第1話「母と魂」

母とまだ目覚めていない転生者の幼子

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 親指が小さな指に握られている。

 柔らかいすべすべな手、弱い力のはずなのに、とても強い生命の力を感じる。


「綺麗な手」


 自分の子の手に指を握られているだけなのに、とても強い感動を覚える。

 この子が生まれてから2ヶ月、毎日何か発見と気づきがあり、新鮮で楽しい日が続いている。


 私の指を見つめながら、両手で握って確認している私の可愛い子。その可愛さに我慢できず、ついぷにぷにな顔を人差し指で軽く突いてみる。


 この世に生まれてきて2ヶ月、この子の体が発達し始めているおかげで、肉付きが良くなり、触り心地最高なぷにぷにほっぺが誕生した。

 自分も生まれた時はこんな感じだったと考えると、とても不思議な気持ちになる。


「73日」


 この子が生まれて経った日数。


 73日間、初めてのことへの戸惑いや苦労が多かった。疲れ切った体も、病んでいた精神も、私を折ってしまいそうだった。


 あの大っ嫌いなクソ男の血を引いてしまったこの子を産んだ後、両親に託して命を断とうと考えていた。

 だけど、産後はそんな気力なんてなかった。この子の世話と体調の回復だけで精一杯だった。


 両親の支えとこの子の笑顔がなかったら、ここまでやって来られなかったと思う。


 2ヶ月、長いようで短かった。疲れが抜けるまでの時間が長かったはずなのに、この子の変化だけはとても速く感じる。


 少し生えている髪の毛、邪気のないつぶらな瞳、まだハイハイもできないのに活発に動く手足、時々口から漏れ出す可愛い声、生まれた直後の姿からこんなにも成長している。


「尋斗ちゃんは成長が早いねー。可愛いし、きっと将来はモテモテなイケメンになるね」


 両手でこの子のほっぺを触れ、自分の子の大きくなった姿を想像してみる。


 高身長黒髪の男らしいイケメン、中性的な可愛さがある美形、冷静沈着な美少年、少女漫画で見たキャラクターを参考に、色んな姿が脳に浮かぶ。


「ヒロちゃんはどんな大人になるか今はわからないけど、どんな姿になっても、私の大好きな子には変わりないから」


 言葉を言い終えると、尋斗ちゃんは笑顔になって手足を動かし始めた。可愛い笑い声に私も思わず笑顔になる。


「本当かわいいねー。ここまで可愛いと、前世は天使だったかもしれないね。ふふ、今は私の可愛い息子だから、例え前世が悪魔でも関係なく愛せるよ」


 まだ言葉を話せない自分の子としばらくお話をしていると、この子は口を開けて声を出し、手を振り始めた。


「お腹が空いたのね、よしよし、ちょっと待ってねー」


 尋斗ちゃんの合図で、食事の時間になったことに気づく。


 両手でこの子を抱き上げてベッドの上に移動し、服をずらして乳を出し、授乳を始める。服から出た肌を見たこの子はいつものように両手を動かし、口を胸に近づけた。


 何度目になるかわからない授乳、まだ少しくすぐったい時もあるけど、リラックスした、スッキリするような気分になる。


「美味しそうに飲むね、私まで飲みたくなっちゃう」


 尋斗ちゃんの乳を吸う顔見ると、この子が感じている幸せを分けてもらったような気持ちになる。


「尋斗ちゃんは本当幸せそうだよね。ほとんど泣かないし、よく笑っている。泣く時なんてうんちの時くらいかな。


 赤ちゃんは一日何回も泣く生き物だとお母さんとお父さんは言っていたのに、ヒロちゃんはこんなに落ち着いている。やっぱ二人の言う通り、尋斗ちゃんは特別なのかな」


 尋斗ちゃんは私の言葉を気にせずそのまま食事を続ける。


 夢中になっている姿を見ているとただの赤ん坊に思えるが、この子の凄いところを私は知っている。


「聞いてないように見えるけど、ヒロちゃんはちゃんとわかっているもんね。私が嫌な気分になった時も、落ち込んでいる時も、尋斗ちゃんは泣いて私の注意を引いてくれる。本当、お母さんである私よりしっかりしてる」


 2ヶ月以上の間、私を支えてくれたこの子のことを思い出す。


 生まれた直後の一生懸命泣いて呼吸する姿は、私に生きる気力を与えてくれた。


 母乳を求める姿は、私にもできることがあると教えてくれた。笑いながら見つめてくる顔は、自分を愛し、必要とする命があることを伝えてくれた。


「尋斗ちゃんは、お母さんとお父さんよりも私のことをわかってくれているかもね。顔に出ないようにしていたのに、私が辛い気持ちになったらすぐ声を出して私を呼ぶ。赤ちゃんは人の感情に敏感なのかな、いや、きっとヒロちゃんが賢いからだ」


 自分の考えに思わず笑顔になる。


 自分の子だから特別に思えるかもしれない、でも、この子が特別なのはどこか確信している。

 直感もあるが、両親がこの子をよく不思議がっているのを見ると、その確信が強くなる。お父さんとお母さんの判断は私にとって信頼できるものだから。


「そんなヒロちゃんは将来どうなるんだろうね、お父さんと同じ医者か、お母さんと同じ弁護士か。何を目指しても、ヒロちゃんならできそうだけど、私みたいにはならないでね。んっ」


 私のネガティブな否定の言葉を聞いたこの子は、急に吸う力を強めた。まるで、そんな事を言わないでと言っているようだ。


 でも、自分のことは自分が一番わかっている。


「お母さんは悪い男に引っ掛かった馬鹿な人だから、褒められた人間じゃないのよ。尋斗ちゃんが産まれてくる前なんて、色々ダメな事を考えて塞ぎ込んでいた」


 あの頃の自分の憂鬱な気持ちを思い出しそうになるが、尋斗の顔を見ると、それは引っ込んだ。別の気持ちが溢れ出そうになる。


「でも、尋斗が産まれて、産んでよかったって思った。産まない選択肢を取っていたら、きっと私はここにいないよ。お父さんとお母さんは私に好きにしていいよと言ってくれたけど、あの時の私に必要だったのはきっと、尋斗ちゃんのような存在だ」


