奥さんはカーナビゲーションシステム

柿月籠野(カキヅキコモノ)

第1話 ドライブデート

《およそ七百メートル先、右方向です》

「うん、右ね」

《その先、およそ三キロメートル、道なりです》

「道なりね」

 進一しんいちは毎週、決まって日曜日に、愛する女性とのドライブデートをする。

 彼女は、進一にとっては大事な人であるが、進一でない人にとっては、ありふれたカーナビゲーションシステムであった。

 進一は、カーナビに録音されている、道順を案内する女性の声が好きで好きでたまらなかった。

 車内に明るく転がるその声は、機械越きかいごしなのに、黒真珠のような深い艶を帯びていて、白百合のような華やかな香りまでしてくるようなのだ。

《およそ五百メートル先、右方向です》

「うん、知ってるよ。さっき聞いた」

《その先、およそ三キロメートル、道なりです》

「それも知ってるよ」

 進一は声を上げて笑うが、定期的な道順のリマインドを終えたカーナビは、次のリマインドのタイミングまで完全に沈黙する。

 毎週のドライブデートの行き先は、進一が適当に決める。今日などは、隣県の見知らぬ大通りに立ち並ぶコンビニエンスストアの一つだ。

 しかし、進一の目的は彼女に喋っていてもらうことだから、それでよかった。

 さらに言えば、進一はカーナビを『渋滞回避優先』の設定にして、細かい道を何度も曲がるような道順が案内されるようにしている。そうすれば、彼女が《右方向です》、《左方向です》と喋ってくれる回数が増えるからだ。

《およそ三百メートル先、右方向です》

 進一が、待ちに待ったその声に返事をすることはできなかった。

 ビビビビビビッ!

 交差点に突っ込む直前で車内に鳴り響いた警報音に促され、何とか急ブレーキをかけた進一を、歩行者たちはおびえた目で見ながら、または迷惑そうな目でにらみながら、横断歩道を渡っていく。

 進一は、シートベルトの食い込んだ右肩を左手でさすりながら、ハンドルにしがみついている、しわと染みだらけの右手を見下ろす。

 ――分かっている。

 進一はもう、安全に車を運転できる年齢ではない。

 しかし、危険を知らせたのがではなかったとき、進一はやはり、まだこの車を手放したくないと思ってしまうのだった。

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