第2話 楽しい道案内

 進一の妻、明枝あきえは、声の仕事をしていた。

 世間で有名になるようなことはなかったが、落ち着いていながらも明るい彼女の声が聞き取りやすいと、彼女はコマーシャルのナレーションや様々な施設のアナウンスに引っ張りだこであった。

 彼女が亡くなったのは、昨年のことだ。

 進一にはまだ早いと感じられたが、老衰ろうすいであった。

 ある土曜日の晩、進一と明枝はいつものように、明日はドライブデートだねと約束をした。

 翌朝、彼女は眠ったまま亡くなっていた。

 遺体に苦しんだ様子はなく、穏やかな顔どころか、にまにまご機嫌きげんに笑った顔をしていた。

 ――彼女のことだから、愉快ゆかいな夢でも見ていたに違いない。

 彼女は、おかしな人であった。

 進一が風邪かぜを引いた日には、いっぱい食べれば元気になるからと言って、豪華絢爛ごうかけんらんなフルコースをこしらえた。

 進一が仕事で失敗して落ち込んでいる日には、笑えば元気になるからと言って、勝手に大宴会をもよおしたうえに、油性ペンで自分の腹にでかでかと顔をいて、腹踊はらおどりまでしてみせた。

 彼女は、おかしな人であった。

 ――進一の愛するカーナビに収録されている音声は、明枝の声だ。

 彼女が亡くなる十年ほど前にこの仕事が決まったとき、明枝は、これから顔も知らない大勢の人とドライブができると、大喜びしていた。

 それからおよそ一年が経ち、明枝の声が収録されたカーナビが搭載された車が発売された頃、ちょうど二人の自家用車も買い替えの時期が来たので、二人は最新の安全運転サポートシステムと、そしてもちろん、明枝の声のカーナビが搭載された、この車を購入したのであった。

《○○町交差点を、右方向です》

「はいはい」

 進一は右のウインカーを出しながら、微笑ほほえんで返事をする。

 今日の目的地は、まだまだ先だ。まだまだ、ずっと、彼女とのドライブデートを楽しむことができる。

 進一は、あまり広くはない交差点を、ゆっくりと右折し――。

《およそ三百メートル先、左方向です》

 その案内に、進一はくびかしげる。

「左?」

 さっきは道なりと言っていたのに。

「……急に、混み始めたのかな」

 カーナビの設定を『渋滞回避優先』にしているので、急に渋滞し始めた場所があれば、その場で案内が変わることもある。

 進一はそう考えてから納得して、左折レーンに入る。

《およそ三百メートル先、左方向です。その先、左方向です。その先、左方向です》

 まだ最初の左折もしていないのに、彼女が、矢継やつばやに道順を指示してくる。

「……戻っちゃうけどな?」

 進一はそう言いながら、笑ってしまった。

 カーナビの音声を担当した明枝自身は方向音痴で、カーナビが無い時代や、カーナビの調子が悪いときには、助手席で、きゃあ危ないだのわあ危ないだのと騒ぐだけでなく、地図を見ながらあれこれと進一に指示をしたが、彼女がいくら真剣にやっても絶対に目的地に辿たどけないので、ついには諦めて、わざとめちゃくちゃに指示を出すようになったのだ。

 しかし、二人の目的はいつも、ドライブデートであった。

 なので、着いた場所が人っ子一人いない荒波の海岸でも、心霊スポットの廃工場でも、予想外の遊園地でも、それでよかった。

《目的地まで、道なりです。およそ五百メートル先、右方向です。およそ三百メートル先、左方向です》

「どういうこと?」

 進一は笑いながら、できるかぎり彼女の言う通りにしてみる。

 カーナビは壊れたらしい。

 それでも、彼女の声がたくさん聴けるのなら、進一はそれでよかった。

 しかし。

 何処いずことも知れない都会の街中まちなかで、彼女の声を乗せた車が急に、膨らませるのに失敗した風船のような音を立てる。

 それから車は、一切の音を出さなくなった。

 エンジンの音も、彼女の声も。

 進一はゆっくりとブレーキを踏んでみるが、何故なぜか、手応てごたえすらない。

 車は、ただ床に転がされただけのビー玉のように、物理法則に従って速度を落としていく。

 急停止はしない――というかできないので、玉突き事故になることこそないだろうが、脇から歩行者でも出てきたら確実にいてしまう。

 後方で、激しくクラクションが鳴らされる。

 その音には、進一の身体からだは硬直してしまったのに。

《左方向です》

 その声に、進一の身体は迷いなく動いた。

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