 目から涙がちょっと溢れそうになるが、左手で拭き、尋斗ちゃんの頭を優しく撫でる。


「だから、ありがとう。産まれてきてくれてありがとう。」


 感謝の気持ちを伝える言葉のはずなのに、涙がさらに出そうになる。


「きっと、尋斗ちゃんを産んだのが、私の人生で一番正しい選択だと思う」


 気づくと、尋斗ちゃんは口を止め、私を見つめていた。きっと世界で一番可愛い顔だ。


「琳ちゃん、大丈夫?」


 扉の方を見ると、出かけていたお母さんが帰ってきていた。


「大丈夫、ちょっと感動しちゃって」


「なんだ、よかった。帰って来たら泣いているから、心配しちゃった」


 とても心配そうな顔をしていたお母さんは安心して、胸を撫で下ろした。そんな姿を見て、伝えるべき事を伝えるために口を開く。


「お母さん」


「ん?なに?」


 普段から伝えるようにしている言葉だが、少し照れくさい気持ちになる。でも、ちゃんと伝えないと。


「いつもありがとう、私を産んでくれてありがとう。そして、私にこの子を育てられるようにしてくれてありがとう」


 私の言葉に、お母さんは少し不思議そうな顔になって、笑いながらこう言った。


「琳ちゃんも、生きてくれてありがとう」


 △▼△▼△▼△▼


「ねぇ、知ってる?先生は体調の問題と言ってたけど、あの子、休んでたのは妊娠していたかららしいよ」


「マジぃ?高校入学の時には妊娠って、ヤバイね。てことは、今は子供産んだから来たってこと?」


「見ればわかるっしょ、あの子の体型でお腹に赤ちゃんがいるように見える?それより、無駄に良い体型している」


 休み時間の少し騒がしい教室の外の廊下から、二人の女子の声が聞こえた。


 私のことだ。


 妊娠という言葉を捉えた瞬間、思わず気になって、その話を聞き続けてしまった。


「それな、産後なのに全然崩れてない。お腹は直接見えないからわかりづらいけど、あの胸は馬鹿でもわかるくらい大きい。子供産んだから大きいの?」


「あそこまで大きいと、元からデカいでしょ。ぱっと見、Hカップは絶対ある」


「りのちゃんはまだいいじゃん、私なんて全くない。あの胸見ていると奪い取りたくなる」


 二人の会話は止まらなかった。


 最初はこそこそ話で、あまりよく聞き取れない声量だったのに、盛り上がっているせいか、聞き取れる声になっている。

 隣の席の子もその話の内容を聞いて、私の方に視線を向けて来た。


 耐えなきゃ。


「その気持ちわかるー、あの大きさ本当意味不。渋谷歩くと絶対ああいうスカウトされる」


「ああいうスカウト?」


「言わせんなよー、ひまりはそういう動画いっぱい見てるでしょ」


「りのちゃんこそ毎日見てるでしょう」


 二人の会話はそのまま下らない話の方に脱線して、別の話題に変わって行った。


 ある意味、女子高校生らしい会話だったかもしれない。


 きっと、私には、そういう楽しい高校生活はもう無理なのだろう。たまたま聞こえてしまった話でも、こんなにも落ち込んでしまう。


「琳さん大丈夫?あの二人の話なんて気にしなくていいよ」


 隣の席の新井さんが心配な声で話しかけてきた。


 中学の同級生だった彼女は、昔から優しい人だ。中学一年の時だけ同じクラスだったけど、彼女の優しさと気遣いは今も印象的だ。


 私はまた、人に心配をかけている。


「大丈夫、ありがとう」


 目から溢れそうな涙をグッと堪え、心配させないように作りの笑顔で言葉を返す。


 新井さんは私の考えを見抜いたように、ティッシュを渡し、困ったら言ってねと一言を言って席に座った。


 その優しささえも、私の自己嫌悪を刺激してしまう。


「ほら、授業始めるぞ。休み時間は終わりだ、座ってー、座ってー」


 気づけば、チャイムは鳴り、先生は前の教壇に立っていた。数学の授業が始まる。私は教科書とノートを開き、シャーペンを手に持った。


 こんなのやっても、無駄なのに。


 そんなネカティブなことを考えてしまう。


 尋斗を産んで約5ヶ月が過ぎ、なんとかお父さんとお母さんを説得して、一人暮らししていた場所に戻って、ちょっとずつ学校に通い始めた。


 子育てをこなしながら、無くした分の青春を取り戻そうと、少し意気込んでいた。


 でも、現実は違った。


 勉強もしないで、半年以上学校に来なかった人が、突然学校に来たところで上手く行くはずはなかった。


 友達作りが進まない、なかなかクラスに溶け込めない、体調を取り戻してないから体育もできない、半年も勉強してないから授業にもついていけない。


 そして、時々聞こえる私に対する噂話、男子からの嫌な目線、先生や近くの席の子の気遣い、その全てが私の嫌な感情を刺激する。


 わかっている、私の気持ちと考え方の問題だということを。


 友達作りが進まない。

 違う、手を差し伸べてくれている子はいる、でも、それを取っていないのは私。


 放課後の時間も尋斗の世話を母に任せて、1人で友達と遊ぶ訳にはいかない。

 まだ遊べるような体調ではない、楽しい顔をして笑い合えない、こんな私が友達と楽しく一緒にいるのはいけないと心のどこかで勝手に思い込んでいる。


 クラスに溶け込めない。

 違う、溶け込む努力もしてないのに、何を思っているんだ私。


 体育ができない、授業についていけない、当たり前の話だ。体育なんて体調が治ればできるようになる、勉強も少しずつ追いつけばいい。

 でも、今、出来てないという事実が、私を突き刺す。


 まるで、あの男と付き合った馬鹿な私を責めるように、自分のこともちゃんと出来ない私には、子供を育てる能力も資格もないと、現実がしつこく囁いてくる。


 自分のことができない、責任を自分で取れない、家族に迷惑を掛けている、私はダメな存在と言われているような気がしてくる。


 嫌な噂話も、視線も、私がここにいてはいけない存在だと言っているかのように感じてしまう。

 他人に心配をかけていることも、気遣わせていることも、私がダメな人であるかのように思えてしまう。


 実際、今もそうだ。授業で先生は私を指してこない、なぜなら、私が答えられないことをわかっている。優しい気遣い。


 私は時間をかけて勉強することも、追いつこうとする努力も出来ていない。出来る状態も時間もない。それなのに、学校に来て、ここに座って、先生と皆に気を遣わせている。


 最低限の勉強もちゃんと出来ていない、友達も作れない、こんな私が、学校に来ていいのだろうか。


 今の私はただ、こんな嫌な思考繰り返してしまう。止められない、終わらない。他のことをして気を紛らわせても、ただ、逃げているように感じてしまう。


 尋斗を産む前もこうだった。


 初めて付き合った人が体目当てのクズ男、それに気づいてすぐに離れた。最悪な初恋愛をなんとか忘れそうな頃に、妊娠したことがわかってしまった。


 男は行方不明になって、誰かに相談する勇気もなかった。

 吐き気と自己嫌悪が止まらず、必死に両親にこの事を隠そうとして、高校は一人暮らしにしたのに、すぐに隠しきれずにバレてしまった。


 自己嫌悪に陥って、学校に行かなくなって、両親が来た時のこと今も覚えている。


 尋斗が生まれて、立ち直ったと思ったのに、結局、私は変われなかった。きっと、私の本質は、部屋に引きこもって泣いていたあの時と変わらない。


 弱いままだ。


「琳さん、はい」


 優しい声が嫌な思考を遮った、目の前には白いティッシュが差し伸べられていた。隣の新井さんが手を伸ばしてくれている。


 この事実を認識すると、目から涙が流れている事に気づく。目の前にあるティッシュを手に取って、涙を拭き取る。


「さっき言った事もう忘れている。困ったら言ってね、辛い気持ちは吐き出すと結構スッキリするから。今授業中だからちょっと聞きづらいけど、一緒に保健室に行くのも、休み時間に聞くのも、私は大丈夫だから」


「ありがとう、大丈夫」


 新井さんの優しい言葉に、さらに涙が溢れそうになる。それを堪え、授業に集中するように教科書を見るようにした。


 ページに書かれているのは、まだみんなに追いついてない私が理解しきれない内容だ。


 なんで、昨日予習をしなかった?


