第9話「模索」

「暑い」


 門を押し開き、敷地内に入った俺は扉を閉めながらそう言った。

 スマホで確認した気温は32℃、前世の温暖化が進んだ頃の地球と比べるとマシだが、この世界にも温暖化などの環境問題は存在する。


 手で額の汗を拭きとって、俺は道場の方に歩いた。


「荒木くん、こんにちは」


 声がした方向に振り向くと、箒で掃除をしている小林さんがいた。


「お久しぶりです」


 俺はスマホをポケットに仕舞いながらそう返した。

 小林さんに会うのは一か月ぶりだ。仕事が忙しい小林さんが道場に顔を出すのは月に数日程度、少ない時は一日二日くらい。だから会うことは本当に少ない。


「久しぶり、調子はどう?」


「ぼちぼちです」


 返事を返した俺は、小林さんの腕に包帯が巻かれていることに気づく。それを疑問に思った俺は小林さんの顔を見た。


「腕の包帯はどうしたのですか」


 俺の言葉に、小林さんは一瞬悲しげな顔をしてから、落ち着いた顔で口を開く。


「仕事のミスで、ちょっと怪我をしただけだ。そうだ、久しぶりに手合わせしないか。腕の傷はもうほぼ治っているし、荒木君の腕前も確かめたい」


 小林さんは誤魔化すように話題を変え、俺に手合わせを提案して来た。


 180センチの鍛えこまれた筋肉質の体、13年の武術経験、小林さんの実力は相当なものだ。普段の俺なら手合わせできることを喜ぶが、さっきの小林さんの顔を見れば、彼の内心にはそんな余裕がないことくらいわかる。


 それに、今日俺は鍛錬以外の目的で道場に来た。


「すみません、今日はちょっと師匠に用事があるので、また今度お願いします」


「あぁ、また今度。雨宮師匠なら裏庭にいるよ」


 小林さんはいつも通りの笑顔で俺に師匠の場所を教えてくれた。


「ありがとうございます、また今度」


 俺は小林さんに手を振って、別の方向から裏庭に向かおうと歩き出す。背後の小林さんは箒を動かし、掃除を始めた。


 何か、あったのか。


 小林さんはいつもの調子じゃなかった、何か良くないことがあったかもしれない。


 小林さんのことが気になるが、俺はそのまま裏庭への道を進んだ。今の俺にはもっと知りたいことがある、それが今日の目的だ。


 木を叩く音が聞こえる。これは、木人樁を叩いている音だ。


 聞き慣れた音を辿り、裏庭にたどり着くと、木人樁を使っている師匠がいた。数種の木人樁の間で足を運ばせ、両手で木人樁の手を打っている。


 いつも通りの様子だ。


 そう思った俺の内心は、落ち着いていなかった。

 昨日収穫ゼロのまま家に帰ったが、自分で見つけられないなら人に聞けばいいと方向転換した。パソコンを使って霊能力者や超能力者について調べた。


 当然いい結果は得られなかった。誰が本物かわからないし、著名人なら当然連絡も面会も難しい。


 身近にそういう情報を持っている人はいないかと考えた時、師匠のことが思い浮かんだ。


 今、俺が知っている人の中で、一番可能性がある。

 デカい屋敷に住んでいる、お金もある、人外のような戦闘能力を持っている雨宮師匠。雨宮家は歴史が長いと彼からよく聞いた、人脈がまぁまぁ広いと自慢されたこともある。


 彼なら、何か知っている。


 今の俺は、そう確信している。思い返せば、思い当たる節がいくつもある。師匠の道場には時々普通じゃない人が訪ねてくる、数人のスーツ姿の男、神司の恰好をした人、顔に大きな傷がある老人。


