第一章 再会と奇峯事務所
第10話「踏み込む」
30℃は越えている気温に苛立ちを感じる。
前世よりマシだけど、この世界も同じく温暖化の道を辿っていることに、人類の愚かさは違う世界でも共通であると考えてしまう。
時間は7月19日、四季がはっきりしている日本では、暑い夏の季節になっている。そして、そろそろ夏休みに入る頃である。
汗がシャツに染み込むこの季節、良いポイントを挙げた時に出てきそうな海も、自分は行かない場所なので好感項目にはならない。
夏の良さを感じることがあるとすれば、夏の美味しい食べ物とゲームでの水着イベントくらいだろう。
「痛い」
疲労と痛みがなかなか消えない身体を動かしながら、道を進む。
家への帰路でもないこの道を歩いているのは、学校を休んだ岡田くんにプリントを届けるためだ。
彼の家は自分の家から離れているが、通う道場からはそれほど離れていないから、道場の帰りに届けようと、誰か届けてくれないかの先生の頼みを引き受けた。
「よく考えたら、道場でボコボコにされてから届けるのは判断ミスだし、岡田くんとはそんな仲良くはない、彼の家の場所を知ったのも通りすがった時に会っただけだ。まぁ、引き受けてから後悔するのは良くないか」
失礼なネカティブ言葉を撒き散らしてしまったことを反省し、まだ治まらない身体の痛みのことに目を向ける。
痛みの原因は言うまでもない、師匠との稽古だ。実戦形式が多いせいで、疲労がすごい。週に2回じゃなかったら、朝の通学もできないだろう。
「ダメだ、疲れているし、まだちょっと痛みが残っている」
慣れているこの疲労と痛みに文句を言いながら、ここ一年の道場での記憶を思い出す。
1年前のあの不思議な体験から、武術の方も見違えるほど進歩したが、あの師匠は成長したなと驚嘆した顔で言って、俺の技を避け、両手で流し受け、ボコボコにしてきた。自分が本当に成長したか疑いそうになる。
ただ、雨神流の師匠として自分より極めているなら疑問にも思わなかったが、君はそろそろ他の武術との戦闘も経験するべきだと言って、他の武術を使って自分をコテンパンにした時は、世界観を壊されそうになった。
確かに、雨神流は雨宮家の武術に他多数の武術の要素を取り入れて編み出したものとあの人は言っていた。師匠が若い頃、両親から雨宮流以外に中国武術を学んだことがあるという話も聞いた、十数か国を旅して、多くの武術を体験したことも既に知っている。
だが、太極拳、八極拳、八卦掌、形意拳、多種の象形拳、截拳道、空手、合気、ボクシング、サバットなど、十数種の武術を一流に近い水準で、実戦中に使いこなせるのも、まぁまぁ強くなっているはずの俺を子ども扱いできるのも、明らかに格闘漫画の世界観の者だ。
完璧じゃない場所を探すとすれば、師匠が使った武術の中には、一流に届かない物があった。しかし、三流のものは一つもなかった。
自慢げに新しい武術を俺を倒しながら披露して、『これも一流くらいには出来るようにしている』と言い放つ師匠のムカつく顔を思い出す。
1年前のあの体験がなければ、今もあの人の実力に気づかなかっただろう。
そして、今になっても、直感で底がまだ見えていないと感じていることから考えれば、師匠はまだ一度も本気を見せていないはずだ。
「この世界、霊的存在や超常存在がいる世界であるのは間違いないけど、実は格闘漫画の世界なんかじゃないのか?」
素手で猛獣を仕留められそうな化け物じみた強さを持つ師匠の存在に、また世界のあり方と自分の武術の才能に疑問を感じてしまいそうになるが、なんとか自分を落ち着かせることができた。
「もう着くのか」
考え事をしている間に、既に岡田くんの家の近くまで来ていた。
見えている彼の家まで歩き、リュックから彼に渡すプリントを取り出して、壁にある呼び鈴のインターホンを押した。
「はい、どなたですか?」
少しかすれた男性の声がインターホンから聞こえた。おそらく、熱が出て休んだ岡田くんの声だろう。今家にいるのは彼一人と気づき、インターホンに近づいて名乗った。
「岡田くんのクラスメイトの荒木です、授業のプリントを届けるために来ました」
「あっ、ちょっと待ってください」
少し焦っているような声がインターホンから返ってきた。その直後に扉の向こうからドタバタと足音が近づき、扉が小さく開いた。少しズレているマスクで眼鏡が息で曇っている岡田くんがそこにはいた。