 疲れているのを言い訳にしていたら、追いつかないよ、私。

 さらに、おいて行かれる。いい大学にもいけない。


 また始まりそうなマイナス思考を抑え、先生の言葉に耳を向けた。


 新井さんは私が落ち着いたのを見て、先生の方に向いて、授業に戻った。


 他人に心配をかけないようにしないと。


 △▼△▼△▼△▼


 疲れた体を動かし、校門から出る。寒さで体が震えそうになるが、グッと堪える。


 5限目の数学が終わって、私は先生に帰ることを告げ、早退した。


 8回目の登校、変わらず帰りは心地の悪いもの。


「最低だな、私」


 心配していた新井さんに先に帰りますと一言だけ残して、逃げるように教室から出た。


 怖かったんだろう。


 優しい彼女に自分の中の嫌な気持ちをぶちまけて相談する事を、病んでいる私の重い心情を話すのを、彼女にさらに気を使わせてしまうことを、彼女なら優しく聞いてくれる事を。


 そして、彼女の優しさを素直に受け入れても、このどうしようもない状態が改善しないことを。


「一人じゃ何もできないくせに、他人に迷惑も心配もかけたくないなんて、私は馬鹿なのかな。優しい彼女の手を取らないなんて、私、ひどい人」


 自分に対する否定から抜け出せず、さらに、言葉を重ねてしまう。


「産後だから、こうもおかしくなってしまうのかな。そうなら、時間が経てば…」


 ちょっと時間を待てば治るように思い込もうとするが、言葉が詰まってしまう。


 時間が経っても、あの子が大きくなっても、私は変わらないままだったら。

 今の嫌な気持ちを時間経過で治る症状なんかのせいにして、治らなかった時、自分が、現実逃避した人間だと自覚してしまうだろう。それは、嫌だ。


 待つのはダメだ、自分でどうにかしないと。


「何もせずに時間が経つのを待って、治らなかったら。私は、あの子を理由に、現実逃避したことになる。それは、駄目。しっかりしないと」


 すぐに出てしまう自己否定、他人に心配をかけた罪悪感、それらの不安を押し殺すように、別のことを考えるようにする。


「体調が悪い時は、休まないと。学校をちょっと休むか、学校のみんなに迷惑をかけないためにも、体調を整えないと。また、お父さんとお母さんに迷惑をかけてしまう…」


 少し休めば、この状態が少しは良くなると信じて、何日か学校を休むことを決めた。


 そのまま、私は足を動かして、家の方に向かった。でも、頭の中の考えは止まらなかった。


「バイトもそうだった、好きだったのに、誰にも、何も告げずに逃げた。辞める報告をするのを後回しにして、迷惑をかけた。それなのに、少しくらい、戻れると期待した私がいた」


 やめてしまったバイトのことを思い出し、嫌な気持ちがまた胸の中で渦巻く。初めての、気に入っていたバイトなのに、もう戻れない。


「それに、戻っても、きっと前のようにできない。前より知らない男性のこと苦手になっているのに、接客とか」


 小学校高学年の時から、男性に対して苦手意識があった。


 最初は同級生の男の子達に対するものだった、デリカシーのない下ネタ発言、馬鹿みたいなイタズラ行為、そして、私の胸に対する視線。先生に怒られ、そういう行為を控えた彼ら。


 でも、私の苦手意識は消えなかった。


 中学校の時、年齢が上がって、男子のそういう行為はなくなった。しかし、私の発育は止まらなかった。男子の視線は変わらず、わかりやすいものだった。


 女子からはよく色々聞かれたり、おふざけでいじられたりした。

 悪意はないことは知っていた、気にしてないように振る舞った。けど、苦手意識は変わらず、大きい胸のコンプレックスが私の中に加わった。


「今は知らない異性を見ると、あの男を思い出す」


 葛谷理勇、花を持って現れた、化けの皮を被った狼。


 中学校3年の時、人生で初めて、年上の高校生の男子からちゃんとアプローチを受けた私は、最初こそ疑うも、熱意に負けて付き合ってしまった。


 甘い恋が出来ると、幻想みたいな期待をしていた。


 でも、礼儀正しく振舞っていた彼の化けの皮は、すぐに剥がれた。


 他人を見下す失礼な態度、ただやりたいという脳みそ、そんな彼から執拗に関係を迫られ、恋愛経験なく、そういう話に疎い私は流されたが、すぐに友達相談した。そこで初めて、彼が悪名高いヤリチンと知った。


