満開の桜の木の下で、もう一度あなたに

春風秋雄

俺の部屋に誰か侵入しようとしている

部屋で仕事をしていた俺は、思わず身構えた。部屋のドアの鍵穴に鍵を差し込み、無理やり開けようとしている謎の人物がいる。この部屋には俺しか住んでいないので、鍵は俺しか持っていない。この部屋に引っ越してからは付き合った女性もいないので、合鍵を渡す相手もいなかった。謎の人物は鍵をガチャガチャやっているが、鍵は開かない。そうこうするうちに、ピンポン・ピンポンとドアフォンを連打し出した。それでも俺が出ないものだから、ドアをガンガン叩き始めた。一体何者だ?俺は恐る恐るインターフォンのモニターを覗く。すると、そこには男性の姿が写っていた。モニター越しなのでよくわからないが、70歳は過ぎているように見える老人だ。まったく知らない顔だった。

「どちら様ですか?」

俺がインターフォン越しに話すと、老人は少し驚いたような顔をした。

「俺だ、開けてくれ」

だから、一体誰だよ?

「何の御用ですか?」

「何言っているんだ?鍵を開けようとしても開かないんだよ。家に入れないじゃないか」

ひょっとして、この人は部屋を間違えているのか?

俺はドアのところまで行ってチェーンロックをしてからドアを開けた。老人がドアの隙間から除いた俺の顔を見て驚いた。

「お前は誰だ?」

それはこっちが言いたいセリフだ。

「私はここの住民ですが」

老人が困惑した顔をした。

「じゃあ、俺の家はどこだ?」

「このマンションにお住まいですか?部屋は何号室ですか?」

「えーと、えーと、何号室だったかな」

ひょっとして、この老人は、自分の部屋がわからなくなっているのか?俺は靴を履き、チェーンロックを外した。外に出て老人と向き合う。よく見ると、半袖のTシャツを裏表逆に着ている。

「じゃあ一緒に部屋を探しに行きましょう」

俺は部屋に鍵をして老人を連れてエレベーターに乗った。おそらく階数を間違えているのだろう。まずはひとつ下の階の俺の部屋と同じ位置にある部屋のインターフォンを鳴らした。しかし、その部屋の住民ではなかった。今度は俺の部屋の上の階を訪ねる。インターフォンを鳴らすと、年配の女性の声がした。

「すみません、下の階の結城と言いますが、このご老人をご存じないでしょうか?」

俺はそう言って、老人の顔がモニターに映るようにした。

「お父さん!」

女性がそう言ったかと思うと、すぐにドアが開いた。

「どうも部屋を間違えたようで、私の部屋の鍵を開けようとなさっていたのです」

俺がそう説明すると、女性は平謝りに謝った。女性はこの老人の奥さんのようだが、まだ60歳前後にしか見えず、年の離れた夫婦なのだなと思っていたら、女性の説明によると、ご主人は2年前に定年退職してから物忘れがひどくなり、最近では認知症の症状も出てきたという。2年前に定年退職というので老人の年齢を聞くと、まだ67歳だということだった。67歳であれば若年性認知症とは言わないだろうが、それでもそんな年で認知症になられたら家族は大変だろうと思った。名前は橋爪さんといい、娘さんと3人で暮らしているということだった。

その日の夜、橋爪さんの娘さんが、菓子折りを持ってお詫びにきた。

とても綺麗な女性で驚いた。本当にあの老人の娘さんなのか?でもお母さんにはどことなく似ている。

「昼間は父が大変ご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした」

「いや、私は大丈夫です。聞くとご病気のようですから仕方ないですよ」

「今後はこのようなことがないように気をつけます」

「気を付けると言っても、家族にできることには限度がありますからね。私は在宅での仕事ですので、何かあったら協力しますので、遠慮なく言って下さい」

「そう言ってもらえると助かります」

娘さんはそう言って帰っていった。

昼間は、変なことで仕事の時間を取られてしまったと、ちょっとムッとしていた俺なのに、綺麗な娘さんに菓子折りを頂いたら、思わず協力すると言ってしまった。橋爪さんの家族は娘さんと3人暮らしだと言っていた。すると娘さんは独身ということか?年齢は30代の中頃だと思うが、本当に綺麗な人だった。名前を聞けなかったのが残念だった。