彼の姿を確認して、手にあるプリントを扉から顔を覗かせる岡田くんに差し出す。
「これ今日の授業のプリント、あと夏休みの課題のやつもある」
「ありがとう、荒木くん。よかったらこれを」
岡田くんは片手でプリントを受け取り、もう片手で結露で水滴がついているペットボトルのお茶を手渡して来た。
意外のことに少し躊躇うも、俺はありがとうと礼を言いながらお茶を受け取った。ほーいお茶と書かれたラベルのお茶は冷たく、喉の渇きを感じている自分に必要な物だった。
このお茶を見れば、彼が急ぎで冷蔵庫からお茶を取り出したということははっきりとわかる。彼の優しさと気遣いに感心しながら、会話をするために口を開く。
「体調は大丈夫そう?」
「うん、大丈夫、明日行けるかわからないけど。ひょっとしたら、このまま夏休みに入るかも」
岡田くんの声はやはり少し掠れている。
様子を見てわかるが、熱が出ている。姿勢を観察すれば、あまり力が入っていないこともわかる。紺色のパジャマ姿に少し赤い顔、休憩が必要な病人そのものだった。
「悪いね、邪魔しちゃって。俺はもう行くから、体に気をつけて休んで。お茶はありがとう」
これ以上の会話は彼の休息の邪魔にしかならないと思い、別れを告げて後退りながら手を振った。
「うん、プリントありがとう。またね」
岡田くんも手を振り返して、挨拶をする。
「またー」
そう言い、手を振りながら少し早走りで去っていく。
彼の家が目線から離れてから足の速さを落とす。少し走ったからか、さらに喉の渇きを感じ、手に持つお茶に目を向ける。
「ほーいお茶か、美味しいけど、名前のせいで見るたびに前世のお茶を思い出す。この世界は前世と少し違うから、有名企業も商品も異なってくるのはわかるけど、こういう変に名前が似ているやつは、何回見てもツッコミたくなる。著作権回避かよ」
突っ込み混じりの感想を言いながら、ペットボトルのキャップを開けて、飲み口を軽く唇に当てる。冷たい緑茶が口内に入り、食道に流れ込んでいくのを感じると同時に、渇きを解消した時に湧く爽快感で満たされる。
ごくごくと飲み込み、口から外すと600mlのボトルの中身の半分は消えていた。残りを帰り道で飲もうと決め、リュックの横のボトルホルダーにしまう。
「そろそろ帰らないと、もう5時過ぎてる」
そう言い、再び小走りを始める。来た道を戻るように、少し速く走っていく。
しばらく走り、家の方向の道に進路を変えた。ただ帰宅するために足を動かし、特に何も考えずに走っていると、突然感覚が何かを感じ取って、体が後ずさった。
鳥肌が立つような感覚に少しの悪寒、言葉で言い表すのが難しいこの感覚。
危機察知か。
俺はさらに数歩後ろに下がった。何もやってこないことを確認すると、俺は違和感の正体について考え始める。
危機察知のはずだが、普通のやつじゃない。
普通の危機察知は日常で感じることは割とある、師匠の鋭い拳や曲がり角から飛び出る自転車に反応する。その危機感知とは少し違う、そう、人や物による危険ではない、普通ではない、超常的なやつ。
でも、それでも、ちょっと違う。霊感で何か感じても、普通は遠くから嫌な気配がして、近づきたくないで終わる。
その疑問が出た瞬間、過去にも同じ感覚を体験したことを思い出す。
約1年前の時、時刻は夕方、危機の原因は……人外の化け物 巨体の女型の化け物 人間離れの怪力 嫌悪と恐怖を誘う容姿 俺を食べようとした 忘れられない記憶の詳細を掘り起こして現状と照合していく。
あぁ、この感覚は異常の存在、超常の存在に直接面した時の危機感知ということか。
忘れてはいけない感覚の正体に気づき、その原因を見つけようと思った時、自然と体が斜め前の方向に向いた。そこには一本の道があった。
この道の先になにかあるのか。
「チッ、また帰り道かよ」
正体不明の危険に俺は舌打ちをした。しかし、今度は化け物がいない。目の前に何も現れていない。
「確認するか」
俺はそう言い、慎重に、遠回りするように歩き、道の対面の方に立った。目の前にあるのは、少し奥に立っているひとけのない屋敷と、そこに続く20メートルはある緩やかな坂道の玄関アプローチ。
木々や雑草が乱雑に生えているのに、周りに塀や壁がなかったが故にあまり気づくことはなかったが、ここに立つと一直線で玄関まで見える。