「あの時はパニックになって、すぐに距離を取って別れた。性の知識なんて、保健体育と少女漫画でしか得なかった私にとって、あんなの、ただの地獄」


 嫌な記憶とトラウマを思い出し、吐き気を催してしまった。今でも覚えている、スマホで別れることを告げ時、彼から送られたボイスメッセージ。


「顔と胸しか取り柄のない女なんて、こっちから願い下げだ」


 馬鹿馬鹿しい捨て言葉なのに、あの時の私は、聞いて空嘔吐きをした。吐き出す物もないのに、ただ、何か吐き出そうとした。


「あっ、もう着いたのか」


 気づけば、もう既にマンションの前についていた。私が住んでいるのは学校から数分の場所、あとはエレベーターに乗って、5階の自分の部屋に行けば大丈夫。


「ここまで、ずっと独り言話していたのか、私」



 今までで一番酷い帰宅かもしれない、ずっと考えるべきでない嫌な事を考えて、独り言を話して歩いていた。側から見れば、気が狂った女子高生にしか見えないはずだ。


「前は、こんなじゃなかったのに」


 自分はもう駄目になって、イカれたではないかと疑いそうになる。


 でも今はこんなこと考えて、立ち止まっているべきではない。とりあえず足を動かして、部屋に帰ろう。


 エレベーターに乗って、自分の部屋まで歩く。その間に深呼吸をして、心を整える。涙を拭いて、何もなかったように見せる。


 スマホを取り出し、鍵のロックを解除する。インターホンを鳴らして、そのままドアを開けて部屋に入る。


「ただいま」


「おかえりなさいー」


 空元気の声で挨拶をし、お母さんの元気な声が返ってきた。


 室内の暖かい空気に少し気分が落ち着き、靴を脱ぎ始めたら、すぐに、尋斗を抱っこしているお母さんが現れた。


「早かったね、大丈夫?体調悪いなら迎えに行ったのに」


「大丈夫、近いし、すぐ歩いて帰って来れる」


「もう、気をつけてね。はい、ヒロちゃん」


 玄関から上がって、お母さんから尋斗を受け取って、優しく横抱きをする。可愛い顔を見ると、少し元気をもらったような気がする。


「ヒロちゃんが可愛いのはわかるけど、体調が良くないならソファで座りながら抱っこして。お茶持ってくるから」


「ごめん、お母さん」


「ごめんより、ありがとうでしょう」


 ゆっくりとソファに移動した私に、お母さんはそう言った。私のネカティブな気持ちがまた言葉に出てしまった。


 自分の駄目なところに嫌悪を感じながら、ソファに座る。


「あうー」


 私の気持ちに気づいたように、尋斗は声を出して、私の顔に手を伸ばした。


「本当、私よりもずっとしっかりしてる」


 この子の可愛い行動に、思わず口元が緩む。顔を尋斗の手に近づけ、ほっぺを触らせた。


「もう、本当に仲良いいんだね」


 お母さんがお茶を入れたコップをテーブルの上に置いた。それと同時に、尋斗は手を離した。まるで、私がお茶を飲めるようとしているように。


 そう思った私は、尋斗を優しくソファの上に寝かせ、コップを取って、飲んだ。


「温かいジャスミン茶」


「寒い季節だからね、ジャスミン好きでしょ。これ結構いい茶葉よ、使っているジャスミン花の蕾は厳選しているやつだし、福建のやつで、お値段もそこそこした」


「うん、繊細に甘い、いい香りしてる」


 温かいジャスミン茶の味は、簡単に言い表せない程良いもの。


「待ってね、お菓子も用意している」


 そう言うと、お母さんはキッチンから何かを持ってきた。白と卵色の花模様の円形のお菓子を乗せた皿が、テーブルの上に置かれた。


「ジャスミンの花糕よ、中国の友達から送られた物で、結構美味しいよ」


 お母さんは尋斗の隣に座って、初めて見るお菓子を紹介してくれた。


 置かれた菓子に手を伸ばし、口に運ぶ。溢れないように片手を添えながら、一口噛む。

 ジャスミンの優しい香りがする甘さ、クセは強くなく、飽きない味。柔らかいが口の中でベタつかず、程よい口どけ。


「美味しい」


「口に合って良かった。楊舒冪さんが送ってきたものよ、ほら、中学校2年くらいの時に、家に遊びに来た綺麗なお姉さん。覚えてる?」


 お母さんに言われ、思い出そうとする。


 中学2年の時に遊びに来た中国人の女性、確かにそんな人がいた。


「夏休みの時に、家に何日か泊まりに来たあの人?」


「そうそう、いっぱい中国のお菓子持ってきたから、琳ちゃんが喜んで食べてた」


 お母さんに言われ、初めて見るお菓子をパクパク食べていた自分を思い出す。

 あの時の夏休みの終わりに、心配になって体重を測るも、太らなかった自分に安心したことまで、鮮明に覚えている。


「普段食べられないものだったから、ちょっと食べ過ぎてしまった」


「半分くらいは琳ちゃんのお腹に入ったと思うよ」


「お母さんもお父さんも結構食べたでしょう」


 お母さんとの会話で、昔の楽しいことを思い出し、嫌なことを忘れたような気分になる。


 そのまま話を続けた。お茶を飲み、菓子を食べる。テレビをつけて、尋斗ちゃんを太ももの上に座らせ、一緒にテレビを見た。


 気づいた時には、夕方になっていた。


「お父さんの夕食も作らないといけないから、そろそろ帰らないと。あの人、頭はいいのに、料理下手だから、お母さんがいないと駄目駄目」


「うん、気をつけてね」


 私が学校に行っている間はお母さんが尋斗の世話をしている。


 仕事が忙しい両親に迷惑をかけたくないから、保育所を探しながら、一人暮らしの部屋に戻って自分で育児をすると考えた私に、お母さんが切り出してくれた提案だ。


 本当に一人で育児ができると判断できるまで、一緒に世話をする。学校に行けるように助けを借りる。困ったことがあったら迷わず相談して頼る。


 これらのことを両親と約束して、私はこの部屋で尋斗と二人で暮らしている。もっとも、基本昼間は母親か、両親の友人か親戚が来ている。


「そうだ、夕食はもう作って冷蔵庫に置いてあるよ。ちょっと温めればすぐ食べられる。あと、何かあったらすぐに連絡してね。本当は夜もこっちにいたかったけど、琳ちゃんがどうしても尋斗と二人でいたいと言うから、帰っているだけだからね」


「うん、わかった」


「呼べばすぐに来られるからね、電車で来ても30分ちょいくらいだし、今の時代、タクシーとかも安いから、遠慮しないでね。私もお父さんも運転できるから、タクシーはあんま使わないけど」


「うん、ありがとう」


 お母さんの優しい言葉に、涙が出そうになる。それを堪え、返事をする。


「琳ちゃんは成績良かったり、ピアノで賞を取ったり、昔からしっかりしているけど、すぐ思い詰めて、一人で抱え込もうとする癖あるから、ちゃんと相談してね。お父さんとお母さんは味方だからね」


