第8話「新しい開始」
目が覚めると、白い天井が見える。
「快適な眠りだったな、目覚めもいい気分」
人生一番かもしれないレベルの快眠だ、いや、全人生トップレベルの快眠だ。
目覚めなのに、既に思考が冴えている。
前世は中学生の時から既に生活リズムごちゃごちゃだったから、前世の眠りを比較してもあまり意味ないけど、それほどに感覚が違うレベルの快眠だ。
それにしても、やり方次第でこうも快適な眠りを得られるとは、驚きだ。全人類が習得すべき技ランキング一位掲載確定。
「前世の夢も見た」
目覚めの約二時間前からは前世の夢を見ていた、友達と学校を抜け出して映画を見に行った時のこと、初めて外国に行った時のこと、クソのような人生の中から楽しい思い出を見つけ出して、振り返った。
いい睡眠は夢を見ないと思っていたが、充分に休めると、楽しい思い出が夢として出てくるのか。
「夏休み一日目、朝から頑張って満喫するぞ」
そう言って、俺はベッドから体を起こし、準備を始めた。
布団を簡単に畳んでから部屋を出て、俺は洗面台の前で顔を洗い、歯磨きをしている。少し柔らかめな歯ブラシで丁寧に歯を磨いている。
前世は朝の歯磨きなんてちゃんとしてなかったな。
成人して、歯医者に色々言われて、ようやく危機意識を持って、やり始めた。夏休みも宿題を終日の自分に任せて、遅寝遅起きのダメ生活をしていた。
本当前世は駄目な奴だった。
戻れない前世に悪い評価をし、俺は口内の液体を吐き出して口をゆすいだ。
「前世の記憶があると、振り返られる黒歴史が増えるな」
約27年分の前世の記憶と今の人生の15年分の記憶、足して40代。中年男性くらいの記憶量だけど、未成年の記憶と黒歴史は他人の2倍。
「まぁ、今の人生は順調だから、黒歴史そんなにないけど」
前世の全てを思い出した今だからこそ、とても不思議に思える。
前世あれほど無駄な時間を過ごし、失敗を繰り返した自分が、なぜ今回の人生でこんなちゃんと生活を送っているのか。
環境が良かったから?
確かに、前世の家庭は両親の仲が悪かったが、ちゃんと裕福な家庭だった。
父親は仕事と遊びに集中して、俺に時間を使ってくれなかったが、学費も物も与えてくれた。母親は友達との外出が多くて、父とよくケンカしていたが、ちゃんと俺を見てくれた。
あの頃は不満ばかりを抱いていたが、今ならちゃんと恵まれていたと分かる。いや、前世でも、成人してから、このことを気づいていた。
それなのに、母親には会いに行かなかった。両親が離婚した時、父親を選んだ自分には、その資格がないと思っていた。
「まったく、後悔だらけだ」
この後悔が、もう選択を間違えない心を与えてくれたのだろう。
それだけじゃない、今のお母さんが、俺が道を間違えないように欲しい言葉をかけてくれた、傍で見守ってくれた。芽衣が人は大きく変われることを示して、後ろで支えてくれた、龍輝さんは俺に強い人の見本を見せてくれた。
「人にも恵まれたな」
そう言って、俺は背伸びをして、気持ちを切り替えた。
「独り言増えたな」
前世の記憶を思い出してことで、思考がさらに回り、口に出る独り言も増えた。子供のころからの悪習慣ではあるが、改善できていない。
自分の改善点を確認しながら、俺は時計を見た。
「とりあえず朝食を食べにいくか、もう8時45分だし」
そう言って、俺は洗面台から離れ、階段を下り始めた。
リビングの方に向かって廊下を歩いていると、とてもいい香りが鼻に漂って来る。空腹を刺激された俺は少し早歩きでリビングに入ると、エプロン姿のお母さんと椅子に座っている妹がいた。
「おはよう」
「おはよー、美味しそうな香りだ、今日は何?」
お母さんのあいさつを返し、俺は今日の朝食は何かを聞いた。
「砂糖入り牛乳と、チャーシューまんと蜂蜜パンケーキ」
妹は俺が座れるように椅子を引いて、料理名を教えてくれた。
「サンキュー」
俺はそのまま椅子に座り、リモコンでテレビをつけた。
いつも通りの朝だ。
そう思ったのに、俺の胸の中には焦燥感があった。その正体を掴もうとした時お母さんがやって来た。
「お待たせー」
お母さんも席に座ったことを確認し、俺たち三人は両手を合わせる。
「「「いただきます」」」
食前の挨拶を済ませ、俺はチャーシューまんを手に取り、一口食べた。
脳に浮かんだのは、手で持っているチャーシューまんの味ではなく、現状に対する疑問だった。
いつも通りの朝食、でも、俺はいつもと違う。
昨日の夕食は何も考えず、いつも通り振舞っていた。でも、俺の中は、いつも通りの俺ではない。
ここに座っているのは前世の記憶を持った子供、いや、中身は子供とは言えないだろう。42年分の記憶を持った息子、二人がそれを知ったらどうなるだろう。
昨日の夕食も、今も、優しく接してくれている。でも、それは、俺が何も打ち明けてない状態でのことだ。
昨日ちゃんと前世の記憶と向き合って、自分を確かめたはずなのに、いつも通りの日常を過ごすと考えてしまう。
俺は荒木尋斗、しかし前世は荒井廻。前世の両親のことも昨日で全部思い出した。
俺が本当にこのまま荒木尋斗として振る舞っていいのか、荒木家の長男としてここに座っていいのか?