この場所から見える屋敷は強い存在感を放ち、初めて見る場所のようだが、何か知っているはずと、関する記憶を思い出そうと脳を動かす。
数秒が経ち、脳の情報がようやくまとまって来た。
住む場所からそう遠く離れているわけでもないこの場所、ここの道も何度かは通っている。この思考から掘り起こした記憶にもここには小さな屋敷があるという情報がある。
だが、今目の前にある屋敷は記憶にある姿や雰囲気はどこか違っている。
こんな廃屋があれば、もっと何か情報や記憶が残るはずだが
そんなことを考えていると、学校での雑談で聞いた話にこの屋敷のことがあったことを思い出す。
数年前に住んでいた男性が亡くなったことで廃屋になったが、解体も売却もされずに放置状態。この廃屋はたまに馬鹿な学生が肝試しに侵入して怒られる場所だが、1年半前から学生の間でここには幽霊がいるという噂が広まっている。
よくある怪談の噂話だが、今の自分には小さくても必要な情報である。
「最後ここを通った時は1年前くらいだけど、こんな雰囲気ではなかった。ちゃんと観察したことないけど、このような場所ではなかったはず」
視覚では違いなど見出せない、だが感覚がはっきりと別物と教えてくれる。
考え込まなくてもわかる、何か、超常的なものが関わっている。いや、もっとはっきり言えば、あの化け物のような危険な超常的存在が目の前の屋敷にいる。自分の危機感知が引っ掛かったものがその存在であるのは間違いないだろう。
「これをカウントすると2回か。意識だけ高い系の人の話より薄い数字だけど、去年から年一で超常存在に遭遇することになっているな。やっぱ普通ではないもの同士は引かれ合う運命なのか」
ただ日常を過ごしている途中で現れた2度目の霊的体験に、自分の中から何か見出そうとするも、あまり経験や知識のない現状ではあまり成果が出ないことだった。
師匠なら、何か知っているかもしれない。
「師匠ももう少し話をしてくれたら、何かわかったかもしれないのに」
師匠の愚痴を言いながら、目線を自分から目の前の屋敷に向ける。知らないものなら、観察して情報を得れば良い。
900㎡以上はある敷地、無造作に生えている木々と雑草が周りを囲い込む、屋敷の方はこの道よりも少し高い位置にある、この坂道から覗き見しなければなかなか建物の全体は見えないようになっている。
いかにもホラー作品に出て来そうな建物、こんなところに建っていることに少し驚きを感じると同時に、何かないかと屋敷の方に意識を集中させる。
危機感知が働いたのはさっきの一瞬だが、目の前の屋敷の違和感はずっとある。微かだが、霊感も何かあると感じている。その存在が屋敷のどこに位置するか、目と感覚を凝らして観察する。
しかし、そんな集中状態も長く続かなかった。ここに立って既に1分は経っていることに気づき、帰宅中であることを思い出す。
危険な場所には踏み込まないようにと、ここからの観察だけに留めたが、特に成果を得られそうにないとわかった。ならもう帰宅しようと思って足を動かした瞬間、坂道に何か落ちてあることに気づく。
「靴と財布、それと携帯?」
万円札と身分証が見えるように開いてある財布、雑な状態で落ちている靴、そして少し画面が割れているスマホ、三つのアイテムが道から約3メートル前にあった。
小さく生えてある雑草に隠れるようになっているのを見て、当たり前の感想を口に出す。
「このタイミングで出てくるのか、罠くさいな」
この場から離れようとした時に、突然見つかるもの。ただそれだけなら、馬鹿でも罠と感じるが、雑草の後ろに隠れるように置いてあることで、さっきは気づかなかっただけと思えるような効果が出ている。
それだけじゃない、屋敷までの道で雑に落ちている靴とスマホ、この二つを見せるだけで、なにか事件があったんじゃないかと、思わせる。
財布とスマホも実にいやらしい、お金が詰まっている上に、個人情報の塊である。お金を自分のものにする欲望と、警察に届ける責任感の両方を誘えるようになっている。
悪い欲望も、正義感も誘える。両方あっても、拾って警察に届ければ問題がない。絶妙のチョイスと言わざるを得ない。
「いやらしいな。お金が欲しい人、落とし物を警察に届けてくれる人、好奇心で拾ってみたい人、人間の大半を占めているだろう。何もしないと、事件を見て見ぬふりをした不安と後悔が残る。やっぱ罠か?」
でも、本物だったら?