「うん」


「じゃあ、行くね。子育ては夜が大変だけど、ヒロちゃんは夜泣きもほぼしないから、心配はいらないと思う。でも、なんかあったら連絡頂戴ね」


「わかった」


「またねー」


 お母さんは手を振りながらそのままドアを開け、帰って行った。


「あぅあぅ」


 尋斗は手を振って、バイバイを言うかのように声を出していた。


「おばあちゃん帰ったね。そろそろ、食事の時間だよ」


 夕方の自分の食事の前には、尋斗の食事をしないといけない。つぶした野菜や粥の離乳食を与えて、授乳をする。


 尋斗ちゃんをソファの上に座らせ、万が一のために、地面にクッションを敷いておく。

 尋斗ちゃんがテレビを見つめ、大人しく座っていることを確認して、私はキッチンに移動した。


 冷蔵庫からお母さんが用意した離乳食を取り出し、人肌程度の温度まで温める。既に何回も行っている作業だから、スムーズに行える。


「これも成長かな」


 母親としての生活が5ヶ月も続いて、少しはスキルが身についた。しかし、高校の学校生活は…


「高校生活は上手くいかなくてもいい、母親だけはミスなくちゃんとやる」


 今の私に、唯一できること、必要とされていること。これ以上期待を裏切るわけにはいかない。これも出来なかったら、私は…


 どうすればいいのだろう


 呼吸が荒くなる前に、私はやるべきことに思考を向けた。


 尋斗ちゃんの食事を用意して、ソファに座って、尋斗ちゃんの食事を済ませる。

 尋斗ちゃんが満腹になったことを確認して、私はようやく自分の食事の用意に入る。既に作られたものを温め直すだけだが。


「お母さんまた私の好物を作ってる」


 自分の作った分の炒飯もあるが、お母さんが作った肉じゃがとロールキャベツが冷蔵庫に入っていた。

 これらを温めて、テーブルの上に置いて、尋斗ちゃんの隣に座った。食事はできるだけ尋斗と一緒に取るようにしている。


 テレビを見つめる尋斗ちゃんの隣で私は食事を進めている。テレビに映っているのは動物の番組だ。犬猫の可愛い映像を、尋斗はじっと見つめている。


 普段なら、もっと尋斗ちゃんに話しかけながら夕食を取るが、なぜか今日は、黙々と夕食を食べてしまった。


「ごちそうさま」


 このまま、食事の片付けをする。皿を台所に持って行って、洗う。普段からしていることなのに、なぜかとても疲れてしまう。


「明日の朝にやろう、今日はちょっと早めに休んで」


 まだ洗い切れてない皿を放置して、このあとやるべき事を考える。8時半くらいにお風呂、寝る準備をして、授乳をして、絵本を読み聞かせて、一緒に寝る。


「そうだ、少しの間学校休むと決めたのに、まだちゃんと言ってない」


 まだ連絡してないことを思い出し、PPトークでお母さんに明日学校休むから、来なくても大丈夫なことを伝える。


「先生にも連絡しないと」


 ちゃんと伝えるべきことを全部伝えられたことを確認し、私はソファに座った。少し疲れが溜まったのか、まぶたが重く感じる。


 眠りにつく前に、眠らないように頬っぺたを両手で叩いて目を覚ます。


 まだ、休んではいけない。


「もう少し頑張ろう」


 そう言った後の記憶は眠いせいか、少し曖昧だった。いつも通り尋斗と一緒にテレビを見て、風呂に入って、授乳をして、絵本を読み聞かせて、寝かしつけた。


 自分の子が眠りについたことを確認した私は、洗面台の前で歯を磨いていた。


「何やっているんだろう、私は」


 口からそんな疑問が出てきた。


 言い出すべきでない疑問だ。しかし、鏡の中にいる疲れ切った自分を見つめていると、そんな言葉が漏れてしまった。


 私は、母親をしているだけだ。


 学校生活は?

 仕方がない、駄目な私は母親をちゃんとやらないと。


 いい人を見つけて、素敵な恋愛をしたかった夢は?

 もう諦めた、今の私が考えることではない。


 歌手、アイドルになりたかったのでは?

 もう無理だ、才能も何もない。


 1人で育児なんてできる?

 そうしないといけない、私の子だ、他人に頼っているだけでは無責任だ。


 嘘だ、勝手に1人で無理をしているだけだ。

 全てを投げ出そうとした自分を忘れようと、無理をして。死にたがっていた自分を嫌うように、必死になって。迷惑をかけることに、失望される可能性に、不安になって。


「何やっているんだろう、私は…」


 心の中の自問自答を無理やり終わらせ、鏡の中の疲れている自分を見ていると、抑えていた気持ちが爆発しそうになる。


 今の自分に対する不満が、溢れ出そうになっている。不満の正体をわかっているのに、それを解決する何かが足りていない。


 自分を落ち着かせるために、私は口をゆすいで、もう一度鏡の中の自分を見つめた。


 疲れが顔に出ないようにしているはずが、なぜか、さっきよりも疲れているように見える。


「早めに寝よう」


 私はそのままベッドに向かった。


 毛布をめくりあげ、物音が立たないように体をそっと預けた。目を閉じ、いつものように眠りにつこうとする。


 明日の朝も早起きして、尋斗の世話をしないといけない。私がやるべきことだ、他人に迷惑をかけるのは駄目だ。


 そう自分に言い聞かせ、胸の中に渦巻くなにかを抑えた。


 △▼△▼△▼△▼


「何時だ」


 眩しい日の光に当てられて、体を毛布の中から起こしたが、強い違和感を感じる。


 いつも7時過ぎか、8時前には起きている私の体内時計が、今はもうそんな時間じゃないと言っている。


「あっ」


 頭が回るようになった瞬間、頭から血の気が引く感じがした。すぐ近くに置いてあるスマホの電源ボタンを押し、画面に映る通知と時間を見た。


 11時48分


 嫌な予感が的中したことに、心拍数が上がったことがわかる。

 学校なら2限も過ぎている時間だが、休みはとっている。それよりももっと大事なことがある。私はすぐにそのまま体を動かし、尋斗の方に向かう。


「何やってんの、私の大馬鹿」


 尋斗の場所まで来て、大きなベビーベッドの中で眠る尋斗が無事なことを確認すると、私は少しほっとした。


「何をするんだ、そうだ、おむつ替えと着替えだ、あと食事だ」


 やるべきことを口で復唱して確認し、実行に移る。何度もしたおむつ替えも、着替えもスムーズに進んだ。


 しかし、嫌なことに気づいてしまった。


「熱がある」


 生まれてから5ヶ月、一度も体調が崩れることなく、健康に育ったこの子に、熱。


「私のせいだ」


 私が寝坊なんてしたからこうなった。そう思わずにはいられなかった。


「違う、今は何をするか考えないと。まず熱を測らないと、病院にもいかないと、でもこのまま連れていくのは、車もないし、抱っこして行って、落としたりぶつかったりしたら」


 頭が混乱している、初めてのことに何をすればいいかわからずに慌てている。


 赤ちゃんが熱を出したらどうすればいいか、わからないが、必死に知識を思い出そうとしている。子育てに関する本を沢山読んだのに、今に限って役立つ知識が何も出てこない。


 大丈夫なのか、重い病気だったらどうしよう、私が寝ている間ずっと熱を出していたかもしれない、私のせいだ、大丈夫なのか、なにか障害が残ったりしないか、尋斗ちゃんが私のせいで、死んだりしたら、今度こそ、私は死