 木を叩く音が途切れたことに気づいた俺は、考えることをやめ、師匠の方に歩いた。


「今日は来ない日じゃなかったのか?カレンダーの方も明日来ると書いてあったぞ」


 師匠は俺が急に来たことを疑問に感じているようだ。確かに、アプリで共有したカレンダーでは明日来ると書いた、でも、それは鍛錬の話だ。


 こっちの方に向かって歩いてくる師匠を見て、俺は口を開く。


「その、聞きたいことがあって」


「なんだ、それなら中の方で話そう。外は暑い」


「はい」


 師匠は俺の前を通り過ぎ、いつも通りマイペースな感じで裏口から道場に入った。俺は口から出かかった疑問を一度飲み込み、そのままついて行った。


 扉を開け、靴を脱ぎ、道場に上がる。


「涼しい」


 エアコンが効いている道場内は涼しかった。


 俺はハンカチで汗を拭き、一階に師匠がいないことを確認すると、階段を上って二階に向かった。予想通り胡坐座って、片肘をテーブルに乗せながらコーラを飲んでいる師匠がいた。


 見慣れた師匠の様子に、俺の焦りも少し緩んだ。ゆっくりと歩き、師匠の前に座る。


「急に道場に来るとは、何かあったのか」


 師匠は俺が落ち着いてないことを見透かしたようだ。何を聞いて、何を話せばいいか、俺は少し考え、口を開く。


「一昨日、道場から帰宅した帰り道で、化け物に…」


 俺は一昨日あったことをそのまま伝えた。


 突然現れた化け物、その化け物を倒した男、俺が前世の記憶に目覚めたこと、超常的なものについて調べようとしているが、何もわからないこと。


 師匠はコーラの缶をテーブルに置いて、無言のまま俺の話を聞き続けた。


「師匠は、何か知っているんじゃないですか」


 俺の質問に、師匠は腕を組んで悩み始めた。そのまま沈黙が数十秒続いた後、師匠はこっちを見た。


「そういう存在のことは知っている」


「なら、秘密組織とか、化け物を退治している人のこととか、そういうのも知っていますよね、教えてください」


 師匠の肯定の答えに、俺は反射的に両手をテーブルに乗せ、さらに質問をした。


「それは教えられない」


 返ってきた言葉に、答えを期待した俺は思わず固まってしまった。


 なぜだ。


 すぐに落ち着きを取り戻した俺は、再びちゃんと座り、その言葉について考えた。


 知っているけど、教えられない。師匠が教えたくないから?もっと他に理由があるのか?


 そうか、教えてはいけないのか。


 俺は、当たり前のことを見落としていた。存在しているのに、世間一般では知られていない、調べても出てこない、それは隠そうとする何かがあるからだ。


 それはネットだけじゃない、人に聞いても同じだ。知られてはいけないルールのようなものが存在するなら、隠す義務があるなら、簡単に聞き出せない。


 なら、ちゃんと考えて質問しないと。


「師匠は俺に教えたくないのですか」


「それもある」


 教えたくない気持ちもある。


「なにか、話してはいけない契約とかがあるのですか」


「それは、うーん、答えられないな」


 これは答えられないのか。


「話したら、死んだりしますか」


「話しただけでは死なないよ」


 死なないけど、良くないことはあるのか。


「師匠は喋ったら罰を与えられる呪いみたいなものを、身体にかけられていますか?」


「そんな怖いものはない」


 一問一答を繰り返し、なんとなくイメージを掴めて来た。

 師匠は知らないふりをしなかった、そして、答えられるものは答えてくれている、だけど、教えたくない気持ちもある。


 何か契約書を書かされたのか?話したら、面倒なことになるのか?


 どうすれば、答えてもらえるのか。


「それなら、どこまでなら話せるのですか」


 俺は、一番簡単な質問をした。


「んー、話せることはないかな。基本的に、伝えてはいけないものだし。俺にはそういう権利がないからな。」


 師匠は躊躇いながらそう言った。しかし、俺は納得しなかった、まだ、何も欲しい情報は得られていない。ここで諦めてはいけない。


 でも、今のところ、何を聞いても教えてくれない。何を聞けば、何を言えば情報を得られるのか。俺はそれについて考えようとする。


「そうだな、荒木尋斗、これ以上は、詮索しない方がいいぞ」


 まだ諦めていない俺に、師匠は言葉を続けた。その顔はいつになく真剣なものだった。


「既に化け物に遭ったなら、わかっているはずだ、ああいうのは危険な存在だ。そして、それに関わろうとするのは、いずれ、それを生業とする道に進むということだ。助かったなら、自分の命を大事にして、自分の日常に戻るんだ」