昨日、自分の中で、自分は自分と決着つけたつもりだ。前世を切り捨てる必要なんてないと納得した。
でも、お母さんは、妹は、周りの人はどう思うのか。目の前にいると考えてしまう。
そして、考えてしまうと、答えを得られない限り、不安と疑問は消えないだろう。
「大丈夫?口に合わなかった?」
お母さんが心配そうに俺を見た、隣を見ると芽衣もそんな顔をしている。二人は、一口食べたまま考え事をしていた俺を心配してくれた。
「いつも通り美味しいよ。でもちょっと気になることがあったから、少し考えた」
「なんか悩みがあるの?」
お母さんは真剣な眼差しでそう聞いてきた。
「その、もしも、俺に前世の記憶があったら、二人はどう思う?」
俺は、質問で確認することにした。
二人は少し悩んでから、口を開いた。
「そうねー、前世がどんな感じか分からないけど、私はヒロちゃんのお母さんだから、悩みがあったら聞くよ」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだから、気にしなくていいよ」
俺の質問に対する二人の答えは、予想通りのものだった。
それがとても、安心する。例え、予想できても、予想外のことが起きるかもしれないという不安が俺の心にあるから。
「ありがとう。実は、その、伝えなくちゃいけないことがある」
俺は真剣な顔で二人に語りかけた、二人はフォークとナイフを置いて、俺の方を見てくれた。
話すべきことだ、話さないと、隠し事をしているような罪悪感が、受け入れられない可能性に対する不安が、消えない。
だから、覚悟を決めて、全てを話す。
「昨日の帰り道、俺、変な化け物に出会って、前世の記憶が目覚めたんだ。色々思い出したんだ。それで、そう、俺は、化け物とか、色々調べたいと思っている。多分、危険なことだから、二人に相談しないといけないと感じて、意見を聞きたい、どう思う?」
速い、強く鼓動する心臓音が耳に響く。上手くまとまらない思考をなんとか言葉にして、口から押し出した。
噛まないようにするだけで、精一杯で、何も考えられなかった。いきなり全部話すのではなく、ちゃんと一つずつ話すべきだったという後悔を感じた。
恐る恐るお母さんの顔を確認してみると、悩んでいる様子だった。
今までの人生で、お母さんに否定されたことなんて、ほとんどなかった。だからこそ、怖い、前世のある俺に嫌悪を感じる母、やろうとすることを反対する母、今までと違うお母さんを。
「んー、前世と化け物はよくわからないけど、危険なことをするのは避けた方がいいと思う。でも、お母さんに何かできることがあるなら言ってね」
お母さんは心配そうな顔でそう言った。
「何があったのかわからないけど、なんかあったら言ってね、お兄ちゃん」
となりの妹も心配そうな顔をしていた。
二人とも、前世の記憶と化け物について聞いてこない。
いつも通り、優しい返答をしてくれた。
少しの安心感と共に、疑問が出て来た。
俺の話に興味も疑問もないのか?