「うあー」


 私の不安を止めるかのように、尋斗が声を出した。


 手足を動かして、私の注意を引くその顔には一切の不安もなく、ただ私を見つめていた。腹が減っているはずなのに、熱で辛いはずなのに、ただ、私を見つめていた。


「私が落ち着かないと」


 頼りになるべき母親が慌ててはいけないこと思い出し、何をすべきか冷静に考えた。


「わからないなら、聞かないと。とりあえず、お母さんとお父さんに」


 スマホを取り出し、お母さんに通話をかけて、必死に現状を伝える。


「大丈夫、あと20分もすればそっちに着くから、待っててね」


 母の声は落ち着いていて、頼もしかった。


 返信をしなかった私を心配したお母さんは既にこっちに向かって来ていた。この事実に、少しほっとするが、尋斗が発熱している現状には何の変わりもない。


「そうだ、熱を測らないと」


 引き出しに入っていた体温計を取り出し、尋斗のわきの下に挟んだ。尋斗は素直に協力してくれた。


「これで大丈夫かな」


 約1分が過ぎ、鳴った体温計を優しく尋斗のわきの下から取り出して、数値を確認した。


「37.8℃」


 38℃まで行ってないことに少し安心するが、ちゃんと熱がある事実に、そわそわしてしまう。

 次に何をすればいいのか、正解が何か、何もわからない自分に対して、苛立ちを感じ始める。


「ベビーカーがあったんだ、私は、それも忘れていた」


 それだけじゃない、ベビーキャリアもあるし、タクシーでも使えばよかったんだ。


 こんな簡単のことも思いつかなかった。


 こんな私に母親なんて務まるのか。

 両親の娘もちゃんとできない私が、学生もちゃんとできない私が、ダメな男に引っかかった私が、1人の命を育てるなんて、できるのか。


 自分の命を終わらせようとした人間が、一つの命を育てられるのか?


 自分に対しての否定を始めてしまった。今までの失敗と不安が、今日の寝坊と尋斗の発熱をスイッチに一気に襲いかかって来る。


「ウッ」


 感じていた空腹が、いつの間にか吐き気と化していた。胃袋から何か込み上がって来ることを感じると、私はトイレに駆け込んだ。


 胃袋に何も入ってなかった私が吐き出せるのは、ほんの少しの胃酸だけだ。


「ダメだ」


 不快感で満たされた喉からそんな言葉を必死に絞り出す。頭が回らない、何も考えたくない、嫌な現実から全てを投げ出して寝たい。


 やる気も生気も消え、虚になるような感じがする。


 そう感じた瞬間からの思考と記憶が少しおぼろげになった。トイレから出た私は、自分も熱が出ていることに気づいた。


 測ったら37.3℃の微熱だが、なぜか、とても疲れている。


 そんな倦怠な状態でマスクを着けて、手を消毒した。回らない頭でやるべきことがないか考えながら尋斗の手を握って、問題がないかずっと見つめ始めた。


 とても長く感じる時間が過ぎて、やって来たお母さんに心配され、私はベッドの上に寝かされた。

 尋斗に問題がないと聞かされ、私は少し目を瞑ろうとして、目が覚めたら夜になっていた。


 お父さんも来ていた。心配でやって来たお父さんが、私と尋斗を見てくれた。医者であるお父さんが問題ないと言ってくれたのは、とても安心するものだった。


「今日は早く寝なさい」


 夕食を食べ終えて、尋斗の世話をしようとする私に、お母さんはそう言った。


「大丈夫、もう結構寝たから」


「顔に疲れが出ているよ。ゆっくり寝なさい、ヒロちゃんの世話はしておくから、心配しないで」


 私の力のない反論に、お母さんは諭すように休んでと言ってくれた。

 お母さんの方が正しいと悟った私は、そのまま洗面台に行って、歯磨きをして、寝る準備をしようとした。


「あんまり1人で抱え込もうとしないでね」


「うん」


「勝手に責任を感じて、1人で何もかもやろうとするのは、あんたの悪い癖だからね」


「うん」


 お母さんの言葉は正しいものだった。


 昔なら、そんなことないと言い返したかもしれないが、妊娠したことを必死に隠した自分には、その言葉の正しさがよく刺さる。


 1人で何もできない癖に、怖くなって、1人で抱え込む。いけないとわかるのに、そうしてしまう。


 お母さんの言葉に、何も考えずにそら返事を返し、私は口をゆすいだ。そのまま、布団に入って、眠りにつこうと、目を閉じた。


 嫌になった現実から逃げるように、うまく回ってない頭で思いついた、幼稚な逃げ。


 その事実にも気づこうとしないで、私は眠りについた。


 △▼△▼△▼△▼


 体を起こして、日の光が当たる毛布に手を置いて、私はただ壁を見つめている。


「現実なのか」


 さっきまで見ていたものが全部夢だということに気づき、私は現実感を求めて、置いてあったスマホの画面の時刻を見た。


 8時27分


 昼に起きてない事実に安心し、小さく息を吐き出すが、さっきまで見ていた夢のことを考えてしまう。


 具体的な内容はもう大体忘れているが、とても嫌な内容だったことは覚えている。

 友達に笑われて、親に見捨てられて、顔のない化け物が彷徨っている病院から必死に逃げて、でも、逃げ切れなくて、最後は深い湖に沈められて、全てを失った夢。


 表現できないが、とても怖かった。早く、いつもの夢のように全てを忘れたいが、身体中の汗と濡れている毛布が私をその事実から逃してくれない。


「何かしないと」


 まだ残る夢の嫌な感触から抜け出すために、私は起きて、現実感のあることをしようとする。


 布団から出て、タオルで汗を拭く。少しでも、体の不快感を消そうと汗を拭いた。


 寒い季節でも、部屋の中は暖房で暖かい。そのせいか、汗がとても気になってしまう。


 夢の感触から少しずつ戻り、段々と現実感が確実になって来たが、何か大切なことを忘れていることに気づく。

 いつもやっている、いつも気にしている、命よりも大事な何か。


「尋斗」


 ベビーベッドに視線を向けると、毎朝おむつ替えと授乳をしている自分の子がいなかった。その事実に心臓の動きが一瞬止まってしまうが。


「そうか、昨日は私が寝て、お父さんとお母さんが来たんだ」


 頼りになる両親が来ていたことを思い出し、安心して、そのまま床に座り込んでしまった。


「何やってだ、私」


 昨日のことを思い出し、そのまま色んな感情と記憶が込み上がって来る。


 学校での嫌な目線と噂話、まだ運動できない私、両親の手を借りないと育児もままにならない現実、この年で子供ができた自分に対する冷ややかな視線、同情も、気遣いも、等しく私の弱い心を突き刺す。


