第7話「目覚め」

ついに前世の目覚め

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 汗が煩わしく感じるようになり、気温も夏らしい29℃になっている。夕陽が街を照らしている午後6時過ぎ、1人の少年が住宅街の道を気怠そうに歩いていた。


 7月21日、学校が一度終わり、夏休みに入る。学生にとっての救済の日である。

 彼にとってもそれは同じだった、交友関係以外あまり興味関心のない学校生活は彼にとって退屈の時間であり、その殆どがただの義務で作業であった。


 本来なら、学生たちがすでに家で夏休み最初の時間を満喫しているこの時間帯、彼がまだ荷物を持って帰宅中である原因は、学校の部活での居残りでもなく、友達との遊びでもない。道場で武術を習っていたからであった。


 空手のような一般的ではない、あまり知られてない拳法の為に、時間を使って汗を流す彼は少し変わった中学生だ。

 その最も変わっているところは性格などではなく、才能とその中身であった。


 7ヶ月で歩き、1歳過ぎた頃で二語文や三語文を話せるようになり、2歳半で読み書きをし始める。彼の幼少期は常に母と家族を驚かせるものだった。


 だが彼が最も家族を驚かせた才能は言葉を発したことでも読み書きでもない、見えないものを感じ取る霊的感覚と、幼子とは思えない鋭い直感と第六感、そして子供には存在するはずのない記憶と知識であった。


 それらは異常のように感じられ、不気味がられてもおかしくはないもの。だが、彼の母親は天が我が子に授けた才能と喜んだ。


 しかし、その才も発揮する場はなく、彼は幼稚園に入り、すぐにこれらは群から外れない為に、隠すべき才能と理解して、人に自分の特別な才を明かすことをやめ、隠すことにした。


 今の彼は既に中学3年生である、親しいものとの離別、友人との別れ、勉学での失敗、多くのことを経験した。


 強い人になることを目指して、偶然の出会いで入った道場で武術を学び、家に帰って学習をする、今日もそのような自分を磨く日常の一日となるはずであった。


「もう夕方か」


 少年の口から時間帯の確認の言葉が出た。 


 日が沈み、暗闇が溢れる夜が近づく時間帯であり、酉の刻と呼ばれていた時間でもある。そして災禍を蒙る、魔物に遭遇すると信じられていたため、逢魔時とも呼ばれる。


 だが、そんな呼び方の意味を現実に当てはめて、恐れる人なんていない。

 人生で数千数万も迎えるこの時間帯に特別な意味を見出して、恐れを抱く人なんて、探しても見つからないだろう。


 それでも今この瞬間、夕日を見て、もう夕方だと思った少年の脳裏から、逢魔時という言葉は離れなかった。


 いつも通りの帰り道で、何ともない風に肌が嫌悪を覚え、体が悪寒を感じ始めた。

 少年は直感した、嫌なことが起きる、この道をこれ以上進んではいけないと。十数年間正確に作動した第六感は少年にとって一番の武器だった。その感覚にしたがった体は一歩後ろに後退った。


 しかし、少年は躊躇した、もうすぐ家に着くこの場所から足を引いて、夜を迎えてどうするのかと。


 彼は下がった一歩を戻し、どうするべきか落ち着いて考えようとした。


 その当たり前の躊躇いがそれを呼び寄せてしまった。


「アッァダァ、ギィグギィィ、ゲェゲェげぇ」


 それは既に目の前に現れていた、歩いて近づいたのではない、ただ現れたのだ。2メートル40以上はあるであろう巨体が、少年を自分の影に立たせるように目の前に直立している。


 少年の目と霊感は生まれて初めて、何かを直接実体で捉えた。


 そして、その怪物は大きな手で少年の頭を包むように掴んだ。


 ***************


 考えが甘かった、近づかなければ、ゆっくり離れればいいと思った。余裕があると思った、今まで、走って逃げる必要がなかったから、今回も大丈夫だと思った。


 俺は、判断を誤った。すぐにこの場を去るように走って逃げるべきだった。


 だが、そんな決断できるはずがない、すぐ近くに妹と母がいる家があるのに、躊躇わずにそんな判断ができるはずがない。


 そんなことを考える自分の脳内は、後悔の感情と、どうにかしたい理性で満たされている。


 目の前に現れたのは、常識外の怪物。

 今までの人生で、一度も遭遇したことない、ただ遠くから感じていた不気味な気配が、実体を持って目の前に現れた。


 見上げなくてもわかる、すぐ前にいるこの化け物が、人間ではない巨体の女であることは感覚が教えてくれる。戦っても勝てない相手であることも、目を合わせたら首が吹っ飛ぶことも、体が教えてくれている。


 命を脅かす最大の不運に、先程の自分の躊躇を呪う気持ちが強くなるが、今までの人生で、一度も嫌な気配を放っている場所に近づかなかった自分の行動が、正しかったと確信できる。


 第六感が危険と判断したトンネル、霊感が何かいると感じた路地裏、俺が好奇心に負けて近づいたら、この化け物のような存在が現れたかもしれないということか。

 そんな思考が脳に過ぎる。


 目の前の巨女の化け物の腹部を見つめ、自分の鳴り止まない危機感知に神経を乱されそうになる中、化け物が手を動かしたことに気づく。


 あぁ、奴が蒼白い肌の手を上げ、俺の頭を簡単に包むように掴んだ。


「死」


 体の全ての細胞がそれを直感した。

 過去にも感じたことがあるような、思い出したくもない感覚。そう思っていると、脳は死という言葉で埋め尽くされていった。


 突然現れた、理不尽な暴力の恐怖に、全身の細胞が死を認識し始めた。


 自分は今から死ぬ、家族を置いて死ぬ。龍輝さんのように家族といる時間を失い、そして、一人で、ただ惨めに死ぬ。

 恐怖に負けて死ぬ 抵抗できずに死ぬ 

 後悔が溢れて止まらないまま、別れも告げずに、この世界から消えてしまう。


 やってくる死の惨めさを考え、身体が震えそうになる。そして、全身の細胞が一つになって恐怖に萎縮しているが、死の恐怖に対して、もう嫌だという感情が溢れ始める。


 どこからか、切実で、純粋な否定の感情が来た。


 そんなの…… や いや いやだ 嫌 嫌だ 嫌だよ 無理だ 拒否する 拒絶する 断る 受け入れるわけがない 絶対にあり得ない そんなことは絶対に嫌だ。


 この死によって起こることを想像すると、どこからか、怒りと嫌悪が噴火の如く込み上がってきたように、全身が死を受け入れることを拒絶した。

 細胞の一つ一つが、死から逃れるために力を総動員する。思うことはただ一つ、死ぬのは嫌だ。


 だから、打開策を、逃げる策を、助けを求めるための何かを、勝つための方法を、生き延びて家族に会える道を、考えなければ、出さなければ


「なんて美味しそうな子」


 悍ましい声がした、自分の頭を握っているこの化け物の声だ。


 その理解と同時に、自分の中の何かを触れられた気がした。


 次の瞬間に気づく、自分ははっきり日本語として聞こえたことを、言葉として認識できるはずのない化け物の声の意味を理解してしまったことを、コイツは自分を食べる気であることを。

 そして、はっきり言葉にされていないが、自分の魂はコイツにとって特別に美味しいものであることを、自分の何かが理解した。


 そのことに気づくと、疑問が幾つも湧いてきた。


 なぜ、俺を狙った? なぜ俺は美味しいのか? なぜ肉体より魂が?