 師匠の言葉は正しい。あんな人外なんて、避けた方がいい。いつもの生活に戻って、忘れた方がいい。


「生半可な覚悟で、興味本位で調べることではない。一度踏み入ると、その道を進み続けるということだ。その境目がどこかわからないなら、尚更遠ざかるべきだ。」


 師匠の言葉には、重みがあった。

 確かにそうだ、いつでも引き返せると思うのは傲慢だ。それは、俺の知らない世界だ、聞きたいことだけ聞いて、好きに日常に戻れるとは限らない。俺には、どこが境目か、わからないから。


「俺は君の師匠だ、武術を教える師だ。専門外のことを、危険な道を教える権利はない。教えられるか以前に、君の好奇心に応じるのは、無責任なことだ」


 師匠は、ちゃんと考えていた。考えているからこそ、教えてくれない。


「死ぬことの怖さは知っています」


 それでも諦められない俺は、思うことを言葉にした。


「化け物に遭って生き残れたなら、忘れて、いつも通りの生活に戻る方が普通でしょう。ネットで調べても何も出てこないなら、諦めた方が楽でしょう。十五年生きた普通の生活の方を選ぶべきでしょう。でも、俺にはできません」


 師匠は再び無言で俺の言葉を聞き続けた。


「化け物に遭った場所は、家の近くでした。俺の母と妹もよく通る道に現れました」


 きっと、そういう存在に遭う確率は低いものだろう。十五年生きて、初めて目にした。


「化け物は男に倒されました、何も痕跡が残らなかった」


 守ってくれるプロがいるなら、任せた方が楽だろう。事件があったなら警察に、火災があったら消防に、普通の人は普通に過ごせばいい。

 化け物に立ち向かう、命の危険があるようなこと、普通は関わろうともしない。


「亡くなった家族に、死因がはっきりしない人がいました。何があったのか、何が原因で死んだのか、真実を説明できないまま、何もわからないまま、今日まで生きてきました」


 龍輝さんの死にはきっと、超常的なものが関わっている。でも、俺には調べる術がなかった。それが、とても悔しかった。


「わかっています、危険で、恐ろしいものだと。でも、逃げたいなら、見て見ぬふりしたいなら、もうしています。諦められるなら、もう諦めています。俺にとって、何もしないまま、知らないままで居ようとすることの方が、怖いんです」


 俺は一度深呼吸して、再び口を開く。


「お願いします、教えてください」


「ふむ、それはできないな」


 頭を下げ、お願いしたが、返って来た答えは変わらなかった。


「まだ15歳の中学生の君に、危険なことを教えるのは、大人として無責任だ。覚悟があっても、それは同じだ」


 師匠の言葉は正論だ。答えを知った俺が、危険なことに首を突っ込んで何かあったら、彼は責任を感じるだろう。

 前世の記憶があっても、今ここにいるのは、15歳の中学生だ。化け物を退治する人のことを聞いた後、その危険なことを目指す可能性も、無理に関わろうとして命を落とす可能性もある。