俺の名前は結城孝輔(ゆうき こうすけ)。38歳の独身だ。フリーのグラフィックデザイナーで、自宅を仕事場としている。1年前まではデザイン事務所で働いていたが、昨年独立し、仕事も軌道に乗ったので、半年前に仕事場兼住居として3LDKのこのマンションに移って来たのだ。


あの件以来、橋爪さんの家族と顔を合わせると挨拶くらいはするようになった。

あれから半月ほど経った昼間、遅い昼食を食べに外に出ると、橋爪さん夫婦がどこかへ行こうとしているところにバッタリ会った。

「お仕事で出かけられるのですか?」

奥さんが聞いてきた。

「いや、遅い昼食を食べに行くところです」

「結城さんはお独り住まいでしたね。食事は外食ばかりですか?」

「そうですね。どうしても外食かコンビニ弁当になってしまいますね」

ほんの世間話程度の軽い会話だったのだが、その夜、橋爪さんの娘さんが部屋を訪ねてきた。

「これ、たくさん作りすぎたので、良かったら召し上がりませんか?」

娘さんはタッパーに入ったクリームシチューを差し出した。

「いいのですか?シチューなんて、久しく食べていないので嬉しいです」

「喜んで頂いて、良かったです。タッパーは100均で買ったものですから、返さなくてもいいですからね」

「あのー、良かったら名前を教えてもらえませんか?」

「私ですか?私は史佳(ふみか)です。歴史の史に人偏に土二つの佳で史佳です」

史佳さんか。穏やかそうな雰囲気が名前に合っているような気がした。


仕事が一段落して報酬が入ったので、俺は近所のバーに飲みに行った。すると、カウンターの隅に史佳さんが座っていた。目が合ったので会釈して離れた席に座ろうとすると、史佳さんが「お独りですか?」と聞くので、そうですと答えると、「よかったら、こっちに座りませんか」と言ってくれたので、俺は史佳さんの隣に座った。

「ここはよく来られるのですか?」

史佳さんが聞いてきた。

「私はこっちに引っ越してきてまだ半年なので、ここは3回目です。史佳さんは?」

「私は、最近は週に1回は来ています。たまにこうやって息抜きをしないと、爆発しそうで」

「お父さんのことですか?」

「そういう病気だからということは分かっているのです。分かっているのですが、どうしても・・・」

「仕方ないです。認知症の家族を抱えた家庭はどこもそうだと思います」

「今はまだいい方だと思います。これからどんどん症状が進んだらと思うと、辛くなってきます」

「私の祖父も認知症でした。母がずっと付きっ切りで大変でした。このままだと母の体が持たないと、父が施設を見つけて祖父を施設に入れました」

「うちも先々は施設に入れた方がいいのでしょうけど、母は施設に入れるのは反対なんです。もっとも、特養の条件を満たしていないので、高額なところしか入れないから、経済的にも無理なんですけどね」

「お母さんはどうして反対されているのですか?」

「父と離れたくないのだと思います」

「お母さんは、お父さんを愛しているのですね」

「とても仲の良い夫婦です」

「史佳さんは、ご結婚は?」

「一度結婚しましたが、義両親と同居だったので、姑との折り合いが合わず、我慢しきれずに離婚しました。でも離婚して良かったです。私が家にいることで母を少しでも助けることができますから」

それから俺たちはお互いのことを少しずつ話した。史佳さんは現在36歳だった。話が途切れたところで、史佳さんはそろそろ帰らなければと言って、先にバーを出て行った。


依頼先との打ち合わせから帰ると、橋爪夫婦が買い物から帰って車から降りるところだった。旦那さんは足元がおぼつかない。奥さんは買い物袋を左手に持ち、右手で旦那さんを支えようとしているが、買い物袋が重いのか、大変そうだった。俺は夫婦に近寄った。

「買い物袋、私が持ちますよ」

奥さんは俺の顔を見て少し驚いたようだったが、俺が手を差し出すと「じゃあ、お願いします」と言って買い物袋を渡してくれた。一緒にエレベーターに乗り、橋爪さんの階のボタンを押す。

「早苗さん、醬油がなくなっていたぞ。買いに行かなくていいのか?」

「今買ってきたでしょ。大丈夫ですよ」

奥さんは早苗さんというのか。それにしても、旦那さんの認知症は思ったより進んでいるようだった。

橋爪さんの部屋の前まで行き、買い物袋を渡すと、早苗さんは「ありがとうございました」と礼を言って旦那さんを部屋に入れた。

俺は階段でひとつ下の階に下りながら、祖父の認知症でお袋が苦労していた姿を思い出した。俺がまだ高校生の時だった。あの苦労を橋爪さん母娘がしているのかと思うと、何とも言えない気持ちになった。