 まるで疑問の答えを得る為、遡るように記憶が勝手に巡っていく、走馬灯のように、止まらずに流れていく。


 中学の入学、小学校の卒業、龍輝さんとの死別、可愛い妹と仲良くなった時のことを、初めてもらった誕生日プレゼントを、大きな出来事から小さな動作まで、明瞭に見えてくる、止まらずに思い出してしまう。


 恐ろしい死と直面するこの現実を無視するように、時間が止まっているように感じる程の速さで、自分の中身の記憶が全てを思い出させてくる。


 自分は何者かという疑問をよく抱いたことを、自分の中に秘める物をよく探ろうとしたことを、そして、いつも答えを出さずに終えてしまったことを…


 刻むように、記憶が鮮明に蘇る。あまり気にしないようにしていたことを、思い出さないように脳の片隅に追いやった事実を、今全て思い出して、結びつけてしまった。


 なぜ、自分には知るはずのない記憶があることを。なぜ、学んでもないことがすでに自分の中にあることを。なぜ、才能が無いという自覚があるのに簡単に出来てしまうことを。

 なぜ、時々生きる現実に小さな違和感を抱くことを。なぜ自分にこのような非凡な才があることを。なぜ自分は少し特別なのかを。


 回答を出せないようにしていた多くの疑問の答えが出てしまった。


 その答えはシンプルで、一つである。


 前世


 回答に辿り着いた瞬間、もう一つの違和感の答えに気づく。自分が気にしないようにしていた何か、さっきから感情を流し込んでくる何か、自分の中にある何か、その存在は、その名前は、


 魂


 自分の内側にあるその存在に意識を向けて、前世という確信を持って何かを求めた瞬間、膨大な量の映像と感覚、そして感情が、ダムから解放された貯水のように、止まらずに流れ込んできた。

 抑えていたものに、そこから漏れ出した一部のものから辿って、至る。スイッチを押すように、こじ開けるように、解放した。


 その衝撃で、身体の内側が一瞬震えた。


 その流れが、今の自分を満たし、納得する答えを与えてくれた。


「あれは本当に俺の前世の記憶」


 言葉は口から自然に出た、簡単な四則計算の答えを出す時のように、式を立てずに回答だけを述べてしまった。


「ゲゥえ?」


 俺の呟きに対して、目の前の化け物が情けない奇声を上げた。彼女に掴まれたら、本来声が出せないから驚いたのだろう。だが、そんなことも今は些細ごとである。


 ずっと解けなかった疑問の答えを出した今、自分はとても居心地がいいのだから。


「俺は、生まれ変わった、転生したんだな」


 前世の詳細とこの答えを出した過程について深く考えようとするも、自分の頭には邪魔な手が乗っていることを思い出す。


 目の前にも解決すべき問題が一つ残っている。


 何とか動ける体に力を入れ、両腕で彼女の指を退いて、大きな手から頭を抜け出した。


 そして、頭を上げ、さっきまで見ないようにしていた化け物の顔を拝見してみた。

 蒼白い肌に異様に長い髪の毛、大きな目に平べったい鼻、歪なパーツがその顔面に嫌悪感を誘うように配置されている。白いワンピースを着ているが、ただの化け物にしか見えない。


「やっぱ、美人ではないただのブサイクだな」


 俺の失礼な言葉が聞こえなかったように、目の前の化け物は自分の手を見つめながら、首を傾げていた。

 おそらく自分の力に逆らって、獲物が声を出したことも、手から抜け出したことも、彼女の理解と予想を超えたらしい。


 そんな間抜けで、気色悪い化け物を見て、自分のやるべき事を思い出す。


「こんな住宅街で逃げるのはちょっと無理そうだ。高身長ブサイクさんとは戦うしかないかな」


 侮辱の言葉を意に介さないように、化け物は既に俺を見つめていた、顔も戸惑った間抜けな様子から、怒りに切り替わっている。隙のない、殺意に満ちた様子だ。俺を獲物ではなく、敵と認識したコイツは、その身の力の全てを引き出そうとしている。


 常人なら恐怖で固まって動けるはずのない威圧感、それが全身に降り注いてくる。


 だが、そんなのものも今の自分には取るに足らないこと。体から湧き上がる高揚感、そしてそれを抑え込める冷静さが今の自分にはある。

 今まで経験した絶好調や、スポーツのアスリートたちが言うゾーンなどを、さらに超えた感覚。


 前世の全てが流れ込んできた瞬間、俺は何かに辿り着いたのか。


 こんな不思議な状態になった原因はきっと、自分に対する認識を変えたことにある。


 今まで他人事のように感じた記憶を異物としてではなく、自分の一部と認識して、魂から全てを受け入れたから。

 逃げることをやめ、迷いと煩悩を棄て去り、自己に打ち克つ、言い方なんていくらでもあろう。これはきっと小さな悟りを開いた自分へのご褒美だ。


 まだこの状態を把握しきれていないが、問題はない。この状況をどうにかできる万能感が満ち溢れている。


 そんな思考を巡らせている間、殺意を剥き出しにしている化け物に対応するために、体が自然と構えを取った。


 左半身を前に、両足を前後に、自然な位置に配置する。重心を程よい程度に足に置き、足指は大地を掴んで自由自在に動けるように意識する。

 左腕を肘を突き出すように前に出し、障害物となるようにして敵の狙いを狭め、攻撃にも対応できるようにする。右腕はいつでも攻めができるように置いて、拳を適度に握りしめる。


 道場で数えきれない程、叩き込まれた構えだ。その構えを、今の自分は未だかつて無いものに仕立てあげている。精密に、的確に、至高に近いほどに。


 今の不思議な状態の詳細を探る前に、解決しないといけない問題に向き合おうと俺は決心する。


 戦闘のための構えを取った、ならば次にすることはもう決まっている。


「例え今日が俺の命日になるとしても、お前の顔面に一発叩き込んでからぁ、えっ?」


 覚悟を決めて、宣戦布告のセリフを吐き出している途中で、間抜けな声を出してしまった。


 その原因は、目の前の化け物が突然風船のように破裂して消えたから。


 そして、化け物の立っていた場所の後ろには傘を持った男が立っていた。

 考えるまでもない、この男が化け物を消した。簡単に、一瞬で、綺麗に消したのだ。


「凄い」


 思わず口から称賛の言葉を出してしまった。


 今の状態の自分にはわかる、一切動きが見えなかったとしても、あの化け物をいとも容易く消し去った業の凄さを感じ取れる。


 そして、それを成し遂げた技を使った男の存在にやっと動揺し始めた。


 自分にとっての規格外の強さであることは感覚が教えてくれる。

 だが、長年解くことができなかった、霊異を退治する人がちゃんと存在するのかという疑問の答えが今、目の前にいる事実の方が自分にとっては、驚きであった。


 幽霊が、怪異が、超常存在はさっきこの目で確かめた。今まで直接見たことないから、存在を疑っていた。でも、何かがあるのは感覚が教えてくれた。

 その何かを退治する人については、知識も、感じた経験もない。


 自分と同じように目に見えない何かを感じ取れる人が、この世にいることは心のどこかで確信していた。自分だけが特別とは思っていなかったから。

 そして、目に見えないなにかがあるなら、それをどうにかする人もいるんじゃないかと、考えた。


 実際、感じた何かの気配が急に消えたことは何回もあった。まるで、何者かが消しように。


 しかし、テレビでたまに出てくる胡散臭い霊能力者や、明らかにCGで作られたホラー動画は見ることがあっても、霊たちの存在を退治、認識する本物の存在は情報さえも一度も触れたことがない。


 目撃情報がないくらい数が少ない可能性もある、でも、それだと不自然だ。ただ学生として生活を送っている俺でさえ、何かを感じたことは何回もあった。何かをどうにかすべき存在も一定数いるべきだ。