「ということは、成人したら、18歳になったら、教えてくれるということですか?」


「まぁ、その時なら、話せることは話す」


 なるほど、責任を負える成人になったら教えてくれる。


 教えたくないのに、知らないふりをしなかった師匠の心情を少し理解できたような気がする。

 話してはいけないルールもあれば、無責任に危険なことを教えたくない心情もある、理由は色々あるはずだ。


「何か、他に話せない理由はありますか?」


 俺は、少しでも情報を得ようと、質問を続けた。質問を聞いた師匠は少し唸り、コーラを一口飲んで、こっちを見た。


「化け物を退治した男に会っただろう」


「はい」


「彼は君の記憶を封じ込めようとしたんだろう」


「おそらく、そうだと思います」


「専門の人がそう判断した以上、ただ武術家をやっている俺が勝手に教えるのは、あまり良くないことだ」


 確かにそうだ。言葉を交わせなかったが、俺はあの男に、普通の生活を送るべき子供として判断されたのだろう。


 知りたかった超常世界の入り口を一度逃したのに、二度目も拒否されている。答えを知っている人が目の前にいるのに、俺は否定出来ない理由で拒否されている。


 話してはいけないことだから、まだ子供だから、危険なことだから、どれも正しいものだ。


 だから、諦めるのか?18歳まで、ただ待って、その時になったら話してもらえる可能性を信じるのか?

 違う、俺は、もう少し足掻く。別の方向から、攻める。否定できない理由で、正論で断られたなら、こちらもそうすればいい。


「秘密組織の事とか、化け物退治を仕事にしている人のことは、教えられないということですよね」


「そうだ」


「でも、化け物のことは、否定しないですよね」


「まぁ、そうだな」


 師匠は知らないふりをしなかった。それはしたら、俺を止められないから。俺が好奇心で危険なことに首を突っ込む可能性を看過できないから。


 霊感がある俺が、手段を選ばず情報を得ようとするなら、感じとった危ない気配に関わり始める。師匠はそれを理解して、止めに来ている。


「もし、目の前で、俺が化け物に襲われたら、助けてくれますよね」


「当たり前だ」


 そう、この方向性なら、否定はできない。


「もし、俺が呪われて、何か危ない状態になった場合でも、師匠は助けてくれますよね」


「そうだな」


 師匠は渋々答えた。俺が何を聞きたいか、察しているようだ。


「それなら、助けが必要な場合は、身を守る方法を教えてくれますよね」


「そうだ」


「助けてくれる、専門の人を紹介することも、可能ですよね」


「まぁ、そうだ」


 師匠は諦めたような顔をして、そう答えた。テーブルの上に残ったコーラを一気飲みし、俺の方に向いたまま、空になった缶を背後のごみ箱に投げ捨てた。


 俺は、さらに質問を続けた。


「一昨日、化け物は俺の事を狙って襲って来ました。一度あることは二度ある、他の化け物も襲ってくるかもしれない。そう考えると夜も眠れません。それに、前より霊感が強くなった気がします、身体に異常がないか不安で、食事が喉を通りません」