いや、違う違う、そもそも、化け物の話と前世の話を急にされて、そのまま信じて、詳細を追及して来る人はいないだろう。
混乱していた脳がようやく落ち着きを取り戻し、二人は、例え化け物と前世の話は理解できなくても何かしてあげたいと伝えていることに気づく。
「お母さんと芽衣は、幽霊と化け物の存在は信じていないのか」
「いるかわからないけど、血液型占いとか、あまりそういう胡散臭い迷信的な話は信じてないよ」
「幽霊とかはフィクションの中だけで大丈夫だと思う」
予想通りの答えだ。俺の話は直接否定して来ないけど、幽霊は存在するとは思っていない。
あたり前だよな、日常生活で目に見えない何かを感じ取っている俺でさえ、昨日直接出会うまでは半信半疑で、幻覚とか、今の科学で何か解釈できそうなものと考えようとしていた。
「俺、ひょっとして、今の話、中二病だと思われている?」
朝食でいきなり相談したことが、さっきの話だということを思い出して、少し恥ずかしくなる。
せめて、もう少し、何か証拠を出して話せば、ちゃんと落ち着いて説明すれば、もしくはちゃんと必死に信じてもらえるように説得すれば、良かったかもしれない。
「思ってないよ、ヒロちゃんは才能ある優秀な子」
「大丈夫、お兄ちゃんはまだ中三」
真剣な顔の母と少しからかうような顔をしている妹はそう言って慰めてくれた。
全てを打ち明けるつもりで話そうとしたつもりだったが、失敗してしまった。ちゃんと伝えないと。
「嘘とかではない、本当、真剣」
「わかっているよ」
できるだけ本気とわかってもらえるように言葉にした俺に、お母さんは、温和な顔でそう言った。
「ごめん」
俺は、まだ冷静になっていなかったようだ。
家族なら話さないといけない、ちゃんと伝えないといけない、隠し事は駄目だと、そうやって勝手に義務に感じて、焦って言葉にした。
ただ、前世ある自分が受け入れられない可能性を否定したくて、何も考えずに話した。
それを二人は見抜いてくれた。
「何かあったのはわかったわ、でも、不安は感じなくていいよ、お母さんは何が起きてもヒロの味方よ」
「私も、すっとお兄ちゃんの妹だから」
話したくなったら、話せそうな時に、話せばいい、それだけの話だ。二人も、俺が無理をしてまで話すことを望んでいない。
俺の感じた不安に、二人は優しい言葉をかけてくれた。
「ありがとう、いつも、ありがとう」
俺は、感謝の気持ちを伝えた。
「こちらこそいつもありがとう」
「はい、元気出して、食べよう」
妹に肩を叩かれ、俺は再び朝食を手にとって、食事を再開した。
話さないといけない不安は、今の自分は受け入れられない可能性は、胸の中から消えていた。
不安が無くなって、いつも通りテレビを見ながら食事を進めていると、横からの視線を感じた。そのまま隣の方に目を向けると、芽衣が俺を見つめていた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
そう言われ、俺は気にしないようにまたテレビを見た。
何かあるなら、話せる時まで待てばいい。
そう思って、俺は少し心を構え、いつも通り朝食を進めた。
▽▲
「何にも見つからない」
少し絶望した声で、俺は小さく呟いた。
本当は叫びだしたいが、ここは図書館、騒音は重罪である。
「少しでも情報が欲しくて来たのに、何にもない」
書物や新聞から情報を得ようと、図書館に来た。
今朝のことで、妹に中二病とからかわれたのも理由の一つではある。あのまま家にいたら、朝の恥ずかしい早口発言が脳内でループ再生される。
一人で嫌われることの可能性を考えて、不安になって、まだ何から話せばいいかも考えてないのに、早口で前世とか、化け物とか、当たり前のように話してしまった。
「はずい」
今になって、恥ずかしい感情が暴れ始める。駄目だ、調べもののことを考えよう。
恥ずかしい記憶を脳内の金庫にしまい込んで、俺は本来の目的に思考をまわした。
過去の新聞から昨日の化け物に関連しそうな情報を探して収穫なし、超常現象や幽霊について書かれている書物を探しても成果なし。
新聞にあるのは普通の事件、本の方はホラー小説や普通なものしかなかった。
『妖怪大百科』『現代怪談事典』
他にも色々あったが、前世にもあったようなオカルトな本しかなかった。書いてあるのも一般的に知られているお話。本物の雰囲気のあるのはなかった。
あまりにも収穫がないせいで、ホラー漫画も読んでしまった。
「本当情報がない、ネットも、書物も」
そもそも見つけても、本物か区別できるかもわからない。それでも、黒魔術の本とか、あまり聞いたことがない、実際の体験に基づいていそうな怪談集とかは欲しかった。
その前に、ホラーの本がちょっと少ない。あまり人気がないのか?