 そして、ネットなどが発達している現代で、情報がないのはおかしいと思った。


 秘密組織のように隠れているか、もしくは政府に隠蔽されていると可能性として一番ありそうと考えて、陰謀論で片付けてしまった自分の疑問を、この男なら答えてくれると考えると、動揺と喜びが消えない。


 何を聞けばいいんだ、何を最初に言うべきだ、挨拶か、それとも…


 今までの人生で俺が感じてきた何か、さっきの女の化け物の正体、それが本当に幽霊か、妖怪か、もしくは宇宙人か、知りたいことを、この人なら教えてくれると考えると、期待が止まらない。


「面倒だ、この仕事も。」


 男の最初の一言の声は他人を拒絶するような冷たく感じ取れるものだった。だが、どこか親しみのある声だった。


 男の声の感想を心の中で述べていると、男が目線をこちら側に向け、歩いて来た。

 動揺する自分は最初の言葉を必死に考えていると、既に目の前まで来た男が自分の頭に手を乗せた。


「あの?」


 化け物の手とは違い、ちゃんと人間の手である。頭に乗っかっている左手の反対の男の右手には深紫の傘が握られている、時代劇やゲームで見る和傘という種類の傘なのだろう。


 珍しい傘に気を引かれていると、肉体を何かが通り過ぎる感覚が起きた。


 その感覚の正体を導き出そうとした瞬間、男が再び口を開いた。


「心神安寧、保命護神、眠れ。 謹請す、悪しき夢を忘れ、日常に戻れ。」


 うまく聞き取れなかった、男が唱える呪文と共に、体が眠気に襲われた。まるで体が眠りを求めるように、静かに瞼を閉じてしまった。

 沈みゆく意識の中、最後に何かを思った。


 願わくばこの記憶を忘れないようにと。


 △▼△▼△▼


 重い瞼を開き、夕日の橙色の光が目に入る。


 自分は深い熟睡から目が覚めた、そして目の前の変わらない景色が、その眠りが短いものだと教えてくれた。

 短くも深い眠りのおかげなのか、体には疲れの一片もなく、朗らかな状態であった。体を動かして周りを見渡した。


「俺は何をしていたんだ」


 声に出したその疑問の解を出すために、記憶を呼び覚まし始めた。


 学校が終わり、いつも通り道場に行き、鍛錬をした後、実戦で容赦のない師匠にボコボコにされて、帰宅した。

 記憶の映像の回想が帰宅まで辿り着いた時、忘れる筈のない濃厚で重要な体験を掘り起こした。


「俺はあの生理的にキツイ顔の化け物に襲われて、それを切っ掛けになんか覚醒して、戦おうとした瞬間に、化け物が傘を持った男に倒された」


 化け物に遭遇したり、前世の記憶を完全に覚醒したり、情報量しかない記憶を自分の中で消化しようとした。


 あの化け物は一体何者なのか、前世の記憶に目覚めた自分のあの状態は何なのか、あの傘を持った男は誰なのか、疑問は溢れるばかりだ。


「そういえば、俺が眠ってしまった原因は、あの男に掴まれて変な呪文を唱えられたからだな。方法について考えても仕方がないとして、なぜ、言葉も交わさずに急に俺を眠らせる必要があるんだ?いや、本当に眠らせただけなのか?」


 男が化け物に遭遇した俺を眠らせる理由について考え始めた、眠っている間に何かされていないか、普通の人なら少しは抱いてしまう不安を僅かに感じながら思考を進める。


 手で体中を触り、ポケットの中の物を取り出した。


 今、あの不思議な状態がなくなってしまったのは残念だが、自分の体は異常なし。


 ちゃんと作動するスマホを見て、俺はさらに悩んだ。


 普通に考えて、化け物に遭遇した中学生を眠らせてすることは何だ。

 何か得ようとするのは違う、自分はちょっとした才を持つ以外何も特別なものを持っていない、所持金も数千円程度で、漁られた形跡もない。


 俺の何かを変えたか、何かさせようとしたのか。


 化け物退治する人が、化け物に襲われた中学生にすることは何かと考えると、化け物と事件の黙秘をさせるという答えが出る。


 事情聴取もすべきかもしれないが、後始末の方が大事だ。


「化け物に遭遇したら、普通は助けを求めたりして、騒ぎを起こす。なんなら動画上げて再生数稼ぐ人もいる。ああいう化け物が一定数いるとして、そういう騒ぎが増えると影響も大きくなる。

 だけど、インターネットが発達しているこの社会で、そんな幽霊や妖怪がリアルで存在するものとして認知されていない。存在するものが無いものとして扱われているのは、隠されているということだ。あんな化け物を隠すためには、ただの情報の封鎖以外にも、騒ぎの要因となる目撃者や死傷者を減らすようにしないといけない」


 顎に手を当て、俺は分析を始めた。


「なら、男が俺にかけたあの魔法のような、術のようなものは、検査か、何かしらの精神を落ち着かせるものや治療行為と考えてもおかしくはないな。

 だけど、肝心の俺に黙秘を求める話も警告も何もしていない。宇宙人や化け物が出る映画でも脅したり、契約書とかサインさせる展開が多いけど、中学生一人程度が化け物に遭ったと言って騒いでも問題にならないと考えたのかな。」


 映画のシチュエーションに当てはめ、考え始めたが、もう一つの可能性に気づく。


「いや、すでに暗示や催眠とか掛けている可能性もあるか、こういう時、映画とかでは記憶操作とかがよく使われている」


 口から出た言葉が途切れた、気にも留めなかった小さな違和感の正体が分かった。


 あれほど濃厚な体験を思い出すのに妙に時間を掛けてしまったのは、男の仕業だと直感した。


 おそらく、化け物に遭遇した記憶を思い出せないようにしたのだろう。

 映画でもよく見る展開だ。記憶を削除したり、捏造したり、書き換えられるライトが最初に出てくるけど、魔法とかで記憶を操作する作品もある。


 だけど、あの状態の自分にはあまり効き目がなかった。


 脳から血管までの体の細部、自分の魂の形状と性質さえも感じ取れる、身と魂が一つの存在としてまとまったあの状態の自分。高揚感と落着きが合わさって全能感さえ感じるようになっていた。

 あれなら精神と魂に与えられた影響をほぼ無視できていたのだろう。


 実際化け物の金縛りみたいなやつにも抵抗できた。


 自分の掌を見つめ、あの状態の自分を思い出そうとしてみる。


「駄目だ、あの感覚は忘れてないけど、成り方は流石に掴めていないな」


 当然な事に少し気分が落ち込む。


 奇跡の再現を期待してしまった自分がいた。世の中の上手い話はそう簡単に行かないのが普通、やはり人間は地道な努力と自己分析に力を入れるべきだ。


 考えるべきことがあまりにも多いから、回想と思考に耽っていると、一番重要なことは思い出した。


「やっべ、夕飯の時間だ、さっさと家に帰らないと。化け物に遭っても、家に帰ったら夕食だよ」


 足を動かし、家に向かって全力で走り始める。


 化け物の事とか、前世のこととか、飯食ってから考えればいい。そんなことより、今日の夕食の方が気になる。


「うん、カレーが食いたい気分」


 △▼△▼△▼△▼


「排骨にカレー、美味しかった」


「お兄ちゃん、今夜は何するの?」


 質問しながら抱きついてきた妹を見て、なぜか最初の無言で冷たい彼女を思い出し、変化の大きさを感じる。


 本当、一日10文字くらいしか話さなかった時とは大違い。今は当たり前だけど、昔の芽衣こんなに話かけてくることはなかった。


 さっき人生の走馬灯を見たせいか、色々思い出してしまう。


 そして、なぜか今日の妹はいつも以上に懐いてくるような気がしてくる。


 この前は、お兄ちゃんは大好きだけど、距離感を気にしないといけない年齢になったからと言って、抱きついてくる回数をちょっと減らした程度の小さな変化を見せたけど、今の妹はそんなことを完全に忘れている気がする。