「そうなのか」


「師匠は、可愛い弟子を助けてくれますよね」


「そうだな」


 俺と師匠は少し棒読みな感じでそう問答した。


 好奇心で危険なことを知ろうとするのがダメなら、危険な目にあったから、助けてとお願いすればいい。


 俺の次の言葉が出る前に、師匠は大きなため息を吐き、ポケットから小さな袋を取り出して、テーブルに置いた。


「ほれ、持っていけ」


「これは」


「お守りみたいなものだ」


 俺はそれを手に取り、中には硬いなにかが入っていることに気づく。


「君の知りたい秘密組織のことは教えられないが、身を守る術くらいは確かに教えられる、じゃないと見殺しにするようなものだ。これなら、ルール違反ではない」


「ありがとうございます。霊能力者とか、そういう専門の人についても、紹介」


 師匠は右手を前に出し、俺の言葉を遮るようにストップのジェスチャーをした。


「君が期待するようなことは出来ない、俺がするのはあくまで自己防衛を手伝う範囲内のことだ。君をその道に引き込む可能性がある人は、紹介しない」


 それはそうだ。化け物退治している人を見つけたら、俺が勧誘される可能性も、俺がそれについていく可能性もある。子供に危ない仕事を紹介するようなものだ。


「紹介できる人も、いるということですよね」


「それは、期待するな。お守りはやるから、とりあえずそれで満足してくれ」


「ありがとうございます」


 師匠の譲歩に感謝し、俺は手の中のお守りを確認しようとする。


「使うときは袋から取り出すんだ」


 師匠の言葉を聞き、俺は袋を開け、中に入っていたものを取り出した。黒い縄と爪が見える。


「爪のペンダント」


 一本の長い爪が留められてあるペンダントだ。袋から取り出したからわかる、普通の代物じゃない、どこか禍々しさを感じる。


「普段は袋に入れて、持ち歩くんだ」


「はい、わかりました。でも、これは何の爪ですか?」


「それは、そうだな、またいつか、話してやる」


 師匠は疲れた顔でそう言い、手をテーブルに伸ばして、コーラは飲み切って捨てたことを思い出したように、立ち上がって冷蔵庫の方に歩いた。


 俺はペンダントを袋にしまい、少し考え、師匠の方を見た。


「こういうお守りってまだありますか?出来れば家族の分も欲しいんですけど。購入できる手段あるなら、それも」


 これ一個では、少し心細い。身を守る手段があるなら、もっと欲しい。師匠に色んな要求をしているこの状況に羞恥を感じるが、俺はそれを抑えた。


「まったく、今持っているものであげられるのはそれだけだ。あとで探してやるから、焦るな」


 師匠は冷蔵庫から取り出したお茶とアイスを持って、再び座った。そして一本のアイスを俺の前に差し出した。


「ほれ、アイスだ」


「ありがとうございます」


 俺にミルクアイスを渡した師匠はスマホを取り出し、くつろぎ始めた。


 いつもの調子に戻っている。


 師匠の様子を見て、俺の緊張もなくなった。必死に色々聞き出そうとする考えも今は必要なくなり、俺は脳みそを空っぽにして、アイスを舐め始めた。


「美味しい」


「牛乳味は定番で、最高だからな」


 そう言った師匠はスマホで音楽を聴き始めた。


 これ、今流行りのアニソンだ。


 完全に休憩状態になっている師匠を見て、俺は何か話そうと話題を考える。しかし、出てくるのは超常的なものばかりだ。今はそういうものが気になって仕方がない。


「お守りを貰ってからは、どうするつもりだ」


 師匠の方から話題を振って来た、俺の次の行動が気になるようだ。それもそうだ、何も聞き出せないなら、一人で色々試そうとするかもしれない。


 でも、俺も流石に命知らずではない。


「安心してください、危険なことはしませんよ。俺、霊感あるのに、15年間ずっとそういうものに近づかなかったんですよ、今更、人から聞けないからって、化け物がいそうな廃墟には行きませんよ」


「それもそうか」


 師匠は安心した顔で、アイスを一口で食べきった。


「でも、一昨日は向こうから襲い掛かって来たんですよ」


「まぁ、そういうこともある」


「師匠はそういうものに遭遇したことあるんですか」


「まぁ、あるよ」


 俺の質問を聞いた師匠は少し呆れた顔をして、答えてくれた。俺はその体験の話を期待し、師匠のことを見つめるが。


「守秘義務があるから、そう簡単に話せるわけがないよ」


 やはり、そういう話はできないものなのか。


「そのルールの話せないラインってどこですか」


「それは、あとで確認するよ」


 師匠の様子から、それは文字数が多い規約のようなものに想像できる。そう考えると、師匠の話せるかどうかを迷う様子も納得できてしまう。


「話したら、バレるんですか」


「一人に話した程度ではバレないよ、四六時中監視されている犯人じゃないんだから。でも、そのルールを破るかは別だ」


 バレないんだから、話してもいいじゃんの悪い思考を心の奥底に抑え、俺は次の疑問を口にする。


「さっき話したのは、セーフですか」


「それはー、セーフ気味のグレーなのかな、多分」


 自信のない師匠を見て、彼がルールの細かい内容をはっきりと覚えていないことを確信する。


「だから、そういう話はまた今度だ。どこまで話せるかちゃんと確認しておくよ」


 そう言って、師匠は立ち上がってストレッチをし始めた。


 嫌な予感がする。


「ほれ、せっかく道場に来たんだから、稽古するぞ」


 その予感は的中した。


 凄腕の人に稽古をつけてもらえるのは普通いいことだが、師匠の場合はちょっと違う。手加減が変な方向でうまい。傷や怪我はしないけど、終わった後の疲弊と筋肉痛が凄い。打撃も怪我はさせないのにちゃんと痛い。