「いや、前世と比べても、ホラー作品は少ないな。同じく地球で、同じく人間なのに、ホラー作品だけが少ないのは、ちょっとおかしい」
この世界は歴史とか、社会とか、前世とはちょっと違いあるけど、大体は同じ。ホラー作品が少ないのは、やっぱ原因があるだろう。
「規制が厳しいという話はよく聞く」
ホラー作品は規制が厳しいという話はネットでもよく見る。
過激な内容や暴力的な表現の影響、迷信やカルトの流行の防止、理由は色々ある。過去のカルト教団の事件や、実際の殺人事件を記録した作品が問題になったこと、背景にも色んな原因が存在するとか、動画の解説で見たことがある。
無駄に厳しい審査に対して、様々な憶測が書かれていた。俺はアダルトなものに対しての規制と同じようなものと納得していた。
「怪しい」
でも、今の俺には、むしろ怪しい憶測の方がしっくり来る。
前世と比べて、ホラー作品に対する規制が厳しい。昨日直接化け物を見た俺には、これは政府が超常的存在を隠すためにしているように思える。
「前世と違って、幽霊とかが存在するから」
超常的な存在もあるが、よく考えると、この世界は前世と違う所が大量にある。前世の記憶が目覚めた俺には、色々思いついてしまう。
「歴史とかがまず違うな」
歴史の流れがそもそも前世と少し違う、恐竜とか、縄文とか、戦国とか、一次二次世界大戦とか、大体の流れは一緒。でも、所々、前世では絶対になかった名前が出てくる。
そのせいで、前世の知識が脳に出てくる俺には歴史は苦手だった。
歴史だけじゃない、社会もそう。偉い人の名前は違うし、法律もちょっと違う。
何なら地理も違う、49都道府県とかずっと違和感があった、国の数も違う、前世は190国以上あったはずなのに、こっちは185か国。
「49都道府県とか、マジ意味わからん」
日本、前世より島が多い感じだし、最北端と最南端の島も違う。
前世の日本人がこっちに来たら驚くだろうな。
「歴史と地理より、生活の方に驚くか」
前世は2027年まで生きたが、こっちはまだ2015年。それなのに、科学技術とか、生活の便利さは前世の2027年に負けていない、むしろちょっと勝っている。
理由なら色々あるだろう。例えば、電球とかの発明が前世より早かったり、世界大戦が前世より早く起きていたり、考察したら色々ある。
歴史の流れに違いがあるなら、科学技術にも多少変化は出る。
そのおかげで、2015年でも便利な生活を送れている。
「キャッシュレスが普及しているし、サービスの無人化も進んでいる」
コンビニでも、駅でも、個人店でも、スマホでQRコードを出せば支払い出来る。現金を持ち歩く人があまりいない。簡単に支払える無人レジも多くて混まない。
シェアサイクルも前世より普及しているし、タクシーも前世のより安い。いや、ただ前世の日本が高すぎただけか。
他にも便利なところはある。食費は前世の日本と比べてちょっと安いし、スマホのバッテリーも長持ち、ゲームの画質もクオリティーも素晴らしい。
あとは、そうだ、日本なのにモザイクをかけなくていい。今まで考えてこなかったけど、前世の記憶と比べるとマジ大違い。
よく考えたら、前世の地球との違いは大量にある。
十数年この世界に生きたから、常識として馴染んでいるけど、少し考えただけで、前世との違いが色々思いつく。
まぁ、歴史と地理に違いがあったら、現代社会でも当然大きな違いが出てくる。
「超常的な要因もあるかも」
さっき俺は、ホラー作品の規制から、超常存在を隠蔽するための動きを感じ取った。ならば、他にもあるんじゃないか。
この世界で、前世とは違う点。超常存在のせいで、違う点。
「監視カメラが多い」
前世の日本と比べて、監視カメラの数が多い。治安のためにあると考えていたけど、超常存在のために増やしているかもしれない。
「警備が厳しい」
廃墟、廃校、廃屋、前世と比べて警備が厳しい。そういう所では、よく警備員がいる。それに、勝手に立ち入った人への法の処罰も前世より厳しいはずだ。
それだけじゃない、警察も違う。前世の日本の警察と違って、自動式拳銃を使用している。
そういう違いの全てが、政府が超常存在に対処するために行っているように思えてきた。
危険な場所には近づかせない、幽霊が出そうな場所に入らせない、そういう強い意志を感じる。