 急な心情の変化に原因を探すとなると、難しいが、何か変わったことがあると考えると、今日あの化け物に遭遇したことだ。


 妹はそれについて何か感じ取ったのかもしれない、自慢の優秀な妹だから。 


「我が妹よ、お兄ちゃんはこれから部屋でとても重要なことをする。邪魔してはいけないから、母と映画でも観てくるんだ。」


 妹の頭に手を置き、壮大な使命を語るように大袈裟に語りかけた。妹は俺を見上げて、一拍を置いて返事した。


「わかった」


 珍しく素直に引き下がった妹を見て、彼女が何かを察してくれたことを確信する。


 昔から何でもすぐできるようになる妹を見ると、彼女はきっと特別な才を持った天才だと思っていた。その考えは今も変わらない。

 そして、自分はいい妹を持った、恵まれた兄と思う気持ちも、今も変わらない。


「芽衣、愛してるぜ」

「私はもっと愛してる」

「母さんも愛しているわ」


 自分の愛の言葉にソファに座っている妹と母も、そのまま愛の言葉で返してきた。


 自分から言ったのに、少し恥ずかしい。


 照れ臭くなってしまう気持ちを堪え、俺は手を振ってから階段を上った。その場所にいたらまた長話してしまうだろう。


「懐かしい我が部屋、帰って来たぞ」


 台詞を吐きながら扉を開き、いつもと変わらない部屋に足を踏み入れた。


 帰宅してそのまま夕食を食べたから、リュックもまだ置けていないし、荷物の整理もまだできていない。


「とりあえず、荷物を整理して、夏休みの課題処理の日程と夏休みの予定を立てるとこから始めるか。その後に調べ物でもしよう。」


 カバンの本とプリントを整理して、カレンダーアプリを開いたスマホと手帳を机の上に並べた。

 課題とやるべきことと日課をリストにまとめて、順番に並べる。


 国語の読書感想文に課題のプリント20枚、数学のプリント15枚、英語の問題集の25ページ、社会の問題集25ページに教科書40ページ分のまとめノート作成、理科のプリント10ページに自由研究、家庭科のプリント2枚、美術の絵1枚に習字5枚


 学校の夏休みの宿題はこれくらいだ。


 数日かからずに終わらせられる量だが、美術の絵と自由研究の中身は考えないといけない。読書感想文は気になった本で適当に800文字書けば終わるが、絵と自由研究は少し真剣に取り組みたい。


「霊的な絵と研究でも作るか、丁度そういうのを調べる予定があるからな」


 今日の体験で、俺は完全にあの世界に興味を持ってしまった。


 知られていない化け物、それを退治できる人間、それらを隠そうとする存在、どれもが自分の好奇心を掻き立てるもの。


 だがこの好奇心は毒の蜜にように危険で誘惑的だ。

 “好奇心は猫を殺す” このことわざがあるくらいだ、迂闊にこの欲望に身を任せると滅びの道に行くのは明確なこと。


「気になっていたことの裏に、超常現象とかが絡んでるかもしれないと考えると、調べたくなるこの気持ちを抑えるのは難しいな。危険とは思うけど、知りたいことがあると気にしないのは無理だし。せいぜい慎重に行動することを心掛けるようにするしかないかー」


 手を頭の後ろに組みながら、頭の中で思考をまとめる。


 自分にとって一番必要なものは情報だ。昔から目に見えない存在を感じ取ることが多い自分は、超常現象について調べることがよくあった。


 今まではあるかもしれない程度の気持ちで調べていた、当然何も見つけられなかった。しかし、確信を得た今、結果は違ってくるかもしれない。


 結果と行動というものは考え方一つで左右される、超常的存在が実在するとわかってる今なら、何かに辿り着くかもしれない。


 だけど、その前に宿題の終わらせ方を考えないと。


「とりあえず国数英社理のプリントを終わらせて、習字をさくっと書いて、あと家庭科のプリントもだ。そしたら、調べ物しながら、絵と自由研究の内容を考えよう。読書感想文は夏休み中で読んだ面白いもので書けばよし」


 学校の課題の終わらせ方は大雑把に決まった、あとは夏休みの過ごし方などの予定だ。


「道場は来られる日に来ればいいとあの暴力師匠に言われたからな、いつも通り週2くらいで行くとしよう。体調と気分次第でもっと行ってもいいかもしれないけど、それじゃあ、実戦ばかりで体が持たないな。家族で遊びに行く日とかもあるから、そこらへんも考慮しないといけないな。」


 夏休みの予定の想像図の大体を脳内で組み立てた。それをスマホに入力しながら、別のことを考え始めた。


 明日から始まる夏休みはいつも通り日常で、少し違う夏休みになるだろう。

 超常存在に遭遇し、それを調べようと知らない世界に踏み入ろうとする自分の行動によって、今までの夏休みと変わってしまう。


 いや、もっと根本的な違いがある。そう、今日の経験によって起こった自分の心境の変化。自分という人間が少し変わったこと。


 あまり考えないようにしていた、自分の特別さ、自分の異常さ、自分の歪み。

 家族に会いたい一心で帰宅した時も、食事の時も、考えないようにしていた。落ち着いて整理できるようなことではないから。


 だけど、1人になっている今なら、向き合えるはず。


 そう思い、化け物と戦うために一度打ち切った思考を、再び開始させた。


「俺のように、前世の記憶がある人は他にいないのかな」


 前世の記憶なんて変なものを持っている人が他にいないか、疑問を口に出した。


 化け物の存在や男の存在、もっと気になるものがあるはず。それでも、口に出た最初の疑問はどこか虚しい質問だった。


 どこに向かって問うているかもわからないこの質問には、答えを求める気持ちは込められていない。あるのは、悩みを理解してくれる共感者を欲している、助けを求める声だ。


 戦いの時は別のことに集中し、不可思議な状態で高揚感が満ちていたせいで、マイナスな思考も感情も出なかったが、今になって、前世の記憶に対して、受け止め方を探さないといけないほど、気持ちが落ち着かないようになってしまった。


