龍穴の実存・2

 足の裏が畳を擦る音、肉がぶつかり合う音、相手の道着を掴み合うことで発生する衣擦れの音。

 くるりと体位を反転させられ、畳に打ち付けられる音は一際大きく道場に響き渡る。

「もう一本!」

 黄前は茶髪のポニーテールを揺らしながら畳の上に転がる男に喝を入れる。畳の上で大の字に倒れているのは息を切らして全身汗まみれになっている藤田だ。

「ええ……もう一本っすか……」

「俺はまだ余裕だぞ」

 黄前は言葉の通り、汗はかいているものの藤田ほど息を切らしている様子はない。気力も充実しているようだった。黄前と稽古をつけるときは毎回そうだが、己の体力はこんなにないものかと不思議に思える。藤田自身は五体満足であるが、黄前の道着裾から覗く左足は義足だった。カーボン製の人の足を模した物を装着している。体重負荷などを考えるとハンデは十分に大きいはずなのに、なぜかいつも藤田が先に音を上げてしまう。

「……せめて休憩を入れませんか。一時間投げられっぱなしはキツい」

「……そうだな」

 黄前は藤田の様子に不満を言いたげではあったが、一度飲み込むことにしたらしい。

 本日の持ち回りは警備ではなく、鍛錬や雑務のために設定された勤務日だった。トレーニングのために設けられた道場は様々な筋力強化機器も設置されており、ここへ来れば誰かしらが自己の肉体を追い込んでいる姿を見ることができる。実際に藤田と黄前以外にもランニングマシンでひたすら有酸素運動を続けている者や、繰り返しダンベルを持ち上げている者もいた。

  藤田は黄前に引き起こされながら、道場に視線を巡らせて呟く。

「今日は人が少ないなあ……」

 それでもいつもより人が少ない。

 通常であれば勤務時間前に肩慣らしで軽く運動をしにくる職員や、自社の福利厚生を大いに活用しようと試みる研究者がいるのだが、今日はそういった人間はいない。

「そりゃそうだろ。昨日の騒動で文科省と経産省のお偉いさんが東京からすっ飛んできたらしいぞ」

「えっ、そうなんすか」

「役人が来たとなれば研究者方も警備も動く必要があるし、道場もスカスカになるに決まってるよな。おかげで訓練がしやすくて助かる」

 役人が来京しているということに驚く藤田に、黄前はどこか論点のずれたような喜びの顔を見せていた。その笑顔は幼い少年のようで、本当に稀ではあるが、藤田はこの男が自分よりも年上だという事実を疑問に感じることもある。

 そして元々技術屋――巫子だったはずの男が鍛錬好きの戦闘好きというのは藤田にとっては歪にも思えた。だが、それもいつものことなのだ。藤田は粛々と黄前の「投げ」を受け入れるしかない。この男が満足するまで鍛錬の時間が続くことにはもう慣れてしまっていた。あと一時間以内で訓練が終わればいいのになあと思いながら、ペットボトルの水を半分以上一気に胃の中に流し込む。そしてなるべく休憩時間が長くなるように、黄前との会話を長引かせることに決めた。

「――経産省はともかく文科省もですか。神社の管轄が文科省でも、経産省だけで事足りる話じゃないんですかね」

「ん? さっきの話か」

 黄前は道場の端に備え付けられたベンチに座り、汗を拭っていた。そして少しだけ考える素振りを見せてから藤田の目をゴーグル越しに見つめる。

「V……お前は、神は実在すると思うか?」

「えっ……んん?」

 黄前の問いは藤田の予測していなかったもので、完全に不意を突かれたと思った。

 昨日、ウカノミタマとされる男の映像が公開された後、財団と研究所に大勢のマスコミが押し寄せていたが、二団体共に未だ沈黙を貫いている。

 それまで龍穴は有形ではないとされていた。そして藤田を始めとした多くの日本在住者はそのように教わってきた。

 黄前はじっくり藤田の答えを待つ。何か言わない限り、このまん丸の瞳はどこへ逸れることもないということも藤田は知っていた。

「ええっと……龍穴は実体を持たない、だから神もいない、みたいな理論だったと思いますけど……あくまで龍穴というのは人の信仰の集う場所に発生する力場みたいなもので、それを利用しているにすぎない。だから神は実在するのか、というよりも、いてもいなくても良いんじゃないか、という感じ」