「意地なんか張らないで、お父さんとお母さんと一緒に暮らせばこんなことにならなかった。何が学校生活だ」


 学校生活を捨てるのが嫌、両親に迷惑をかけたままにするのが嫌、そんな理由で、1人で子育てできるようにと始めた2人の生活。結局は親の手を借りないと何一つこなせない。


「昨日だって、自分の体調も管理できずに、皿洗いも、尋斗の世話も、お母さんに任せてしまった」


 頑張ればいける、頑張らないといけない、そんな考えすらも、私の一人勝手で傲慢な思い上がりでしかない。


「こんな私に楽しい学校生活とか、できるわけがない」


 友達作り、部活動、遊び、期待していた憧れの高校生活、今の私には何一つできない。

 一番大事なヒロの子育ても碌にできずに、学校なんて行っても、無責任でしかない。


「でも、行かないのも、無責任」


 行かないことも、きっと無責任だ。


 子育てにだけ専念すればいいなんて考えた時、親にちゃんとサポートするから学校生活戻るかと聞かれた時、私の胸は罪悪感に苛まれた。

 子供の頃から、私を愛してくれている両親の期待を裏切りたくない、その思いで勉強もスポーツも頑張った。


 ピアノと絵で賞を取って、満点のテストを親に見せて、学校のイベントもできるだけ参加した。


 両親も私を褒めて、忙しいのに、授業参観も運動会も来てくれた。


 順調に人生が進むと思っていた。


 そんな私が、悪い男に引っかかって、妊娠をしてしまって、自殺を考えて、こんなにも迷惑をかけている。


 その事実が、私の心を殺す。


 気にすべきではないとわかっている。でも、多くのものが私に現実を突きつける。


 病院に行った時のあの医者の目線、看護師から子どもの父について質問された時に答えられなかった私、近所からの嫌な目線、こそこそと聞こえる私の話、ネットで調べた高校で出産した人の苦労、目に見えるもの、聞こえてしまう色んなものが、私に嫌なことを考えさせてしまう。


「どこで間違えたのだろう」


 自分の選択の間違い、考えずにいられない。ああすればよかった、あれをしなければよかった。


 だけど、尋斗を産んだことに、否定できるものなんてない。部屋に引き篭もっていた時は、死にたい思いの中、産むか産まないかずっと悩んでいた。

 親に背中を押されて、産むことを選んだ私。

 新しい命も、尋斗の笑顔も、選ばせてくれた両親も、間違いなんかじゃない。


 だからこそ、罪悪感が出てくる、だから、自分を否定したくなる。


 最初に出た考えが自殺だった私、堕してしまえばいいと迷った私、子供産んだ後は首を吊って楽になろうとした私、すでに過去の考えだが、逃げたくなったその自分の心の弱さに、今の自分が追い詰められる。


「子どもからしたら、私はとても情けない母親だろうな」


 父親となるはずの男はどうしようもないクズで、気づけば行方をくらまして消えていた。


 母親の私は、自分のことも碌にできず、まだ金もちゃんと稼げない学生で、いや、今は学生生活もちゃんと過ごしていない、落ち込んでいる弱い人間。


「あんなやつでも、父親として、尋斗に顔を見せるべきだったかな」


 尋斗をクズな男に、会わせるべきかそうではないか以前に、自分の子に、父の顔を見せることもできない。こんな私に何ができる。


 顔と胸しか取り柄のない女なんて、こっちから願い下げだ。


 あの男の最後の言葉が、脳内で小さく繰り返される。


 わかっている、こんな風に自分を責める必要なんてない、こんなことに何の意味もない。でも、不安で仕方がない。今の自分を見て、将来の全てが不安で仕方がない。


「高校で友達を作って、部活をして、勉強をして、バイトして、受験を頑張って、いい大学に行って、いい仕事について、好きな人と結婚をして、2人で素敵な家庭を築く」


 子供の頃から、何となく描いた自分の将来。小さな失敗もあると考えていたが、きっとこんな感じだと予想していた。


「きっと、もう、無理だろう」


 一つ選択を間違っただけで、一つの分かれ道を間違えただけで、一つの歯車で人生の全てが狂ったように、終わってしまう。


「悪いのは、そう、私だけ」


 悪いのは私だけ、こんな風に落ち込んで、将来の事で不安になって、心が折れてしまいそうになる、私が悪いのだ。


 お父さんなら、お母さんなら、きっと、現実に向き合って、頑張っている。


 この世界には私と同じ境遇でも、頑張っている人が沢山いる。


 誰も悪くない、悪いのは、情けない、弱い、私。


 素直に、助けを求められない私。


「私が、いなくなれば」


 その言葉が口から出た瞬間、膝に小さな手が乗った。


「まーまぁ」


 尋斗が私の前にいた。


 自分のことで頭がいっぱいで気が付かなかったが、尋斗はすぐ近くのリビングで遊んでいたことが今になってわかった。


 尋斗は最近覚えたてのハイハイでここまで頑張ってやってきた。


 尋斗がどこにいるか、気づいてなかった自分にさらに、罪悪感が鞭を打つ。


 1人で、こんな落ち込んでいる母親の私と違って、この子は、とてもしっかりしている。


 私のような人間は、この子の親には相応しくないのだろう。


 そう思いながら、私は両手で尋斗を抱き寄せ、座らせた。


 真っ直ぐな目、無邪気な顔、つぶらな瞳、私の嫌な一面まで見抜かれているようで、情けない、嫌な気持ちになりそう。


 こんな母親、きっと嫌なのだろうな。今はそうじゃなくても、きっと、大きくなったら、私がどんな人か知ったら、反抗期で嫌いになる。

 父親もいない、情けない母親がいるだけのかて


「まーまぁ」


 尋斗の口から私をママと呼ぶ言葉が聞こえた。

 しかし、生後5ヶ月の子どもに、ちゃんとした言葉なんて、話せるわけがない。きっと私がこの子の喃語をママと聞こえるように思い込んでいるだけだ。


 そう思っていると、尋斗は再び口を動かした。


「まーまぁ、だいすきだょ」


「私も大好き」


 耳を疑いそうになる言葉に、私は思わず反射で返事をしてしまった。


 ママ、だいすき


 尋斗に、ママと呼ばれて、だいすきと言われた。この事実を体が最初の一瞬で認識した。


 生後5ヶ月、喃語が限界のはずのこの子から、意味を持った言葉出た。

 それも一言ではない、ちゃんと、2語以上の文が話された。1歳にも達していないこの子に、それができるはずがない。


 赤ちゃんがいつから言葉を話すようになるか、楽しみで色々調べた私には、非現実な話だとわかる。

 普通に考えたら、幻聴か、たまたまそう聞こえただけだとわかるだろう。


 でも、目でしっかりとこの子の口の動きを捉えた私には本物に感じる。この子を見つめていた私には幻には思えない。


 魂が、心が、さっきのこの子の言葉が、揺るがない真実だと、伝えて来る。


 あり得るのか?