「そりゃ、昔から脳に知識が勝手に出てきたり、知らない記憶が見えたりすることがあったけど、前世の記憶が今になって覚醒するとか」


 今日あの化け物と遭遇して、前世の記憶が完全に目覚めた。


 荒井廻という男、もう一人の自分を、思い出した。


 深く全部を思い返してはいないが、その大体を思い出してしまった。あの時は、熟考する暇も隙もなかった。だから、今思い出して、気持ちと感情に乱れが出てる。


「なんで、今になって思い出すんだ」


 荒木尋斗として15年生きて、今更前世を思い出す。動揺しないわけがない。


 転生するなら、普通は、生まれた最初から記憶を持つだろう。


 もう変に正体不明の記憶が脳に浮かぶことはなくなるが、まとまって現れた前世の記憶について、俺は向き合わないといけない。

 それができれば、もう悩む必要はなくなるはずだ。


 そう思い、再び手を頭の後ろに組みながら、考え始めた。


 自分という存在と、前世の記憶について。荒木尋斗として生きた15年間の記憶を思い出して、考えた。


 俺は、昔から、常に自分が普通ではないことを気にしていた。


 生まれた時から、見えないもの、他人には感じ取れないものを感じ取れた、色々普通じゃないことが出来ていた。

 これは別にいい、世の中には望まない何かを持ってしまった人なんて多くいる。

 それを活かすも殺すもその人次第、模索しながら進んでいけばいい。だけど、記憶と存在が他人と違って特別なのは


「はぁー」


 溜め息を吐きながら、机を蹴って回転チェアで一回転した。深い溜め息で自分を落ち着かせ、再び思考を始める。


 記憶と存在が特別、言葉を並べてみても非常に意味のわからないことだ。

 なぜこんな言い回しをしたんだ、俺は。


「記憶と存在、一番悩んだものだからか」


 化け物とか、幽霊とか、霊感は今日確かめることが出来た、答えはもう出た。だから、一番気になったものを考えてしまう。


 記憶と存在が違う


 存在が特別だけなら、まだわかりやすい。

 例えば出身、両親、立場、自分の存在を形作る変えられない何かが他人と異なって、それに悩むことなんて程度の違いあれど、多くの人が経験したことがあるだろう。


 記憶が特別 これを感じ取れる人なんてそうはいないだろう。

 現実味のある例を挙げても、記憶喪失者くらいしか出てこない。付け加えるなら、多重人格で記憶が混同している人とかも例に挙げられるかもしれない。


 何か群衆と違いを持つ人の例を考えて出してみた。

 子供の頃も、自分を異常と悩んでいた時はこんな風に考えていた。何かわかりやすい例を出して、自分を説得しようとよく考えていた。


 でも、何かが違う。俺が気になっていたものは、悩んだものは、もっと確かな形で、どこかにある。


 昔の自分を思い出し、そこから、自分の感情を解決できる答えを見つけようと、再び考え始める。


 特別と異常はそうは変わらない。他人との違いを悩んでも、自分なりの付き合い方を見つけるしかない。多くの人がそうしてきた。

 だけど、今日までの俺にはできていなかった。ただ、見ないように、封じ込めただけだ。


 自分が自分の中にあるはずの無い記憶が存在している事実を、はっきりと自覚したのはいつだろう。


 4才、5才?はっきりと答えが出た時がいつかはもう覚えていない。


 最初は当たり前と思っていた、人より早く読み書きできても、あの頃の自分はただの赤ん坊に過ぎなかった。既視感のあるものでも、新鮮で新たな体験と体が記憶していった。


 だが、時間が経つにつれて、それは変わっていた。


 初めての体験に既視感を覚えるのも、生まれながら知識を多く持つのも、読み書きの学ぶ過程を飛ばして出来てしまうのも、普通ではない、異常なことだと気づいてしまった時、自分の中にあるものが突如怖くなってしまった。


 異常と気づいた途端、幼い自分は平凡になろうとした。感じるものや勝手に出てくる記憶や知識が幻覚ではないかと疑ってしまったこともあった。


 だが、幻覚で勉強や学習をこなせるはずがない。悩んだ自分を見た母がくれた言葉で、これは生まれた時からついてくる才能だと気づいてしまった。


 しかし、才能も望むものでなければ呪いと変わらない。


 学んでも無い字を書き、存在しない地名と偉人の名を口にして、自分には別の名前があると現状と合わない事実を感じてしまう。

 これらの影響をもたらす記憶を、異物と感じたことなんて数え切れない程あった。


 この記憶の正体なんて、自然と仮説立てて、正解に辿り着けられるものだった。

 偶然自分の中に入り込んだ他人の記憶、蘇る前世の記憶、未来から届いた自分の記憶、それっぽい答えは出せたはず。夢幻の偽りの記憶と片付けても良かった。


 確かに、考えたことはあった、思考もした、悩むこともあった、でも答えに辿りつかなかった。

 きっと、無意識に答えを出すことを拒否したのだろう。式を解く過程を記入するも、解答欄は空白のまま。


 気にしないようにしていても、ずっと疑問は俺の中にあったんだ。


 だけど、俺はこの記憶を恐れた、怖がった、受け入れずにいた。結果、気にしないように自分の奥に押し込んだ。


 消せずに、見て見ぬふりしかできなかったから。


 なぜそうしたのか?

 向き合う勇気がなかったのか?あぁ、幼い頃ならそうだったかもしれない、だが、勇気なんて成長する過程で手に入れるはずのものだ。


 向き合うのも、完全に捨て去るのも、勇気である。


 なら、子供の頃出した回答を、そのまま信じ続けていたのか、俺は?

 そうかもしれない、そうしてしまうほど、自分の中にあるものは、普通ではなかった。


 自分の掌を見つめ、記憶に対しての、子供の頃の感情と認識を思い出す。


 そう、これは、拒絶しきれないものだった。


 本当は自分のものかもしれないものを、バッサリ切り捨てられるなんてできるはずがない。

 ましては、それは過去の自分の思い出で、生きた証で、かけがえのない記憶かもしれない。


 そして、正直に受け入れられるものでもなかった。


 本当は自分のものではないかもしれないものを、素直に受け入れることなんて簡単にできるはずがない。

 ましてや、それは今の自分を変えてしまい、別の存在にして、大切な人に愛された俺を消してしまうかもしれない。


 今日のあの時まで、自分は答えを出せずにいた。全身の細胞が死に向き合って、初めて自分は向き合って答えを出した。


 記憶には嫌なものも、楽しいものも、否定したいものも、肯定したいものも、誕生から死去まで、1人の人生に詰まっているべきものの全てが入っている。


 例え、それが自分の前世の記憶でも、ただの見知らぬ他人の記憶でも、気安く受け取っていいものではないと過去の自分は思っていた。


「怖がっていたんだ、自分が変化してしまうことを、愛されなくなってしまうことを」


 自分が恐れていたであろうものを、口に出してみた。


 それは、至極当然のものだった。

 人間は認識と記憶で自分を形成している、1人の人間に彼の生きていく人生の記憶以外の、何か別の記憶を入れたら、変化と影響をもたらすことなんて当たり前だ。


 それが前世という記憶だとしても。


 受け入れてしまったら、俺が前世の荒井廻か、今の荒木尋斗か、わからなくなってしまうかもしれない。

 他の何かになってしまう可能性もあるかもしれない。


 そう思っていた。


 当たり前の思考だ、きっとこれが一番怖かったんだろう。

 正直幽霊とか感じたりする霊感とかそんな怖くなかった。今日まで何かの被害にあったわけでもない。


 自分が悩んだのは、記憶と存在が普通じゃないと一番気にしたのは、幼い頃、自分が母親の子ではないと感じて怖くなったから。


 そうだった、思い出そうとしなかった。


 幼い時、周りの子と違うのは、とても気にしていた。それでも、家が、お母さんがいれば問題はなかった。何があっても、お母さんの子と胸張って言えたから。


 でも、ある時出てきた記憶が、それを壊した。漢字でも、数字でもない。


 知らない人の名前、知らない人の顔、そして、自分には、別の家が、別の親がいるという漠然とした感覚が出て来た。


「自分は、この家の子ではない、お母さんの子ではない、本当は別の誰かじゃないかと、あの時の幼い俺は、思ってしまった。そして、怖くなって、自分は荒木尋斗と自分に言い聞かせた」


 その時のことを、俺は思い出そうとしなかった。


「当たり前だよな。あの時は、母親が、家が、俺の全てだった。正体不明の記憶が、知識が、別の家がある、別の親がいるって脳に出てきたら、ただ、怖いだけだ。思い出したくないと思ってしまう」