「そうか、誰かが化け物に襲われて落とした可能性も高いな。」
それだと、いつ襲われたんだ?さっきか?
「どっちだ?」
道の方に落ちている靴と財布を見て、俺は深く考えた。
屋敷に潜む何かが仕掛けて来た罠である可能性の方が高い俺は判断した。だが、それより重要なのは拾うか拾わないかの選択だ。
「もう少し近づくか」
そう言って、俺は少しずつ近づく。危機察知が作動していないことを確認し、ゆっくりと近づいて、道の前に立った。
「身分証は名前が見えないな」
開いてある財布のポケットからほんの少し出ているが、詳細は見えない。
どうするか。警察を呼ぶか?いや、それは変だ、わざわざ警察呼んで、目の前のものを拾わせるのは逆に俺が変。普通に拾って、警察に届けろと言われそう。
誰かに拾わせる?いや、それは危険を他人に押し付けるようなものだ。
ドローンか、何か道具を使う?今はそんなものを持っていない。
結局問題は、拾うか、拾わないか。
「拾うことのリスクがどれくらいかあるかというのが重要だな。距離は3メートルくらい、狙うのは財布とスマホだけ、罠だとしたら、拾う時に相手が何を仕掛けてくるか」
判断材料があまりにも少ないせいで、何が起こるか予想もつかない。
何かヤバそうなのが屋敷にいるのはほぼ確定だけど。わざわざこんな罠みたいのを仕掛けてくるということは、今は直接襲って来ないと考えても良いだろう。
何か一つ考えるための材料が欲しい。
そんなことを考え、一つの発想に至る。
何か当ててみよう。
自分の体で罠を確認するのが自殺行為なら、遺跡の罠やトラバサミに石を投げて確認するような、簡単な行動で様子見してみればいい。危険なことが起きなければそれでよし、何か起きれば全速力で退けばいい。
そうと決め、目の前にある小さな石ころを拾おうとして体を動かす。上半身を低くし、前傾姿勢になり、石ころに手を届かせようと、手を伸ばして、右足を小さく前に動かした。
その瞬間、五感以外の霊感や第六感と呼ばれる感覚から、自分の魂の感覚、全ての感覚が危険を知らせた。その危険察知の作動と同時に、突然世界が暗くなった。
――まただ、判断を誤った。
突然の暗闇で自分の判断が間違ったものと理解してしまった。
その察知によって怒りと後悔が押し寄せてくると同時に、未知の危険な状況で血の気が引いてしまいそうになるが、背後からわずかの光が当たっていることに気づく。首を動かし、背後を覗き見ると、そこには引き戸の扉があった。
見覚えのある古臭い扉を見た瞬間、自分の現状と変化の原因を勘付いてしまった。直感と生きてきた約40年で培った知識と思考回路が一瞬で答えを導き出した。
ここは、屋敷の中。
最初に思いついたこの場所の推測に連なるように、なぜこの場所にいることの理由の予測も想到した。
「石を拾おうとしたからか」
この場所に移動した直前の動作は石を拾う動きだった、その行動によってこの場所に引き込まれたと考えるのが自然だろう。
この薄気味悪い屋敷にいる結果の因が、変化が起きる前の事象にあると考えるのは当然であった。
思考は止まらなかった。危機の原因を追及するように、さらに思考を深める。
「正確には、石を拾うために足を前に動かしたのが原因か。じっと屋敷を見つめたり、道の前で棒立ちしたり、他のこともしたけど、俺が足を前に動かしたのが一番間違った行動で、奴の狙いであったんだろう」
危険な匂いがする屋敷に繋がる道に、落とし物のようにある財布と靴。
それを見て自分は罠の可能性を思いついたが、獲物である自分にそれを拾わせるのが目的だと勝手に考えた。だが、罠に引っ掛かる条件もっと単純だった。屋敷の玄関に至る道に、一歩でも前に踏み出そうとする動作。
あの罠に関する勝負は、あの道に少しでも足を動かした自分の負けだった。
「拾う方を警戒していたけど、道を踏むのが罠か」
痛恨のミスを招いたのは、こういう超常現象に対する知識の不足と徹底的に慎重になれなかった自分の油断だ。