 真ん中の方に歩いていく師匠を見て、俺も準備をし始める。半袖シャツとチノパンの恰好だが、戦うには問題なし。


「頑張るか」


 そう言って、俺は立ち上がって簡単の準備運動を始める。


 何年もして来たことだから、今更ビビることはない。痛いものは痛いが、師匠の攻撃を頑張って捌けばいい。


 それに、今の俺は前と違う。前世の記憶を目覚めたおかげか、あの状態、身魂合一を体験したおかげか、前より感覚も体の動きもいい。


 俺は前に歩き、構を取る。左半身を前に出し、左手は握らずに前の方に出す。


 あの状態の俺を思い出しながら、俺は深呼吸をする。


「おおう、前よりいいぞ」


 同じく構えを取った師匠は驚いた顔でそう言った。確かに、自分でもわかるくらい良くなっている。


 少し自信がついて、俺は足を少しずつ動かし、距離を詰める。


 知りたい、今の俺の拳はどこまで届くか。


 その思いで俺は一歩強く踏み出す。


 ▽▲


「ビックリしたよ、前世の記憶が目覚めたからこんなにも強くなったのか」


「はぁ、はぁ、それはわかりません」


 進歩した俺に驚いている師匠、でも、俺は床に横たわりながら天井を見ている。激しい運動の後だから、呼吸も荒くなっている。


「これは期待できるぞ。動きが前よりいい、流れるように動けている。拳も前より重いし、未熟だけど、力の流れを掴み始めている」


 今はそんな褒め言葉を聞きたくない。

 割と自信満々に戦い始め、前より体を動かせるから、戦いの中俺は色々試した。普段やらない飛び後ろ回し蹴りはともかく、いらないバク宙までした。


 誰が見てもわかる、調子にちょっと乗っていた。


 それなのに、ボコボコにされた。技は当たらないし、当たっても綺麗に流されるか、余裕で受け止められる。前半は俺に攻めさせてくれたが、後半は師匠の技を必死に捌く苦行だった。


 10から20に進歩したのに、戦っている相手は100ではなく200だった。


「はぁ、今日は、もう帰ります」


「なんだ、もう帰るのか。まぁ、いいか。俺も色々やらないといけないからな」


「すみません、ありがとうございます」


 色々師匠に頼んでしまったのに、稽古までつけてもらった。もう少し感謝の気持ちを持つべきだが、今は疲労でただただ家に帰りたい。


「明日は来るのか」


「明日は休みます」


「じゃあ、先に」


 気づけば師匠はいなくなっていた。


 マイペースな人だ。


 そう思いながら、俺は体を起こし、帰ろうとする。


「収穫はあったから、グッドなのかな。知りたいことは聞けなかったけど、身を守れそうな手段は手に入れた」


 予想とは少し違う収穫だけど、確実に一歩進んだ。


 化け物、それを退治する人、そういう世界に関わろうとする危険性を人に告げられたのに、俺の気持ちは少しも変わっていない。


「お守りだけで、普通の生活だけで満足するのが普通なのに、俺は諦めていない。俺は一体、どこを目指しているんだ?」


 好奇心、何かしたい気持ち、危険を排除したい気持ち、龍輝さんの死因を明かしたい気持ち、あとは、非日常の刺激、そして、助けてくれたあの人への憧れ、ちゃんとお礼を言いたい気持ち。


 まだ何かあるはずだ。


 自分が超常的なものを固執する理由を一つ一つ思い出し、俺は階段を下る。


 直感が言っている、逃げたら後悔すると。


 その後悔の正体を知るためにも、俺は、諦めない。危険を避けて、自分の身を守って、今度こそ、ちゃんと生きる。


 俺はお守りを握り、明日することを考え始めた。


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