 きっと、これが、俺が前世という答えにたどり着けない、最初の要因だったんだろう。


「正しいんだろうな、幼い思考で、処理できそうなものではない。思い出したところで、きっと、どう向き合えばいいか、あの時の俺にはわからなかった」


 ひょっとしたら、思い出せなかったのは、無意識に自分を守ろうとしたからかもしれない。脳みそが耐えきれないと判断したかもしれない。


 生まれた時から、前世の記憶を持っていたら、俺はきっと拗れただろう。


「荒木尋斗として生まれた俺だけじゃない、荒井廻の俺もきっと怖くて、嫌だったんだろう」


 前世の自分を思い出して、俺は再び口を開く。


「あれだけ、転生とか言っていたのに、俺は死んだ後のことが怖かった」


 確かに、次があるのはいいことだ。でも、終わりが見えないというのは、時に残酷だ。


 記憶が死によって終結しないことがあると知って、畏れる感情があっても普通だと思う。


 そして、次に来た事で、前に戻れない一方通行と知れば、後悔もする。


「死んで、次が来て、前世のことをやり直せなくて、後悔だらけなのに、次に向き合わないといけない」


 生まれた時から、前世の記憶があったら、俺は、今のお母さんと簡単に向き合えなかったんだろう。


 前世の母と、ちゃんと向き合えずに、死んで、親孝行ができなかった荒井廻には、不安しかなかったんだろう。


「次は上手く行けばいいという期待は、常に次も失敗するかもしれないという不安とセットだからな」


 思い出にはいい体験があっても、捨てたくなる記憶は付きもの。

 だから、人生の終点と思っていた死でも、捨て切れないことがあると考えると、自分のようにゾッとしてしまう人も多いはず。


「それでも、生きるということは、それらを乗り越えていかなければいけない」


 避けられない恐れや心配に対して、回答を口にする。


 例え、死が終わりではなくても、今生きる自分に過去の亡霊の自分が追いついても、捨て切れない嫌いな自分があったと知っても、自分の脳に他人の記憶がぶち込まれても、常識を超える恐怖が人の身に降り注ぐことがあると知っても、進まないといけない。


「いつ死ぬかわからない、失敗と思ったら成功する、終わりかと思ったらまだ次がある、それが生きるということを、生きている間に思い知らされる。そして、進む」


 俺たち生き物は、生きるための機能を備え、生きるための欲望を持ち、死と恐怖、絶望と嫌悪、敵と障害と戦える勇気と、選択を決断できる思考と心があるから。


「一回全部受け入れてみないと、進むことなんてできない。忘れられない過去、避けられないことからずっと目を背けても、何も解決しないし、恐れるものの中身を全部見ずにして、否定できるはずがない」


 ただ怖くて逃げることしか出来なかった幼い時の自分、次がやって来たのに踏み出せなかった前世の自分。


 子供の頃、幼稚園の時には難しかったかもしれない。でも、成長した自分には出来たはずだ。もう少し早く、受け止められたはずだ。


「幼い頃の思考に引っ張られて、中学まで悩んでしまった。結局、俺がやるべきことはただ一つ、とりあえず一回記憶を開けて見ることだった」


 その判断を下せずにいた、馬鹿な自分を笑うように、小さく吹き出した。

 右手で自分の顔を叩き、目を塞ぐように手を顔に置いた。


「既にあるものと過去をどうしようが、俺が俺である事実が変わらない。なら、変化を恐れて、愛されなくなってしまうなんて馬鹿なことを考えるより、愛してくれると信じて、百倍愛し返すように、突っ走れば良かった。」


 なんとなく、わかっていた。


 それが、恐らく自分という存在の、自分という魂の、この身体で生まれる前の、ある男、いや、愚かな自分の生きた人生の記憶であるということを。


 そして、過去の自分がそれを拒否しようとしていた理由は、変わるのが怖かったとか、どうなるか分からないから不安とか色々あるが、もう一つシンプルな理由がある。


 あまり上手くいかなかった人生を、黒歴史を忘れたかっただけだ。だが、結果は捨てたかったものを、捨てきれずに、ゴミ屋敷のように仕舞っていた。


 そう、俺は、新しい自分で、違う自分で、生きて、愛されたかった。

 今日まで、その理由すら、気付こうとしなかった。


「結局、ダメな自分も自分の一部だ。都合のいい欲望が前の自分を忘れようとしても、魂と俺という存在がその愚行を拒否する。

 俺がこうして、頑張って生きようとするのも、あの失敗だらけの人生が、もっと楽しく、後悔がないように生きたいという心をくれたから。」


 失敗を味わって、次こそ成功しようとした人間が、次のチャンスを与えられた時、前の失敗の記憶を捨てられるかという話だ。


 容易くできるはずがない、失敗の経験から学んだものを、失敗という部分だけ切り落とせるほど、人間は器用にできてない。


 簡単なことだ、馬鹿な自分を振り返って、反省して次に進めば良かっただけの話だ。


 嫌な部分が自分の中にあったとしても、自分という存在はもう確立している。揺るぐことを恐れて生きることを、一度死んだ人間がしてどうする。


 前世の自分は不器用だった、馬鹿だった、親の仲を取り持つこともできず、途中からろくに勉強もせず、ただ自堕落に落ちていくだけだった。

 だから、今回は後悔のないように生きる、生きて死を迎える時、良かったと言えるようにする。それだけの話だ。


 この答えを、今日まで出せずに、無意識でも避けてしまっていた。


 それが、化け物の手を借りて、自分を食おうとした気味悪い存在がきっかけで目が覚めたと考えると、何かに後押しされてやっと動いた自分に腹が立ってしまう。

 だが、これでも、答えに辿り着くことができた。



 あぁ、本当に良かった。



 今、自分の前世との向き合いにこれ以上悩むことはないと考えて、俺はほっとした。


 気持ちの整理をして、自分を見つめ直したおかげか、心に残っていた小さな曇りが消えて、スッキリした気分になった。


「やっと、スッキリしたよ。幼い頃の考えに囚われるとか、過去の自分に目を背けるとか、しても何も変わらないのに。今日になって気づくとは、あの化け物に感謝しないといけないかもな」


 そう言いつつ、2メートル40を越える巨体とその顔を思い出すと、背筋に悪寒が走る。


 脳に浮かんだ化け物の姿はまるで、人間の嫌悪と恐怖を誘うためだけにできた容姿だった。


 そういえば、あの化け物が俺を襲ったことで、前世の記憶が完全に蘇って覚醒したけど、よく考えると、その原理をいまいち把握できていない。


「なんで、今日はあんな簡単に記憶を思い出せたんだ」


 死の境地に追われた自分が走馬灯を見て、自分の中のものを掘り返そうとしたのは自分の判断によるものなのは、間違いない。死を直面し、全身の細胞が統一して、全て向き合おうとしたのも間違いではない。


 だけど、あの鮮明に魂から直接記憶を見てるような感覚は、自分の力だけでは説明できないと思う。火事場の馬鹿力もあるかもしれないが、前世の記憶をあの一瞬で、あそこまで鮮明に認識できたのは不思議である。


 他にもきっかけがあったはずだ。


 肉体と前世の記憶の仕組みをちゃんと理解していないが、直感がそう呟いている。


「あの化け物が持つ力に影響された可能性が高いな。あいつ、俺の魂を食べようとしたし」


 魂という言葉が口に出た瞬間、分かってしまった。


 確か、あの時一瞬体の中を探られたような感じがした。


「そうか、あいつが俺の魂を捕捉し、俺も自分の魂に対して意識を向けて意識したから、あーも簡単に覚醒できたのか」


 そして、俺は記憶の源流を思い出す。


 そうだ、魂だ。前世の記憶を掘り返したのは、脳からではなく、魂からだ。あの化け物に襲われたことで、初めて意識して魂から記憶を読もうとした。


 そう考えると、前世の記憶は、脳ではなく、魂から出るものなのか。


「人間が魂を意識して生活することなんて普通ないからな、そのきっかけを作ってくれたあの化け物、運命の相手なんて言いたくないが、本当に奇遇だった」


 あの化け物との遭遇は非常にいい経験となった、収穫があまりにも多いから、ただの偶然とは思えないようになってくる。

 だが、何か黒幕がいるなどの陰謀論を繰り広げても、証明できるほどの知識も力もない今、深く考えても意味はない。


「ふー、なんかスッキリしたな。前世の記憶を思い出した余韻に浸るのも、前世のことを忘れないように書き起こすのもやりたいけど」


 それより明日から始まる夏休みについて考えないといけない。


 俺は姿勢を直して、再び予定表を見た。


「明日からは、数日で宿題を終わらせられるようにして、それからはいつも通り、道場で鍛錬、家族で休みを満喫、勉強もしないと。あとは、気になった作品を見る、いつも通りの日常に超常的なものを入れる」