「その理屈が、前提が、実は間違っているとしたらどうなる」

 まん丸の視線はまだ藤田の目から逸れることはない。

「前提?」

「信仰が必要だというのはそうかもしれない。実際そういう場所で龍穴を確保しているわけだからな……だが神が存在しないという証明はされているのか?」

「……隊長、俺も知ってますよ――それって『悪魔の証明』って言うんだぜ」

「神なのに悪魔か。面白い」

「いやいや、冗談は言ってないんですよ……でも実際に龍穴が神という存在から供給されるものだとして、しかもそれが有形のものであるなら……」

 藤田はそこまで発言して、背中が粟立つのを感じた。

 龍穴とは膨大なエネルギーだ。それが有形のもので、しかも人間の形をしている――大きさがたかだか少し背が高いくらいの人間であるのだとしたら。

「……どうだ。少しは危機感が湧いたか?」

「いやいや、そんな……あんな炎を放つ危険人間を攫おうとする頭のおかしな連中が出てくるわけ……」

「だが、お前はそこに思い至っただろう。もっとも、昨日の男が本当にウカノミタマであるなら、ということが大前提だが。V、お前が思うよりも世間はバカに満ちているぞ。神の手や足をもいででもあの男を担ぎ上げて、龍穴を強制的に奪おうとする連中がいてもまったくおかしくない」

「……罰当たりだぜ、そんな連中は。天罰が下るに決まってる」

 黄前の少しグロテスクな表現に、藤田は茶化すことしかできなかった。藤田の信心深い言葉に黄前は苦く笑いながら話を続ける。

「……あの男が本当にウカノミタマなら、という話だ。文科省は神の実在の確認に来たんだろう――今のところ情報が下りてきていないから全部俺たちの妄想の話だよ。それに俺は昨日も言ったが、あの男とお前には……」

 言葉を続けようとした黄前だったがそうもいかなくなった。道場の出入り口付近が突然騒がしくなったのだ。静寂そのものだった空間に一気に音が満ち溢れる。

 十数人もの足音が響き、数人の会話は至って喧喧諤諤とした様子だった。

「――ですから、警備は私共の方から追ってシフトを共有しますので」

「いいや、僕が決めるね。僕の身辺警護は僕の目で人員を判断するよ」

「『ウカノミタマノカミ』自身がそう言っているんだ。お前たちの干渉するべきものではない」

「警視庁からも何人か配備をいたしますので、どうぞ先走らないでくださいませんか」

「いいや、僕の勘がこっちに良い人材がいると言っているんだ。そちらこそどうぞ僕にはお構いなく、普段の業務を進めてくれたまえ!」

「勘……勘ってどういうことですか!」

 幾人かの困惑した声色とその中でも朗々と響き渡る美しい声。

 藤田と黄前が事態の把握に出ようとしなくとも、事態の方が道場へ雪崩れ込んできた。

「やっぱり、人の見極めは道場で行わないとね!」

 舞台役者のように張りのある声が道場内に響き渡る。

 白いスリーピーススーツの下には黒いシャツを身に付け、真っ赤なネクタイを締めたド派手な格好の人間。右大腿には物々しい大きめの拳銃を装備している。身につけているものだけでも十分に規格外であるが、その顔を見たときに藤田はやっとその人物が誰なのか判別できた。

 昨日の動画では袴を身につけていたため一瞬で判断することはできなかった。

 道場に乗り込んできたのはウカノミタマと推定される美しい男であった。

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