 おかしくなった、私の、勝手の、妄想じゃないのか


「ながないでぇ」


 柔らかい手が、私の頬に触れた。


 知っている常識を壊す、奇跡のような、この子の、これ以上ない、純粋な愛の言葉。それが、二度も、私の耳に届いた。


「あーう」


 尋斗がもう一つの手を伸ばして、私の顔を触った。


「あれ、わたし」


 涙が、両目から流れ出ていた。聞こえた言葉が本当なのか、色々考えている間に、体は素直に反応して、涙を流していた。

 涙は止まらない、心臓の鼓動は早まる、情けないことに、鼻水も流れ出ている。


 そんな私を、涙と鼻水を気にせずに、この子は両手でハグするように抱きついた、いや、私が抱きしめた。


 聞こえた言葉が幻聴なんて、そんな言い訳はもうできない。


「ごめんね、こんな馬鹿なお母さんで」


 馬鹿な私は、1人で、馬鹿なことを考えて、勝手に行き詰ろうとしてた。でも、この子の言葉から、勇気を貰えた。

 純粋な、何一つ不純物のない、愛の言葉。


 もたらしてくれた力は一言じゃ言い表せない。


 あれ程弱っていた私に、自殺しようとしていた過去の自分から逃げられない私に、最愛の両親にすら迷惑をかける勇気がない私に、進む勇気を与えてくれた世界一優しい言葉。


 これは、きっと、この子にしか、できないこと。


 さっきまであんなにも曇っていた心が、綺麗に晴れている。繰り返された自己嫌悪と自己否定も止まっている。


 1歳もない、自分の子の一言で、こんなにも力が貰えた。1人で落ち込んでいる必要なんてなかった。少し手を伸ばせば、もっと簡単に助けてもらえたはず。


 私には、愛してくれているお父さんもお母さんもいる、心配してくれるクラスメイトも先生もいる。


 出来る事なんて、いっぱいある。


「うん、だから、お母さん頑張る」


 自分の涙と鼻水で汚れている尋斗を見て、私は不細工な笑顔でそう宣言した。それに応えるように、尋斗も素敵な笑顔で笑い返してくれた。


 太陽よりも眩しいその笑顔に、私はかつてない感動を覚える。


 △▼△▼△▼△▼


「おばあちゃんまた新しいぬいぐるみを買ってるね」


「あぅー」


 涙と鼻水を拭いた私は、尋斗とリビングで遊んでいる。

 ベビーマットとその上に置かれた大量のぬいぐるみとおもちゃを見て、私はさっきまで尋斗がここで遊んでいたことがわかった。


「そういえば、尋斗はここから私のところまでハイハイで来たの?」


「あぅあぅ」


「凄いー、尋斗はハイハイの達人だよ」


 生後5ヶ月でこんなにもハイハイができるのはうちの尋斗だけだと確信する。


 今の私は、尋斗が世界で一番特別な子だと思う気持ちが止まらないし、揺るがない。

 バカ親と言われるかもしれないが、さっきの出来事で、自分の子に対する自信が富士山、いや、エベレストよりも高くなっている。


「生後5ヶ月で言葉をあんな上手に話せるのも、きっと尋斗ちゃんだけだよ。ふふ、こんなにも早くママ大好きと言われる母親もきっと私だけだよ。最強の親子だね」


「おぉーう」


「ありがとうねー、この年で親孝行できるなんて、尋斗は世界で一番偉い子だよ」


 尋斗のほっぺたを触りながら、私はさっきの尋斗の言葉を思い出す。


 まーまぁ、だいすきだょ ながないで


 自分の脳内で何回も繰り返して再生しながら、録音できなかったことを悔やむ。


「もう一回言ってくれたりしないかな」


 スマホの録音機能を既につけている私は、尋斗がもう一度言葉を話すことを期待しているが、なんとなく、それはないと悟っている。

 きっと、さっきのは、この子が全力で起こしてくれた奇跡なのだろう。


 簡単に出来ない、常識を破るからこそ、奇跡。


「簡単に出来ないとわかっているけど、やっぱ録音したかったな」


「うぅー」


「大丈夫だよ、さっきのでお母さん最強になったから」


 尋斗の申し訳なさそうな声に、大丈夫だよと頭を優しく撫でる。喃語に戻っているが、なぜか、前より、この子の気持ちがわかるような気がする。


「それにしても、生後5ヶ月でハイハイを上手にできて、ほんの少しの間だけだけど、言葉もちゃんと話せて、お母さんの気持ちもわかる尋斗は、やっぱ特別だね」


「あうー」


「きっと前世は何かの偉人だね、いや、前世は神様なのかもしれないね」


「うーう」


「違うのか、まぁ、前世とかよくわからないし、どうでもいいもん。今の尋斗こそ一番輝いているよ」


 喃語を話す尋斗と会話をして、尋斗のことについて色々考えて、とても楽しい気分になる。例え何があっても、この子を愛す気持ちは変わらないと、そう思う。


「ただいまー」


「おかえりなさいー」


「あぅー」


 玄関のドアが開く音がして、その直後にお母さんの声が聞こえた。私の言葉に合わせるように、尋斗も声を出す。すぐに物が詰まったレジ袋を持ったお母さんが現れた。


「なんだ、もう起きたの。体調は大丈夫?」


「大丈夫、最強に元気だよ」


 私の返事を聞いたお母さんは不思議そうな顔で、私の顔見つめた。


「本当に大丈夫?結構思い詰めていた感じだったから、心配したよ。前の時と同じくらいやばそうだったし、しばらくここにいるつもりだったけど」


「ありがとう、心配してくれて。でも、この子に元気をもらったから」


 大丈夫なフリをしていたのに、お母さんに色々見抜かれていることを、今になって気づくが、親にこんなにも見てもらったことに、嬉しい気持ちになる。


「ヒロちゃんが助けてくれたの。あっ、そうだ、お母さん、尋斗が喋ったの!」


「そうか、喋ったのか」


 私の言葉に、お母さんは微笑んだ顔でいた。きっと私が元気になったことが嬉しいのだろう。しかし、重要なのは尋斗が喋ったことだ。

 世界一奇跡の瞬間を、お母さんに言わないなんて駄目に決まっている。


「本当に喋ったの、ママだいすきって言ってくれたの」


「あぅー」


「ちょっと、今は喋れないみたいだけど、さっきは喋ったの」


 私の言葉を聞いて、声を出した尋斗を見たお母さんは半信半疑な顔で私を見つめて、何かに納得したような顔をした。


「それは良かった。ヒロちゃんがまた成長したということだね」


「お母さん、信じてる?」


「私が信じるかより、琳ちゃんが尋斗の言葉を聞いたことの方が大事でしょう」


 お母さんの言葉に、私は納得してしまう。私が尋斗から受け取った大事な言葉、私が信じていれば十分だ。


「うん、尋斗からもらった大切な宝物。大事にするよ」


「いい親子だね」


 お母さんは買ったものを整理しながら、嬉しそうな顔をしていた。きっと安心しているのだろう。


 心配をかけていたことに申し訳ない気持ちが強くなるが、さっきまで自己否定を繰り返した私と違って、今は恩返しをしたいという考えが結論になっている。


「私、お母さんに負けない、良い母親になる」


「琳ちゃんならきっとなれるよ。でも、わからないことあるなら、私に聞いてね」


「うん」


 普段なら恥ずかしいと感じる自分の宣言だったが、決心は揺るがない。


 学校の生活も、母親も、荒木家の娘も、全て全力で頑張ってやる。挫けることもあるだろう、その時は、人に助けてもらいながら前に進もう。


 そのための勇気は、既に貰っているから。


「一緒に頑張ろうね」


「あぅー」


===============================

いい家に転生した主人公


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