 超常的なもの、することは主に二つ。


「超常現象の情報を調べる、そして、俺が持つ霊感、第六感の鍛錬」


 スマホに書かれた大雑把な予定を見て、明日からの夏休みですることについて、具体的に考え始めた。


「情報の手に入れ方は、聞き込みに、書物やインターネットなどの媒体からの入手で、実践あるのみだけど。霊的な才能の伸ばし方はどうすればいいのかな。鍛錬となると、ひたすら使って強くしていくのが定番だけど、瞑想とかも」


 顎に手を当て、絶対に教科書に載らない霊的な鍛錬に頭を悩まして、唸り始めた。


「瞑想なら、龍輝さんに教えてもらったのをやればいいし、肉体の鍛錬もいつも通りすればいい。でもそれ以外の方法はまったくわからない」


 先生も参考書もないと、本当何もできない。


「実践するのも無理だな。わざわざ心霊スポットに行って、幽霊とかの実物で鍛えるような自殺行為は絶対に回避。こういう専門の師匠探すとしても、胡散臭い人たちから本物を見つけるのは難しそう。結局は自己鍛錬あるのみだな」


 だが、これではあまりにも方向性と具体的な内容が少ない。


「そうだ、方向性なら、今日のあの状態を目指せばいい。ちゃんと自分で出来たことだし、再現可能かもしれない」


 前世の記憶が目覚めた時になったあの不思議な状態。肉体を魂の両方を認識して、両者が一致したようなあの状態、自力でなれたらすごい力になるに違いない。


 なんか、特殊な変身を会得した主人公みたいだな。


「名前もつけないと。んー、魂の覚醒は違う、進化でもない、スーパーーなんちゃらとかも違うな、もっとそれっぽい名前、魂と体が一つになったような感覚」


 俺はスマホで技名について調べ始めて。中二病感溢れるサイトから参考になるものを見つけようと指を動かした。


「そうだな、天人合一みたいな感じで、身魂合一とでも呼ぶか」


 技名を付けている中二病のような感覚を味わっているようで、少し羞恥心を感じてしまうが、夏休みの大まかな予定も、これから目指す方向も決まったおかげで、気楽になった。


 だが、時刻はまだ7時半。就寝まで何かをするに充分な時間がある。いつもなら、読書したり、映画鑑賞をしたり、気になるものがあれば学習もしたりするが、今はもっとやりたいことがある。


 机の上のパソコンの電源をつけ、パスワードを入力した。超常的事象が存在する神秘な裏の世界、それについて踏み込む第一歩は、今日遭遇したあの化け物について調べてみるのがうってつけだ。


 ネットやテレビ番組に蔓延る、真偽の分からないCGや合成の画像と動画とは違って、確実に存在するもの。

 本当に存在するかを確認するための作業を省ける上に、確信とやる気を持って関連する情報を探せる。利点しかない。


 成果を得られるか関係なく、昂る心で、サイトを開き、キーワードを入力して検索し、関連性の高いものからチェックし始めた。


 八尺のような化け物 心霊体験 所沢 夕方 ……

 怪談話の日記から、心霊体験を語る掲示板、この町の最近の事件についての記事

 夢中になって、マウスを動かし、画面の文字を読んでいった。


 時間が溶けるように過ぎていく。


 △▼


「生き返るー」


 湯船に浸かりながら、ふーと息を吐き出した。放心状態になっているが、体の疲れをよく感じてしまう。今日の道場で体を動かした分の疲れもあるが、化け物と対峙した時の疲労も今になって出てきたようだ。


「疲れたー、体の方は筋肉痛になりそうだし、前世についてのモヤモヤは消えたけど、今日は色々ありすぎて精神的にもちょっと疲れた」


  湯で体の疲れを取ろうと考え、体をさらに水面の下に潜らせた。顎から下が湯船に浸かるようにして、体をリラックスさせた。


「やっぱ特に成果はなかったな。色んなサイトと掲示板を見たけど、それっぽい目撃情報もなし。2時間くらい見続けたせいで目も疲れた」


 あまり収穫を得られることを期待してなかったけど、何も見つからないと、やはり少し落胆してしまうものだ。


 合致しそうな目撃情報も、怪談話も体験談もなく、あの化け物が元人間と仮定して、ここ付近で亡くなった超高身長の女性や巨人症の女性を探してみたが、めぼしい情報もなかった。


「だけど、何も見つからないことで、推測できる事もある」


 情報が見つからないということは、流れ出た情報を強い力で隠されているか、もしくは、そもそも、あの化け物は最近出現したもので、俺以外誰も遭遇していないせいで、情報を伝えようとする人もいない。可能性は色々ある。


「ディープウェブとか、ダークウェブとか、そういうので情報収集できるネットに詳しい人がいたら、もう少し調べられるけど。これが俺の限界という事だな」


 元々少し機械音痴気味の自分に、ハッカーみたいな器用なことはできない。これからゆっくりと、やっていくしかない。

 明日からの夏休みで十分時間を確保できるから、何か収穫を得られることを期待しよう。


 それより、そろそろ風呂から出ないと、のぼせてしまう。


「暑い夏でも、湯船のお湯は疲れを取るにはいいものだ」


 入浴の効果を褒めながら立ち上がり、浴室のドアを開いて、タオルを手に取って体を拭き始めた。髪から、首、胸、そして腹部。


 割れてる腹筋を見て、思い出すようにして考え始めてしまった。前世の自分と比較して、今の自分の肉体の完成度の高さはとても高い。


 前の自分は、高校あたりで堕落して、運動なんかと無縁の自堕落の生活で体力皆無の大人となってしまったが、中学の時は、部活でちゃんと筋肉が付くように鍛えていた。今の自分はその体とは比べられないほど、鍛えられている。

