一本もない肌、瞳孔の見えない白い眼球、老人のような姿だが、異様に長い腕と太い両足がその体についている。胴体は肋骨が見えるほど痩せ細っていると思いきや、腹は大食漢のように出ている。その腹も目を凝らして見つめれば筋肉がついていることがわかる。


 ガチもんの化け物だ。


 一眼見た瞬間、その切実な感想が出た。

 一年前の女も恐ろしかった、人の嫌悪と恐怖を誘うような容姿だった。だが、この化け物は別のベクトルで恐ろしい、一見細やせている老人の化け物に見えるが、部位の一つ一つを見れば人外の構造と筋力が備わってることがわかる。


 奴の体に血の一滴も付着している形跡がないが、これ以上ないほど濃厚な血生臭い匂いがしてくる。それだけではない、自分の霊感も直感もこの化け物の強さを訴えている。


 考えればわかる話だ、財布や靴を出現させ、人を屋敷に移転して引き摺り込む謎の力、獲物を屋敷内に閉じ込める為に窓と扉の一つ一つに強固な防御を施せる力、容易く木造の家の床をぶち破って下の階に降りて来れる怪力、その全てがこの化け物の強さを知らせてくれた。


 今、肌でこの怪物の強さを感じている。武術を習うものとしての勘だけではない、霊感も、直感も、俺の霊魂も、知識の一つ一つがこの人外の恐ろしさを伝えてくる。


 目の前にいる存在の脅威を感じ取り、この状況を切り抜けるための次の一手を考え出すために、思考をできるだけ早く回転させた。それを助けるように、脳が集中状態に入った。


 所持してるお守りと呪符などの道具、今の身体でできる行動、その一つ一つの組み合わせを脳に浮かべて、最善の選択を導き出そうと必死に考える。


 逃げるか、戦うか、いや、どちらかに徹しては殺される。何かで油断を誘って扉を蹴り破って逃げるのが一番。お守りを使え、呪符を使え、この屋敷の環境を使え、この体を使え、命を持って、この両足でここから逃げ出せれば俺の勝利。


 数秒程度の時間が過ぎ、俺は思考を行動に移そうとした瞬間、目の前の化け物が壁に手をつけ、口を開いてニヤリと気持ち悪い笑い顔を浮かべた。

 その口の歯は人間とそう変わらないものだったが、集中状態の自分は的確にその口内と歯に付着してるものを捉えた。


 それは身の毛がよだつ光景だった。


 屋敷の所々にあった血の血痕を忘れられず、最初に化け物を見た時に赤色の血液を思い出して奴の体から赤色を探し出そうとした。

 だが、見つからなかった。奴が身の清潔を保つような存在という雑な答えを考え、その思考を止めた。


 しかし、今ならわかる。奴の口内と歯に付着した肉片、赤黒い血液、毛髪、その全てが知りたくも無かった答えを教えてくれた。


 襲った者を血の一滴まで啜り、悲鳴を聞きながら口内で肉体を噛み砕き、溢さずに飲み込んで腹を大きく膨らませる。

 それが奴の生き方であり、唯一の欲望である。


 化け物の口内から漂ってくる血生臭い悪臭から被害者の怨念と絶望が染み込んでくる。鮮明に想像つく襲われる人の姿がただの空想ではないとすぐに直感し、自分の霊感が感じ取った死者の記憶のものと考えが至った。


 そして次の瞬間、体の内側から強い怒りが湧き上がってきた。


 なぜ奴の口にまだ食べ残しが残っているかすぐに理解してしまったから。

 常に口内で奪った生命の悲鳴の味を味わいながら、次の獲物にそれを見せつけて、怯えさせる為にそうしている。

 常人では一瞬で反応できないことだが、俺はその行動に込められた奴の醜い考えを読み取った。


 そして、この理解が強い怒りの引き金となってくれた。


 被害者の為に怒る気持ちも微小に含んでいるが、その多くは自分を獲物として認識する目の前の理不尽の存在に対する反抗の怒りと、前世の記憶を持つ一度死んだ者としての、死の冒涜に対する憤怒だった。


 命の終点だけではなく、痛みと絶望から逃れるための道でもある死が、このような日常と常識を凌駕する恐怖的な存在によって、弄ばれている。


 終わらない拷問、永遠と続く痛み、希望と光はやって来ない、あるのは恐怖と未知のみ。


 自分にも訪れるかもしれないその恐怖、愛するものにも向かうかもしれないその強い恐怖、生きるもの全てに襲いかかる可能性のあるその超常的な恐怖。


 生者として、一度死を迎えて、転生を経験した人として、目の前にいるこの存在を打ち砕くことを勝手に魂が、体が、強い感情の火をつけた。


「許せない」


 自分の口から出たのは怒りを煮詰めたような声だった、中学生の出せる声には思えない声だ。


 その声の発生源が声帯でも腹でもなく、魂から湧き上がる感情だと気付いたのはこの場のもう一つの存在の反応を見てからだ。


 俺の低く強い声に目の前の化け物が一瞬怯んだ様子を見せた。その反応は知っているものだった、予想外のこと、対応していないことに示す反応だ。


 ほんの一瞬の間抜け面を晒した化け物も、次の瞬間では般若のような怒りの顔になり、そして気色の悪い、含みのあるニヤケ笑いに急変した。


 その顔で俺を見つめ、壁に触れていた手で壁を軽く3回叩いた。


「ドッ…ア、…ニッヒッ…ヒッ…ヒヒー」


 化け物の口から吐きたくなるような血生臭い匂いと共に、なんとか聞き取れたドアというワートと、生理的に受け付けられない冷笑が飛んできた。


 ドアの単語を認識した脳が勝手口のドアに意識を向け、呪符で消し去ったはずの力が再びドアに纏っているに気付いた。さっきよりも強固な状態で、わかりやすいほど濃厚に。


 奴の行動と笑いの意味を理解し、怒りと苛立ちの炎がより一層強くなった。


 壁に触れればいつでもさっきより強い防壁を掛けられるという力の誇示、命を弄ぶ意思表明の嘲笑、俺を見下す瞳孔のない白目の視線、俺の顔から怯えと恐怖を見出そうとする傲慢な期待。


 その全てが自分を苛立たせる。


 この苛立ちと怒りをぶつけたい、消化して、解消したい。そのための手段が目の前の化け物の期待を踏み潰し、ここから逃げ出すという勝利を勝ち取る以外にないとわかる。


 非力な高校生の自分が人外に勝つための術、持ち合わせているのか。


 大丈夫だ、ここにある。


 燃える魂が、生きようと集中する体が、強くあろうとする意志が教えてくれる、今の自分なら出来る。


 それを悟り、顔に強い獰笑を浮かべた。これが化け物の嘲笑に対する答えだ。


「そのキモ笑いを止めてやるよ」


 そう叫び、勢いよく地面を蹴って、俺は弾丸のようにドアの方に突っ走った。

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