史佳さんとは、バーで度々会った。その度に俺は史佳さんの隣に座って一緒に飲んだ。

「結城さんは、どうして結婚しないのですか?」

唐突に史佳さんが聞いてきた。

「どうしてと言われても、縁がなかったからとしか言いようがないですね。付き合った女性は何人かいましたが、いずれも結婚までには至りませんでした」

「お仕事は順調なのでしょ?」

「お陰様で。独立したおかげで、デザイン事務所で働いていた時の、倍以上の収入になりました」

「すごいですね。だったら、私と結婚してください。そして私をあの部屋に住まわして下さい。結城さんの部屋からなら、父に何かあっても飛んでいけますから」

「なるほど、それは名案ですね。史佳さんが結婚して家を出るとしたら、お母さんから連絡があれば、すぐに飛んで行ける場所に住むのがベストですものね。そう考えると私の部屋は打って付けだ。でも、それが理由なら、あのマンションに住んでいる住民であれば、結婚相手は私でなくても誰でも良いということですよね?」

「私、あの部屋を出たいのです。母を手伝って父の面倒をみることは仕方ないと思うのですが、家に帰ってずっと一緒だと、仕事の疲れが全然抜けないのです。父の年金だけでは生活が厳しいので、私も生活費を入れているのですが、そうすると近くにアパートを借りて住むお金がないのです。せめて夜だけでも離れて、ゆっくり寝たいんです」

「気持ちはよくわかりますけど、そのために私と結婚するというのは如何なものですかね。そこに私への気持ちは何もないのでしょ?」

「そうですね。そんな私なんかを嫁にもらったら、結城さんが迷惑ですよね」

「史佳さんは綺麗な方ですし、こんな女性と一緒に暮らせたらいいなとは思います。でも、愛のない結婚は嫌ですね。あなたのご両親のように、いくつになっても離れたくないという結婚をしたいです」

「父は認知症になってから、母のことを早苗さんと呼ぶようになりました。それまでは早苗と呼び捨てだったんです。母は、最初は驚いていましたが、結婚する前の恋人時代に戻ったようだと言って、まんざらでもないようです」

「二人とも結婚前の、恋人時代に気持ちが戻っているのかもしれませんね。とても素敵なご夫婦です」

「そうかもしれませんね」

「史佳さんは、私と結婚しようと言うくらいですから、私に抱かれてもいいという覚悟はあるのですよね?」

史佳さんが警戒するように俺を見た。

「もし、それくらいの覚悟があるのであれば、実際には私は何もしませんが、夜は私の部屋で寝てもらってもいいですよ」

史佳さんは意味が理解できないようで、ポカンとした顔で俺を見ている。

「別に結婚とか、同棲とかではないです。単純に寝床を提供するだけです。少し片づけすれば一部屋空きますので、夜寝る時だけ私の部屋に来て寝て、朝起きたら自分の家に戻ればいいです。単に寝室を提供するだけですから、私に対して何もする必要はないです」

「そんな虫の良い話がありますか?結城さんには何もメリットないじゃないですか」

「メリットとか考えて提案しているわけではないのです。以前お話したように、私の祖父も認知症で、家族が苦労しました。私も大学受験があるのに、落ち着いて勉強できなかった経験があります。だから、史佳さんの気持ちがよくわかるのです」

史佳さんはジッと考えているようだった。

「まあ、お母さんが何と言うかわかりませんけどね。一応男の部屋に泊るわけですから」

「一度、母と相談してみます」


史佳さんはその2日後から俺の部屋で寝ることになった。

「お母さんは何も言いませんでしたか?」

「あなたも子供じゃないんだから、自分で決めなさいって言ってました」

3LDKのうち一部屋を空けて、そこに布団を敷いて寝てもらうことにした。史佳さんは夜になるとトートバッグにパジャマなどの着替えと歯磨きセットを入れて俺の部屋にくる。朝は俺が寝ている間に部屋を出て、鍵をかけて、その鍵はドアポストに落として帰るといった形で、ほとんど俺と顔を合わせることはない。夜はシャワーを浴びてから来るし、朝は起きて歯磨きだけして帰るので、スッピンの顔を見られたくないということだった。

