奇峯事務所の20代目~超常恐怖~

七夜雨狸

第0話「空より落ちる雷電の道」

「荒井廻、27歳。趣味は映画鑑賞とゲーム、タバコも酒もやっている。パチンコはなぜかハマらなかった。でも、ソシャゲ課金と風俗で金溶かしているから、関係ないか。はぁ、親父の遺産には手を出さないくせに、こんなところに自殺しに来るとか、俺は馬鹿なのかな」


 雨が降り頻る中、スーツ姿の男はびしょ濡れのまま大木に背を預け、独り言を言いながら座っている。


 誰一人いない樹林の中、男は自己紹介混じりの独り言を、苦笑して言った。


 ここは、有名な自殺の名所、吉神樹海。近くにはキャンプ場や公園が存在するも、その大きな面積と迷いやすい地形から、人喰い森林と噂されている。


 自殺者の遺体の発見のニュース、動画投稿者の不謹慎な動画の投稿、それらがさらにこの場所を自殺の名所としての名を広めた。


 吉神の名とは合わない実態以上の噂だけが、そういう話を好む人によって回されている。


 荒井廻、彼もこの森の自殺の名所としての名に惹きつけられた男である。


 人生の不運に嫌気が差し、自殺を決意した彼は、家に首吊りがちゃんとできそうな場所がないという理由で、わざわざ車に乗ってこの森までやって来た。


「首つれそうな木を探して1時間半、縄を結んでから実行できずに1時間、持ってきた酒を飲んで勢いをつけようとしたのに、酔ってきたら、大雨が降って酔いが覚め始める。何やってんだー、俺」


 地面に落ちている3本の缶ビール、数メートル離れた場所の木の枝についている首吊り用の縄、木の枝と葉っぱの間から落ちてくる雨粒、その全てが男のやろうとしたことと現状を語っている。


 思いついてすぐに車で遠出する勢いも、丈夫な枝を探して縄を結ぶ体力もあるのに、彼には縄に首をかける勇気はなかった。


 死に向かうことを自分の手で実行することは、強く生きていくことと同じく決心と力が必要な行為である。


 今の彼はそのことを強く実感している。


「首吊って死ぬの、思ったより難しいな。雷でも落ちて俺に転生させてくれないかな、いや、転生はトラックに轢かれる方が確実か。そうしたら、つよつよイケメンに生まれ変われるかも。まぁ、生まれ変わっても、俺には何も成し遂げられないだろうけど…」


 男は虚しそうな顔をして、独り言を続けていた。


「頭痛い、はぁ、まだ酔っているな、俺」


 片膝立てて座っている荒井廻は足元に落ちているビール缶を蹴って、頭を掻きながらゆっくりと立ち上がった。


 少しふらついている様子からまだ酔いが抜ききれていないことがわかる。


 彼は立ち上がって、地面に転がっているビール缶を十数秒間じっと見つめ、歩き出す。


 再び強くなった雨の音、彼の足に踏まれる雑草と落ち葉の音、彼の少し乱れている呼吸音、無音とは程遠いはずだが、森林の静けさがこの空間に充満している。


 十数歩歩き、荒井は立ち止まった。頭を上げ、木の枝から垂れている縄を見つめた。


 彼が何回も挑戦し、やっと結べた首吊り用の縄である。その縄も、枝と葉の間から落ちる雨粒で濡らされている。


 その縄から水滴が落ち、荒井の額にぶつかる。


「解くのは面倒だ」


 荒井は何かを決心したような顔でそう言った。言い終えると、彼は長い溜め息を吐き出し、そのまま振り返って再び歩き出した。


「あの縄は本当に使うべき人のために残しておこう。そういえば、来た道はこっちだったかな。んー、スマホのGPSあるから気にせず歩くとするか」


 濡れた髪の毛と服装を気にせず、荒井廻は来た道を一歩ずつ進み始めた。


 樹木が立ち並び、似たような景色が広がっている中、彼は迷うことなく道を進んだ。


 彼が歩いているうちに、空から雷の音が鳴り始めた。


 大雨は雷雨に変わり、雨の勢いはさらに増した。荒井廻はそれを気にせずに足を動かし続けた。雷はまるで彼の行動が気に食わないようにさらに鳴り続けた。


「今のは近いな。音速は毎秒340メートルくらいだから、あの雷と俺の距離は…、あー、よくわからん」


 髪から垂れる水滴を払うように頭を振った荒井廻は、まだ自分の頭が完全に酔いから抜け切れていないことを思い出し、脳内で組み立てた計算式を崩した。


 雷雨の中一人で森を歩くこの状況、普段の彼なら不安があるはずだが、今の彼にはそれを気にする心情はなかった。


 水に濡れ、歩きづらくなった地面の泥の不快感を忘れるように、彼はまた何かに思考を回した。


「うるさい雷だな。そういえば雷に当たる確率は宝くじに当たる確率より高いんだっけ。まぁ、宝くじなんて買わない俺にとっては、雷に当たる確率だけが残るようなもんだな」


 くだらない話を言い終えると、彼はまるで何かを予感したように立ち止まって顔を上げた。


 雨雲に覆われた空を見つめるも、降ってくるのは大量の雨粒。鳴り響いていた雷はいつの間にか静まり、雨の音だけが彼の鼓膜に届く。


 そのような状態が数秒続くと、彼は何かを悟ったように足を動かした。


 踏み出す一歩、歩き出す一歩、速度を上げ、走り出す一歩一歩。その走り姿は何かから逃げていると思わせるものだった。


 草木が生え茂る森の中、彼はつまずくことなく走り続けた。跳ねる泥を気にせず、走り続けた。


「マジかよ、こんなことあるなら宝くじを買えばよかった」


 息が上がりそうな走りをしている彼から、そんな言葉が漏れた。必死に足を動かす体とは反対に、その言葉にはどこか諦め気味な気持ちがこもっていた。


 その言葉に反応するかのように、空に異変が起きる。青い光が雨雲の中から漏れるように見える。


「次はもう少しいい感じに生きたいな」


 速さを緩めずに走る荒井廻の口からそんな言葉が呟かれる。


 その最後の一文字に合わせるように、空から青白い光が降りる。雨風と空気を引き裂きながら一直線に落ち、彼に直撃した。


 それに遅れるように、雷鳴が森を揺らし、鳴り響く。


 青白くきらめく一本の落雷が彼の身に降り落ちた。


 落雷に打たれた荒井は姿勢を崩し、走った勢いのまま前方に転んだ。泥が、葉っぱが、彼の体一面についた。


 彼の服は焦げて破損し、体には火傷が見える。体に刻まれた枝別れの紋様は、10億ボルトを超える落雷の爪痕そのものだった。


 泥がついた彼の体に、雨は降り注ぐ。冷たい雨粒が熱を帯びた彼にぶつかり、熱の流失を更に早めた。


 雨粒の当たる音がこの一帯を包んでいるが、無視できない事実がここにある。


 彼の体からは、呼吸音と心肺音が消えていた。血液の流れも、心臓の鼓動も、脳の動きも、全て停止している。


 ここにあるのは焼かれた肉体のみ。


 この惨状とは無関係のように、雨はさらに勢いを増して降り続ける。絶え間なく、森を包むように、何もかも濡らすまで、強く、太い雨が降り注ぐ。


 無人の森の中、死体が一つ地面に残されている。


 彼の魂はもう、ここにはいない。


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