おとぎ話でも、怪談話でも、異界や魔境に迷い込む要因は人の小さな動作であることは多々ある。何気ない動きでも、意思や意味を持っていれば因となる。
「正体を知らずに、吸血鬼を家に招いてしまう話も同じだよな。もっと自分の行動の意味を知って、警戒すべきだった。この場合は、俺が足を踏み出すことの意味を知らずに、危険な場所に入り込んでしまったのだけど。石を拾おうとしたのも、あの道を踏んだのも、家に入るための意思表示と解釈できるよな、家と外の境目を超えたということだよな」
些細の動作でこんな危険な場所に飛ばされる、超常現象の世界に強い理不尽を感じる。
現状の分析などを済ませ、小さく溜息をつく。
さっきまで行った思考は、知るための行為であり、自分を落ち着かせて、態勢と心情を整えるための準備でもあった。その効果は無駄にならなかったようで、萎縮しそうだった体も現状打破の方向に向き始めた。
「どうやってここから逃げるかだな。今いる場所は玄関か」
体を動かして周りを見渡す。
古臭い和風の引き戸の扉、乱雑に落ちている靴がいくつかある玄関のたたき、左側に配置されている下駄箱と、その上に置かれている埃を被った置き物や枯れた花を飾っている花瓶、自分の足の先にある上がり框。
その全てがここは人がいるべき場所ではないことを教えてくれる。
「一歩前に出ただけで、こんな場所に飛ばされるのか。それも自分から上がれと言うように、この段差の一歩前に俺を移動した。招いているつもりか。ファンタジーならテレポートを体験して興奮できるが、こんなホラー展開では身の毛がよだつだけだ」
俺は悪態をつくように言葉を吐いた。
超常現象を引き起こした相手がこの屋敷の中にいるのは間違いないだろう。だが、さっきからその存在が動く気配がしない。屋敷に入ってから、おおよその場所は直感と霊感でわかるが、相手の不動が気味悪くて仕方がない。
なぜ襲い掛かって来ないんだ?俺が動くのを待っているのか?それともいつでも仕留められるから急がなくてもいいと思っているのか。
獲物が近寄ってくるまで待つ奴の捕食者のような態度に少し苛立ちを覚えるも、相手が未知の化け物であることに少し慎重になる。
「まったく、一年間、超常的な存在に全然触れられなかったのに、最初に来るのがこんな恐怖展開かよ。子供は知らない方がいい危険というのは正解だよ、雨宮師匠」
俺は文句を言いながら、これが自分の知りたかった世界の一部だと自分に言い聞かせ、気持ちを整える。
ずっと立ったままで考えても状況は変わらないと考え、俺は足を動かす。気味の悪い暗闇に足を踏み入れるより、先に近くの出口となりそうな玄関を調べようと後ろの方に体の向きを変えて、歩き出す。
「やっぱ開かないか。ホラーゲームと同じ、入り口は謎の力で閉ざされているか」
玄関の引き戸に渾身の力を入れて開けようとするも、びくともしなかった。鍵がかかっているだけのような単純の状態ではない、何かに抑えられ、固められたように揺れすらなかった。
予想通りの展開だが、少し落胆しそうになる。
鍵がかかっているだけなら、本気の蹴りで蹴り破る選択も取れたが、扉に触れて力を入れた時の感触で力の差をわかってしまった。1年前の女の化け物の怪力が猛獣以上なら、この扉に掛かっている力は恐竜だ。普通の人間が火事場の馬鹿力を出したところで何も変わらない。
扉からの脱出は無理と分かり、周りのものを調べ始めた。
埃の被ったものの一つ一つに目を通し、下駄箱を開けて何かないかと調べるも、特に成果はなかった。埃が舞わないように細心の注意を払ったが、手には汚れがついてしまった。
だが、こんな状況では汚れの一つは瑣末のことである。
やるべきことを考え、目線を手から暗闇の方に向ける。
時刻はまだ5時を少し過ぎた日が沈む前の時間帯のおかげで、扉からの光でわずかに奥の様子が見える。暗闇でも多少目が効く自分ならこの程度の明るさでも大きな問題はない。玄関の正面からは、2階へと繋がる階段と、和風な家の廊下と襖が見える。