2週間もして、その生活に慣れてきた頃、早苗さんが昼間にやってきた。

「主人は今日、デイサービスでのお泊りですので、夕飯は3人で、ここで食べましょう。夕飯を作ったら持って下りますから、外に食べに行かないようにしてくださいね」

「私がそっちへ行ってもいいですよ」

「うちは主人の物とかでちらかっているので、こちらの部屋を使わせて下さい」

そう言って帰って行った。

夜になると早苗さんと史佳さんの二人で、次から次へと料理を運んできた。すごい御馳走だ。缶ビールで乾杯をして、料理を頂く。どれも凄く美味しかった。

「こんな家庭料理を食べるのは、本当に久しぶりです」

「いつも史佳を泊めてもらっているお礼よ」

「私は単に部屋を提供しているだけですから」

それから俺たちは色々なことを話した。うちの祖父の介護の事、俺の仕事の事、史佳さんの結婚が破綻した姑との確執など、お酒を飲みながらなので、皆饒舌になっていた。

「結城さんが、うちの史佳をもらってくれればいいのだけどね」

早苗さんが言うと、史佳さんが窘めた。

「私は史佳さんであれば喜んでもらいたいですが、史佳さん自身は私への愛情はないようですので、結婚しても長続きはしないでしょう」

「じゃあ、結城さん自身は史佳に対してそれなりの愛情をもってもらっているということ?」

早苗さんが突っ込んだ質問をしてきた。

「そうですね。橋爪さん夫婦ほどの愛情ではないかもしれませんが、史佳さんのことは好きです」

「うちは私の親の大反対を押し切っての大恋愛だったからね。だから、私はあの人の最期まで一緒にいたいの」

「そうですか。でもくれぐれも無理はしないようにしてください。私の母は、肉体的にも大変でしたけど、最後は精神的に病んでしまいました。施設に入れたからといって会えないわけではないのですから、将来的にはそういう選択肢もありだと思いますよ」

「そうね。でも出来るところまでは私が面倒見たいと思っている」

早苗さんが時計を見た。もう10時を過ぎていた。

「じゃあ、私は自分の部屋に戻るわね。史佳はもう少し結城さんの相手をしてあげなさい」

「でも食器とかの片付けもあるし、シャワーも浴びたいから、私も一旦戻るよ」

「着替えは置いてあるのでしょ?食器は水につけておいてくれたら、明日私が引き取りにくるし、シャワーならこの部屋のを借りればいいでしょ?」

早苗さんがそう言って俺を伺った。

「いいですよ。ここのシャワーを使って下さい」

俺がそう言ったので、史佳さんは残ることになった。


早苗さんが帰ったあと、史佳さんが聞いてきた。

「さっき言っていた事、本当?」

「さっき言っていた事って?」

「私のこと好きだって言っていたじゃない」

「本当だよ」

「その割には、そんな素振りを見せないし、全然口説こうとしてこないじゃない」

「今まで何人かの女性と付き合ってきたけど、最終的にはみな破綻した。デザイン事務所に勤めていた時は生活力に乏しかったということもあるだろうけど、過去の女性から見て俺は、苦労してでも結婚したい相手ではなかったんだろうね。結婚願望がないとは言わないけど、もうこの年になって、結婚しなければしないでもいいと思っている。だから、いくら好きな相手でも、相手がそうでもないのに口説いて口説いて自分のものにしようなんて、そういう気持ちはもうないんだ」

「じゃあ、私も結城さんのことを好きだって言ったら?」

「そうなの?」

「好きだよ。でも、それが結城さんが期待するほどの好きかどうかはわからないけど」

「恋愛の温度計はないからね」

「でも、私はこの部屋に寝るようになって、毎晩ドキドキしている。ひょっとしたら今日こそ結城さんが、私が寝ている部屋に忍びこんでくるのではないかって。そのドキドキは、間違いなく期待のドキドキ」

俺はジッと史佳さんの顔を見た。どう反応して良いのかわからなかった。

「私、シャワー浴びて来る」


史佳さんがシャワーから出てきて、入れ替わりに俺もシャワーを浴びる。俺が浴室から出ると、史佳さんはすでに寝室に入っていた。

俺はどうしようか迷った。迷ったが、足が勝手に史佳さんが寝ている部屋へ向かった。そっとドアを開ける。史佳さんは布団に入って、こちらを見ていた。布団の横に座ると、史佳さんが布団をあげ、俺に入るように促した。