「なんか色々怪しくなってきた」
実は街中にいるお巡りさん全員が、超常存在について知っている可能性さえ感じてくる。なんなら、秘密組織の者がそこら中にいるかもしれない。
なんか漫画か小説の世界みたい。
俺は昨日遭遇した化け物と男の人を思い出しながら、そう感じた。
でも、昨日まで、この俺は普通の暮らしをしていた。霊感とかない他の人なんて、俺よりもっと普通の暮らしをしている。
きっと、知らないところで、こういうことはいっぱい起きているのだろう。あの男の手練な感じと慣れた事務のように解決していく感じ、そして、あの一言。
『面倒だ、この仕事も』
きっと、超常存在を解決する、組織化されたものが存在する。そして、それが、超常存在が世間に知られないように動いている。
「どうすればいいんだろう」
ネットも、書物でも、成果なし。恐れしいほどの隠蔽力を感じる。どこから情報を探せばいいのだろう。知っていそうな人を探して、聞くしかないのか。
知っていそうな、特別な人。
「人か」
よく考えると、人間も、前世とけっこう違う。
昨日のあの男の動き、人間業じゃなかった。それだけじゃない、知っている人にもいる、前世では考えられない強さを持つ人、俺の師匠だ。
木製バット、木の板、重ねられた数十枚の瓦、サンドバッグ、それらを簡単に破壊する師匠を思い出す。
前世の俺が見たら力のかけ方とか、小細工があるとか、言い出しそうだが、実際にやらされた身の俺が一番わかっている。あんなもの、素手で簡単に壊せるわけがない。
一番衝撃的だったのは、師匠が屠殺場から貰って来た豚の死体を素手で解体したこと。あれを見てわかった、師匠が人間に対して本気で正拳突きしたら、拳は胸から入って、背中から出る。
格闘漫画のキャラなんじゃないかと、ずっと感じていた。
あの人が言っていた虎殺しと熊殺しの話も、最初は信じていなかったが、今は疑えない。家に虎と熊の毛皮飾っているし、毛皮には大きな傷の跡がある。
「この世界の人間、絶対前世より強い」
今思い出したが、こっちの世界、スポーツの世界記録は前世のよりも高い。
それを確認するために、俺はスマホを取り出し、検索した。
100メートル走の世界記録は9秒02、200メートルは17秒99、陸上だけじゃない、競泳も重量挙げも、明らかに前世の世界記録を上回っている。
「マジか」
俺は左手で口を押え、驚いた声でそう呟いた。
俺が覚えている前世の記録と比べると、この記録の凄さがよくわかる。そして、この世界は、前世とは違う世界ということを、強く実感してしまう。
違う、本当に大違いだ。
時々違和感があったけど、それでも、昨日までは普通と思っていた世界。
違い探しを軽くしただけで、こんなにもある。
街中に出て、違い探しをしたらもっと見つかるだろう。
「よく考えたら、髪色とかもだ」
前世には、天然の青髪とかなかった。なのに、こっちにはいる。前世より髪色の種類が多い。前世の常識では、黒髪、茶髪、白髪、金髪、赤毛、くらいしかないのに、こっちにはもっと種類がある。
衝撃を受けた俺は、右手のスマホで髪色について調べ始めた。
メラニンは知っている、人間にある色素だ。前世でもあった、ちょっと調べたことがあれば知っている。
でも、キアニンは知らない。前世では聞いたことがない。
調べれば調べるほど、よくわからなくなる。青い色素を持つ生き物はほとんどいない、これはきっと前世でも同じだ。それなのに、こっちの人間がそれを持っている。
陸棲の動物で、背骨を持つ生き物で、青い色素を持つ人間、これに関する研究の記事が検索結果に大量に出てくる。
こっちの世界においても、普通ではないものとして、研究されている。
「もう、遺伝子レベルで前世と違うな」
驚きの連続で、頭が混乱しそうになる。
スマホをテーブルに置いて、俺は天井を見上げて、冷静さを取り戻そうとする。
白い天井を見つめ、脳みそを空っぽにした俺は、次何するか考えた。
「帰るか」
そう呟いた俺は立ち上がり、スマホをポケットに仕舞ってから、数冊の本を持って席から離れた。
本を返して、帰りはスイーツでも食べて、疲れた脳に糖分を与えよう。
そう考えた俺は、歩を少し速めた。
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