第3話 故障

《左方向です》

 その声に、進一の身体は迷いなく動いた。

 進一は、道路脇に歩行者や自転車がいなくなったのを見計らって、左にハンドルを切る。

 ――偶然そこにあったコインパーキングのロック板を何とか乗り越え、車止めに当たった前輪が、ごしゃ、と、潰れたような音を立てる。

 一瞬かえったかに思われたカーナビは、再び沈黙していた。

 ――事故にならなくてよかった。

 進一はひとまず胸をろし、もう息をしていない車のキーを抜く。

 それから進一は、老眼鏡と、まだ使い慣れないスマートフォンを手に取った。車とカーナビの修理に加え、ここから帰るための代車も頼まなければならない。

 いざというときのためにと、進一よりは電子機器の扱いが得意な明枝が、自動車のトラブルがあった際の連絡先を電話帳に登録してくれていたはずだが、どれだったか――。

 上下に動く図と文字の並びを映す老眼鏡に、不意に、青い光が映り込む。

 進一はすぐには気付かなかったが、それは、カーナビの起動画面であった。

《お誕生日おめでとうございます。直進方向です》

 その声が聞こえたとき、進一は驚き、顔を上げて、そして、また笑った。

 このカーナビは本当に、壊れてしまったようだ。

 エンジンは切れているのに起動して。

 誰の誕生日でもない日に、誕生日用のお祝いメッセージを再生して。

 お祝いメッセージの後に、道案内用の音声までくっつけて。

 ――それに進一は、カーナビに誕生日の設定などしていない。何故なら、彼の誕生日には毎年、明枝が目の前で『誕生日おめでとう』と言ってくれたからだ。

《お誕生日おめでとうございます。直進方向です》

 カーナビは、進一が笑ったのを分かっているかのように、同じ音声を繰り返して再生する。

《お誕生日おめでとうございます。直進方向です》

「はいはい、ありがとう」

 進一は彼女の明るい声に返事をしながら、連絡先を探し続ける。

《お誕生日おめでとうございます。直進方向です》

「はい、ありがとう」

《お誕生日おめでとうございます。直進方向です》

「うん、ありがとうって」

《お誕生日おめでとうございます。直進方向です》

《お誕生日おめでとうございます。直進方向です》

 ――やけにしつこいな。

 カーナビは壊れていると分かっているのに進一はそう思って、動かない車の中で、老眼鏡の上から直進方向を見る。

 ――あれは。

 進一には、彼女が言いたかったことが分かった。

「分かったよ」

 進一が青く光る画面に向かって呟くと、彼女の、誕生日を祝う声と進行方向を指示する声はぴたりとんだ。画面の光も消えて、死んだような黒色になってしまった。

 寂しかった。

 進一はそれから、どうにかして連絡先を見付け、電話でレッカー車を手配したが、修理も、代車も頼まなかった。

 代わりに、廃車の買い取りを申し込んだ。

 渋滞で、レッカー車が来るまでに時間がかかるということだったので、進一は車をりて、直進方向にある建物を目指す。

 黒い建物は、見たところ、六階建ての雑居ビルといった様子だ。都会ならではの狭い土地いっぱいに詰め込まれたビルには、看板がいくつかかかげられているが、進一は、自分が行くべき場所を知っていた。

 エレベーターホールや階段のあるビルの入り口に、扉などはもうけられていない。

 そこへ向かって歩きながら見上げると、黒いビルに切り取られたでこぼこの空は、目に染みるような明るい血の色をしていた。

「行くから」

 彼女の返事はなかったが、彼女は死んでから、いつもそうだった。決まった言葉を、決まったタイミングで言うだけ。そうして彼女は、進一を目的地へと正しく導いた。

 しかし、そんな彼女の声を、進一が聞くことはもうない。それが、彼女の望んだことだ。

 進一は痩せた膝を押さえ、ビルの入り口に通じる階段をのぼった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る