「やっと来てくれた」

俺はゆっくり布団に入り、史佳さんを抱きしめた。


俺の部屋に史佳さんの荷物が少しずつ増えていった。ベッドもダブルベッドに買い替えた。近い将来に結婚したいと早苗さんに報告に行くと、大層喜んでくれた。お父さんにも話したが分かっているのかどうかはわからない。幸せな時間が2か月ほど経過したとき、事件が起きた。俺が仕事をしていると、早苗さんから電話があった。「助けて」という。俺は慌てて階段を駆け上がり、橋爪さんの部屋へ行った。台所で早苗さんが倒れていた。お父さんはお菓子を食べながらテレビを見ている。どうやら台所の高い棚から何かを取ろうとして、椅子に乗ったら、バランスを崩して倒れたらしい。左足がものすごく痛いと言っている。俺は救急車を呼ぼうとしたが、早苗さんが車で病院まで連れて行ってと言うので、早苗さんを車まで運び、もう一度部屋に上がってお父さんを連れて車に戻った。早苗さんが指定する病院へナビを合わせ、俺は車を走らせた。

頭も打ったらしいが、幸い頭には異常は見られなかった。だが、左足を骨折していた。早苗さんは数週間の入院を余儀なくされた。


骨折とはいえ、入院して早苗さんは色々考えたようだ。もし自分に何かあったら、ご主人のことはどうしようと。施設に入れた方が良いのではないかと真剣に検討を始め、様々な施設のパンフレットも取り寄せていた。しかしその姿は寂しそうだった。そんな姿を見ていて、俺は史佳と相談した。史佳は俺の提案に賛成してくれた。

橋爪家へ行って改まって俺は早苗さんに言った。

「お義母さん、私たちは、式はあげないけど、籍を入れることにしました」

早苗さんが目を細めて嬉しそうな顔をした。

「史佳をよろしくお願いします」

「それで、史佳さんと相談したのですが、施設はお金さえ出せばいつでも入れますので、ギリギリまで3人でお義父さんのお世話をしましょう。史佳さんと籍を入れたら、私も正式な家族です。私も精一杯協力します」

「お金さえ出せばと言っても、そのお金が・・・」

早苗さんが取り寄せたパンフレットの方を見ながら言った。

「そのお金は私と史佳さんで、すべて出します。だから安心してください。それより、お義母さんの負担を減らすために、これからはお義母さんが入院していた間と同じように、デイサービスを活用して、週に何回かはお義母さんも息抜きをしましょう。お義母さんはお義父さんと一緒に過ごす時間が減って寂しいかもしれませんが、その分4人でどこかへ出かけて、思い出をいっぱい作るようにしますから」

「お母さん、そうしよう。今回は骨折だったけど、お母さんまで倒れたら、本当に大変だから」

早苗さんは目に涙を溜めて、頷いた。


花見に来るなんて、何年ぶりだろう。デザイン事務所ではそういう慣習はなかったので、学生時代以来かもしれない。桜の下を寄り添って歩く老夫婦は、見ていて微笑ましい。その後ろで俺と史佳も寄り添って歩いた。いきなり前を歩くお義父さんが、早苗さんの手を握った。すると、お義父さんは立ち止まり早苗さんの方を向いた。

「早苗さん、こんど私の両親に会ってもらえますか?」

たしか、お義父さんのご両親は亡くなっているはずだ。どういうことだ?

「そして、私が結婚しようと思っている女性ですと、早苗さんを両親に紹介したいのですが、いいですか?」

早苗さんが驚いたようにお義父さんの顔を見ている。そして、何かを察したらしく、笑顔で答えた。

「はい。私を春幸さんの奥さんになる人だと紹介してください」

「よかった。断られたらどうしようと思っていたのです」

お義父さんはそう言って、再び早苗さんと手を繋いで歩き出した。

お義父さんと手を繋ぎ、寄り添って歩く早苗さんは、反対の手で、何度も何度も目を拭っているようだった。


後で早苗さんが教えてくれた。お義父さんが38年前に早苗さんにプロポーズしたのも、満開の桜の木の下だったそうだ。

俺は、40年経っても、もう一度プロポーズしたくなるほど、史佳を愛していたいと、思わずにはいられなかった。

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