「行くしかないようだな、まだ光がある時間のうちに行動しないと、本当の暗闇が来る」
決意の言葉を口にして体を動かそうとするが、忘れてはいけないことを思い出し、背中のリュックを前の方に持って来て、中にあるものを探し始めた。
「不思議な力で閉ざされているこの場所ではあまり期待できないけど、スマホで助けを呼ぶ選択肢も一応試さないといけないな」
そう言い、リュックの中にあるスマホの電源をつけ、パスワードを入力して画面を見た。しかし、予想通り、電波マークは白の繋がらない状態だ。
「駄目か」
嫌な予想が当たり、小さく溜め息を付く。壊れるのは面倒だから、今はあまり役に立ちそうにないスマホをそのままリュックにしまい込む。
そして、最初に思い浮かんだ、本来取るべき選択に再び目を向ける。
小物を入れるためのナイロンメッシュのケースを取り出し、チャックを開けた。中に入っているのは、何個かのお守りと一連の念珠、そして一枚の呪符があった。
師匠のおかげでこの1年間で集められたものだ。超常存在がいると知れば、対策して身を守る術用意するのは当然のこと。
「これが頼りだ、感謝するよ、師匠」
師匠にもっと欲しいとお願いして良かった。お守り一つで満足せずに頼み込んで正解だった、色々手に入れなかったら、今頃絶望しているかもしれない。
普通の人なら本当に役に立つか心配になるが、俺にはなんとなくだが、力を感じ取れる。それに、これらには師匠の保証がある。
人に見られたら、こんな一度も使用したことのないお守りに信憑性があるかと聞かれるだろう。だが、このケースに入っているものなら胸張ってあると言える。
一年前、超常存在とそれを退治している人のことを聞こうと、師匠に色々質問したが、断られてしまった。
でも、俺は諦めなかった。未だによくわからない秘密組織のことは聞けなくても、他のことを聞き出そうと奮起した。お守りの入手方法、どのように使うのか、何が材料なのか、唯一の情報源である師匠から色々絞り出した。
人がいい師匠は、俺の頼みを断れなかった。お守りを与えるなら、ちゃんとどういうものか説明しないといけないと言って、色々聞かせてくれた。
その時に、師匠には武術の修行時に殭屍を退治した経験や、水鬼や狼の怪異を仕留めたことがある事実を知ってしまった。
その話をさらに深堀して、色々質問した。
師匠の雨宮の家系の祖先は神職から始まり、何代も遡ると怪異退治を生業としていた時期があると師匠は語った。
師匠の一家は何代か前からそういうのと無縁の生活を送り、祖父の代から事業と武術に専念するようになった。深掘りすればもっと色々と出てくるが、今重要なのはケースに入ってるこれらのことだ。
霊や怪異とは関わらないようにしていた師匠の一家だが、人脈や貯蓄が無くなったわけではない、超常的なものから身を守る術はちゃんと確保している。そして、師匠の家には色んなお守りなどがある。
故に、師匠から貰ったこれらの御守りは、効果が保証されている。
使う出番がなく、大事にしまっていたから久しぶりにケースから取り出した。そのせいもあってか、色々と考えてしまった。
過去を回想しようとする気持ちを殺し、俺はもう一度目の前の暗闇を見つめ、今から自分の命を守ることになる重要のアイテムの確認を始めた。
まずはこれだ、最初に貰ったもの。
日本でよく見かけるお守り袋に入ったものだ、少しサイズが大きいのは中に入ってるものがお札などではないから。俺は師匠から伝えられた使用方法を思い出し、袋の紐を解け、中に入ったものを取り出す。
一本の鋭い爪が付いたペンダントが袋から出てくる。袋をケースに仕舞い、親指人差し指中指の三本で紐を持ち上げ、爪をじっと見つめた。
熊の爪でも、鷹の爪でもない。――――水鬼の爪である。
この水鬼は師匠が中国で修行の時に遭遇したもの。魚を釣っていた師匠に襲い掛かって来たのに、そのまま森の中に投げられ、拳で仕留められた。その残骸を当地の高名の道士に加工して貰ったものだ。