 前世の自分が相手なら、5人まとめて相手にしても問題なく勝てるくらい。


 だが、この肉体の筋力もあの化け物の怪力と比べると、あまりにも脆弱だ。


 少し気弱になりそうなことについて考えてしまったが、現実を知り、あの化け物との差を自覚しても、引き返す気持ちは一切なかった。


 あの世界は危険な場所だろう、普通の人生を送れば、触れることなんてほとんどない世界、そこに踏み込もうとしているこの気持ちはただの好奇心なのか。


 果たして、ただの好奇心だけが自分を突き動かそうとしているのか。


 いや、これは考えるまでもない愚問だ。

 危険な目にあったのに、好奇心だけで危険な領域に踏み込もうとするほど馬鹿ではない。自分は世界を探索し続ける研究者ではないから。


 当然好奇心以外に、もっと何かある。

 浮かれて衝動的になっていても、落ち着けば好奇心も冷める。ならば、ここにあるこの気持ちは、もっと別のものだ。


 世の中には突然やってくる理不尽な存在がある、俺の前世の最後にやって来た雷もその一つだ。

 避けられない何かが人生のどこかで訪れてくる、備えてなければ、そのまま終わるだけだ。


 突然現れ、人を食らうような化け物。今日の事例がある以上、もう起きないとは考えづらい、目を背けては逃げになる。

 普通の事件や危険なら心の支えになる警察や消防を頼る方法があるが、超常的存在を前にすると、それは盾にも安心にもならない。


 世の中に存在する危険に対して、無知で居ようとする人は少ないはずだ。


「知ってしまったから、何もしらないままで居ようとするのはもう無理だ。でも、そういえば、昔の俺はなんで超常現象について調べようとしたんだ」


 今日化け物に出会うまで、俺は何回も超常現象について調べていた。自分が持つ霊感が原因もあるが、もっと何かあったような。


「龍輝さんか」


 数年前に亡くなってしまった、常に冷静で、温かみのある笑顔をよく見せてくる、余裕をなくすことのないあの人を思い出してしまった。

 龍輝さんの死因は、不明だった。衰弱死とか、そんな答えを告げられたような気もするけど、遺体を見てわかった、科学的に説明できるものではない。


「そうか、亡くなった龍輝さんを見て、説明できない超常的なもののせいで、死因の真実がわからないことが悔しくて、恐ろしかった。それで、気になってたんだ」


 大切な人がどのように死んだのかわからない、真実を知ることが出来ない、科学的に説明できないはずのものが無理やり科学的に結論付けられたことが、悔しくて、怖かった。


「知りたい」


 龍輝さんの死因、この世にどれくらいの化け物がいるか、どのように対処すればいいのか、どうして俺たちはそれを知らないままで生きているのか、全て知りたい。


「でも、危険だよな」


 今日会った化け物、両手で人間を豆腐みたいにぐちゃぐちゃに出来そうだった。そのような存在について知ろうとすることは、きっと、安全を保障できない。


 でも、普通に生活をしていても、出会うかもしれない。


「適切な範囲で調べよう」


 “虎穴に入らずんば虎子を得ず”


 教科書とインターネットに答えが書かれてないなら、自分から調べに行かなければいけない。例え、危険な道であっても、何か得たいなら進むしかない。


 考えなしに進むのは駄目だ、わかっている。あの化け物に遭った俺はよくわかっている。


 危険なことだ。


「まぁ、危険なことをするなら、ちゃんと一回家族に相談しないと。化け物のことを語らないにしても、明日にでも、一回簡単に何かをすることは伝えておかないと」


 また一つすべきことを決め、ほとんど拭き終えた体に服を着せ始めた。


 袖に手を通し、髪を乾かすために、ドライヤーのプラグをコンセントに刺してスイッチを入れた。暑苦しい気温の中、ドライヤーの熱風を髪に当て、幽霊たちは気温で熱くないかと変な疑問について推察を始めた。


 実証しないと意味のない疑問で暇を潰している間に、髪についた余分の水分を落としきることができた。頭を振り回し、髪を手で整える。鏡を見ていつも思うことを口に出す。


「やっぱ風呂上がりの人間の顔面偏差値は上がるものだな」


 24時間ベストショットの顔面を保てれば、もう少しモテそうだが、今の自分でも前世よりはモテていることを考えると、前世の自分をもう少し努力しろと叱りつけながら殴りたくなる。


 小さく溜め息を吐き、いつも通りドライヤーを片付け、風呂場の換気を行う。あとは、水分を補給して、歯を磨き、そのまま就寝だ。       


 キッチンまで歩き、冷蔵庫を開けて自分の緑茶のペットボトルを取り出した。キャップを外して、冷たいお茶を口から喉に流し込む。温まった体の内側を冷やすことになるが、暑い夏の風呂上がりには冷たい飲み物はやはり欠かせないと感じてしまう。


 横に目線をやると、机の上のノートパソコンと向き合っている母が座っていた。妹の気配が一階にいないことに気づくと、ペットボトルのキャップを閉め、母に声をかけた。


「母さん、芽衣ちゃんはもう寝た?」


「そうよ、明日から始まる夏休みが楽しみだって。だから早めに寝て英気を養うと言ってたわよ。ヒロちゃんはまだ寝ないの?」


「いや、俺も芽衣と同じ、明日から始まる夏休みが楽しみだからもう寝るね」


 母の言葉から妹の様子が簡単に目に浮かんでしまう、明日から妹のために使う時間も増えそうだ、睡眠時間を無駄なことに消費していたら、体が持たない。


「それだと、私は一人になってしまうわ。お母さんを一人にして、寂しく夜を過ごすのを見て心痛まないの?」


 片肘を机につきながら、自分をからかうように少し寂しい顔を見せてくる母を見て、夜のテンションになっているのを確信する。


「母さんも早く寝るんだ、遅寝は肌と健康の敵だぞ」


「わかりましたー、可愛い息子のお願いを聞き入れましょう」


 可愛い微笑を浮かべながら、パソコンの作業を保存して電源をオフにした母を見て、俺は少し安心する。


 仕事や趣味で徹夜することも時々ある母だが、いつもは心配させたくないとバレないようにしている。それでいて、見つかると素直に止めてちゃんと睡眠を取る。

 世の中には完璧というものはなかなか存在しないが、母親は自分が今まで生きてきた中で、一番完璧で理想な存在だと今も変わらずに思う。


 親か


 ふと前世の両親のことを思い出す、自分のことにあまり時間を使ってくれず、性格も価値観も合わないから、あまり会話を交わしていなかったが、自分からもう少し歩み寄ったら違ったかもしれない。


 これ以上考えても、夜寝づらくなるだけと判断して、回想に蓋をする。


  考えるなら明日にしよう、話をするとしても、明日3人が揃った時にしたほうがいい。


「俺はもう寝るね。おやすみ」


「おやすみー、母さんも風呂入ったら寝るね」


 眠りにつく前に欠かせないおやすみの挨拶をし、欠伸しながらパソコンを片付ける母を見てから、俺はペットボトルのお茶を握りながら階段を上っていった。

 いつもと同じく、2階で歯磨きを済ませて、そのまま布団に向かう。


 洗面台の前に立ち、妹に勧められたミント味の歯磨き粉を歯ブラシに乗せて、口の中の隅々まで動かして汚れを落としていく。


 思えば、子供の頃から歯磨きを丁寧にやっているのは、前世の自分が歯医者によくお世話になった記憶が影響していたからかもしれない。そんなことを考えながら、俺は一定のリズムを刻むように手を動かす。


 約5分間磨き、うがいで口の中の歯磨き粉と食べカスを残さずに吐き出した。口に残るのは爽快感とささやかな日課の達成感。


 やるべき事を全て終わらせて部屋に入り、疲労した体をベッドに乗せた。


「寝ないと、睡眠は人体の活動の継続には欠かせないからな」


 ただ疲労と眠気に身を委ねて、眠りまで待とうとした。だが、今日の出来事が脳に過ぎった。


 そういえば、今日のあの術での眠り、過去一の速さと質だった。

 あれほどの効率の良い睡眠を実現できる術、眠りに対する効果はあくまで副次的なものかもしれないが、毎日寝る前に自分にかけることができれば、栄養ドリンクやコーヒーとは、さよならバイバイできるだろう。


「術は出来なくても、理想の眠りを見つけたなら再現すればいいじゃん、俺」


 その発想に辿り着いた俺は、今日のあの眠りに入ったときの感覚を回想する。


 体の細胞一つ一つが眠りを求めるように、精神も深い眠りに落ち着くように、不安を取り除いて、ただ眠ることを。それ以外は不純物として取り除き、起きる時間なぞ体に覚えさせて任せればいい。


 そうすれば、眠りに…、安眠を 


 これ、ねむるやつだ


 思ったより簡単にでき…た……


 明日から なつ やす  み… がん ばろ ……


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超常に対する探索が始まる





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