じょうずにだまして


「彼氏と別れたの?」


「んー、別れたって言うか、僕が一方的に出てきた感じ。きっと、今ごろ僕の部屋で泣いてるんじゃない?」


「かわいそー」


 平坦な声でそう言ったあと、カランとカシスオレンジの氷を揺らしながら、水滴で少し濡れた指先を彼女は見つめていた。


 机に置かれたまま湯気を立たせる雑多な料理の数々も、未だ手付かずのままだった。


「ねぇ、その彼のことかわいそうって思う?」


「僕が?あんまりかな」


「そっかー、じゃた相槌失敗だね。ごめんごめん」


 少し笑ってから、彼女は僕の目を見て、また笑った。目をゆっくり細めて、嬉しそうな表情を作る。


「飲まないの?それ」


「リュー君の、まだ来てないじゃん。乾杯しよ、乾杯」


「後でいいよ、そんなの」


「えー、折角待ってるのにー」


 顔を近づけて、彼女は唇を尖らせる。そのまま徐々に近づけて、その顔をストンと僕の首元に落とした。


 チッ、と音がして、僕の首筋に刺激が流れる。


 そのまま彼女はグラスから手を離して、僕の体へと指先で触れてくる。


 湿った指先は彼女の体温に晒されて、ぬるく僕の肌に纏わり付いた。


「ねぇ、私ずっと待ってるよ?」


「勝手に待ってるだけでしょ」


「んーん、約束したもん」


「なんて?」


「幸せになろうねって」


「幸せじゃないの?」


「今はリュー君がいるから、少し幸せ」


 でもね、と彼女の口が僕の首元で形を変える。指先で触れていただけの手が、やがて接触する面積を増していき、するりと体を這う。


 ふと彼女の表情を見ると、それはやはり変わらない笑顔だった。


 だけど、その目に湛える感情が深く重くなっていることに、気づかないわけにはいかなかった。


「だけど、多分帰ったら幸せじゃなくなっちゃうから、リュー君。約束、守ってほしいな」


 嫌だよ。


 だって、その約束を果たしたら、僕が幸せになれないんだもん。


 彼女からは死神の乾いたぼろ絹の匂いがする。幸福とは反対の、黒い穴から香り立つものだった。


 そこまで思って、ふと彼女の髪から香ったのは、昔僕が誕生日に買い与えた安物の香水の匂いだと思い出した。


「ハイボールでーす」


「ありがとうございます」


「おー来た。じゃあ乾杯しよっか」


「「かんぱーい」」


 辛い日は、酒を飲む。運が良ければ苦しいことも、気づけば明日には忘れてるから。


 しかし喉を通るのは冷たい不快感だった。彼女は終始嬉しそうな表情を崩そうともしないで、僕に笑いかけてくる。居酒屋の冷房は効きが良くて、いつまでも座っていると肌寒くなってくる。


 アルコールが効いてくると、逆に暑いくらいになる。纏わりついてくる彼女は羽織っていたナイトガウンを脱ごうともしないで、僕のすぐ側でちびちびカシオレを飲み続ける。


 彼女は食事には手をつけないで、専ら箸だけを動かしている僕の横顔を偶にチラリと見ながら、またカシオレをちびちび吸うだけ。


 彼女にはそれが幸せなんだろう。


「ずっと一緒にいて欲しいの。部屋は私の住んでるところか、リュー君のところか、それか二人で新しく見繕ってもいいし、大学出たら、ううん、もう今からでも一緒に住みたい」


「僕、彼氏いるんだけど」


「どうせもう別れちゃうんでしょ?いいじゃん、また私と付き合おうよ。料理もちょっとは上手くなったんだよ?」


「でも、彼氏いたんじゃなかったっけ」


「ここに来る前に、メッセ送っておいた。前の彼氏とより戻すって。どうせ繋ぎだったし、リュー君の方が大事だし」

 

 彼女の彼氏は、会ったことがある。とても面倒臭そうな人だった。今どき珍しい四角いレンズのメガネをかけた、神経質そうな表情を崩さない人。真面目で鈍感だけど、優しいって彼女は言ってた。私の事をちゃんと好きでいてくれてるって。


「ふーん」


「なにそのリアクション〜。もうちょっと喜んでよー」


 裏切られた彼は僕を恨むのだろうか。


 いや多分、彼は自分を責めるのだろう。


 善良な人間のしそうな事だ。


 僕は心の中で薄く笑って、箸を置いた後彼女に向き直った。


「じゃあ、また鍵あげるから、ウチに来てよ」


「えー!やったぁー!」


「その代わりさぁ、彼氏の説得手伝ってくれない?」


「うん!やるやる!嘘ぉーやったー!」

 

 

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