中国では水中の猿として水猴子とも呼ばれる水鬼、水中で溺死した人の霊魂の成れの果てとされているため、物語によっては女の霊にもなることも、人外の化け物の姿になることもある。
この鋭い爪を見れば、師匠の語った水鬼の姿を少し想像できてしまう。
溺死して腐り始めた人の死体に、人を水中に引き摺り落として離さないための鋭い爪、人にはないはずの水かき、なぜか怪力を発揮できる痩せ細った体格、暗闇の夜でも獲物を捕らえられる薄青く光る目。
だが、そんな化け物も今はお守りとなっている。
水鬼の毛髪で作られた黒い紐と加工した爪に宿る怨念や力、持ち主に敵意を向けるものに力を向けるように出来ているが、神聖な力で作られたお守りではないが故に、使い方を誤れば凶器にもなる。
そのため、これを包んでいたお守り袋は普通のお守り袋とは役割も素材も違う。普段は力を抑え、必要な時に取り出して使用するために作られたものである。
水鬼の爪を目で見つめ、宿る力を感覚で感じ取る。霊感がこのペンダントのお守りの力を確かに感じ取った。
確認が済み、ペンダントの紐を首に付けた。
そして次のお守りの確認をする。
袋に御守と書かれた赤のお守りである。師匠の紹介で購入したものだ。普通の神社で貰えるお守りとは外見の差はないが、ちゃんと実力を備えた神職の人によって作られたものである。
一般人には販売されていない上に値段も低くても数万以上。紹介がなければ、購入したいと言ってもそのようなものは販売しておりませんとはぐらかされる。
確認をして、身につけようとしたが、ペンダントのように付けられる紐がないことに気づく。水鬼の爪のペンダントにつけるのは、属性の相性が悪く、効果の相殺が起きてしまう。
そう思い、赤のお守りをズボンの右ポケットにしまう。
白のお守りをケースから取り出す、これはある寺の僧侶が作ったもの。倉庫にあったもので、師匠も詳細はよく知らない。
このお守りには特に思い出すものもない、そのまま左ポケットにしまう。
もう一つの金色のお守り袋を取り出す、中には手のひらサイズの木彫り仏像が入っている。このお守りはある有名の彫刻師の作品の一つで、裏の世界では彼の作品の効果は多くの人に知られている。
金色のお守りをポケットに入れずに、袋の紐を左腕に前腕部に結びつける。これが一番効果を発揮できると思う方法だから、落ちないように丁寧に結び、必要な時に外せる結び方にした。
結びを終えて、手を振って結びの具合を確認して、満足する。死地で準備を怠るのは命を捨てることに同義。
ケースに残っているのは、一連の念珠と一枚の呪符。
紫檀のカリンで出来たこの念珠は、ある高僧の残したものであり、厄除けの効果だけでなく、百毒不侵の効果をもたらすとも言われている。
呪符は師匠が中国のある道士にも貰ったものである。符籙、道符、お札、呼び方は異なる色々あるだろうが、重要なのは効果である。
師匠曰く、これは殭屍の退治に使用した呪符の残った一枚である。もう二枚は使われたが、効果は抜群だったらしい。刃も通さない体を持つ殭屍に重傷を負わせて退治出来たと聞いた。今自分が期待を一番寄せているのもこの呪符である。
念珠を右手首に通してつけ、朱墨と黄紙で出来た呪符を服の左ポケットに丁寧に入れる。全てのアイテムの装着を確認して、俺はケースをしまい、リュックを背中に戻した。
「準備は出来た、あとはここから逃げるだけだ」
そう言い、上がり框の段差を踏み越える。自ら未知の恐怖に踏み込むことに再び体が震えそうになるが、足を止めて息を吐き出し、体を落ち着かせた。
心なしか、身につけているお守りの効果で早く落ち着けるように感じた。
「こんな怖いお化け屋敷は初めてだ」
つまらないジョークを言い、再び恐怖の領域に一歩踏み入った。
一寸先の暗闇から飛び出るのは、凶器か、毒牙か、異形か。答えが出ない未知の恐怖を脳の後ろに置き、警戒を忘れずに勇気を出し、俺は体を動かす。
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