最終話② 彼岸花、繰り返される夢、もしも永遠を誓えるのなら。


 柊は背が伸びていて、見違えるように立派な大人の男性になっていた。六年前の柊を夢で見たばかりだったから、その変化はありありと分かった。目元だけは変わらない。私を気遣うような、一方で恐れているような、泣きだしそうな目をしていた。私も同じだっただろう。本当は今すぐ駆け寄って、抱きしめたい気持ちだった。どれだけ好きだったか、ずっと想い続けていたか伝えるつもりだったのだ。でも、それを制するように、柊はその場でうつむいた。

「僕は、星那に会う資格なんてなかったんだ……」

 絞りだすような声だった。この六年間ずっと、重く抱えていた懺悔を初めて吐露するかのように。

「私は、柊に会いたかった」

 迷うことなく、そう告げた。

 柊が何を抱えていても、まったく関係ない気持ちで。

「ずっと……好きだったから」

「僕が君に対して、何をしたかも知らないのに?」

 そんな言葉が聞こえてきて、同時にとても泣きたくなった。

 柊は、すべてをあきらめていた。誰かを愛することも、愛されることも、好きになることも、好かれることも、世界と繋がっていることも、生きて、いくことさえも。

――どうして生きているのだろう。

 そんな暗い問いかけが、瞳に垣間見えていた。この絶望が、彼のすべての罪の理由だった。

「どんな理由があっても、私は柊が大好きだよ」

 それだけを言いたかったのだ。この六年間、ずっと。

「君のお母さんを、僕が殺したって言っても?」

 突き放すような冷たい声。

 まるで鋭いナイフのような、感情の読みとれない口調。さらけだされた過去を前に、体が痺れたように動けなくなっていくさなか、その言葉に――誰よりも傷ついているのは柊だった。

(やっぱり、母が死んだ原因に柊が関わっていたんだ……)

 それは彼にとってどれほど、重い桎梏しっこくだっただろう。

 柊はずっと私にそれを隠していたのだ。

 そして逃げるように、目の前から消えてしまった。事が発覚するのを恐れていたに違いなかった。それは消えない傷となって彼を苦しめていただろう。それで今も、目を合わせることもできないなんて。その事実の方が、私はよっぽどかなしかった。どんな過失や罪よりも、未来を見ようとしていない瞳を伏せていることが。

 でも――今は、その理由を知れてよかったって思える。

「柊は、もう許されてるよ」

 柊と目を見合わせたくて、私はハッキリそう言った。そう確信する声で。

「最初から許されている。お母さんにも、私にも。だから、もう大丈夫だよ」

 ハッとして見あげた眼差しが揺らぐ。その目がなぜ? と語っていた。

 私は、ただ微笑んだ。ようやく何もかもを、分かち合えた気持ちだった。

「柊はひとりで責任を感じて、会えないと思っていたんだね」

(嫌われていたわけじゃなかった……)

 それだけのことが、こんなにも嬉しい。

「そんな必要なかったのに。柊が故意に誰かを傷つけるはずなんてない。私が一番分かってる。たとえ何があっても、避けようのないことだったんだよ。誰も柊を責めないよ。だから、ちゃんと前を向いて」

――生きて、と言ったつもりだった。

 それだけを伝えたかったのだ。もう最後だと知っていたから。

(ここで会うことができたのは、今日が特別な日だからだ)

 彼岸と此岸。

 あの世とこの世の境目が曖昧になる、特別な日。

 だから、これはきっと神さまが用意してくれた、あり得ないはずの邂逅だった。

 見あげた柊の眼差しに、微かな光が灯るのを私は見逃さなかった。もう一度だけ微笑んで、澄んだ空を振りあおぐ。降りそそぐ日差しに照らされて、川面がチラチラ瞬いた。

「僕も、星那が好きだったよ」

 あふれる何かをこらえるように、柊がそうつぶやいた。

 ふりしぼられた声はかすれた。

「ずっと、ずっと好きだった」

 それが、柊にとってまぎれもない本音だと分かって、

(こんなにも幸せなことって、ない)

 知らないうちに笑っていた。目に涙が浮かんでくる。

 世界がにじんで、まぶしくて、どんどんあふれてとまらない。

 胸の底が熱かった。

 その温もりは、柊だけが私に灯せる光だった。

 さよなら、なんて告げられない。

 別れを告げる言葉は、もう口にできなかった。

「――ありがとう」

 代わりに、そうつぶやいた。柊に少しでもこの想いが届けばいいな、なんて思う。

 消えなかった後悔も、拭えなかった罪悪も、忘れられない記憶も全部、空に溶けていけばいい。気づけば柊も同じように、目に涙を浮かべていた。

 一面に咲いている白い彼岸花が綺麗だった。

 もしも永遠を誓えるのなら、咲き乱れるその白に全部気持ちを託したかった。

 その花が宿す別の意味を、もう柊も知っていた。

――『想うのは、あなたひとり』

 その言葉はいつまでも、風で花が揺れるたび、消えないひとつの祈りになって、辺りに満ちるようだった。


     *


 彼岸明けの晩夏の空は、泣きたくなるくらいの快晴だった。

 僕は額の汗を拭い、首元のネクタイを緩めた。あちこちで夏の終わりを惜しむように鳴いているヒグラシの声が、暑さを引き立てているように感じる。

 星那の葬儀は、滞りなく行われた。

 式の間、感情が胸を突き破って溢れ出しそうだったけれど、彼女に助けられたという少年が終始泣きじゃくっていたので、僕はなんとか涙を堪えることができた。

 少年は以前、僕が迷子の猫「セナ」を見つけて手渡した子で、彼岸の連休の間、おばあちゃんの家に来ていたという。不思議な縁を感じた。

 式場を出る際、「ねえ、猫探しのお兄ちゃん」と、消沈しきった様子で呼ばれた。目元が真っ赤になっている。「ぼくのせいで、お姉ちゃんは死んじゃったんだよね……?」

 僕は何と答えるべきか少し迷った後、しゃがんで目線を合わせ、彼の肩を両手で掴んだ。

「君のせいじゃないよ。あの橋で溺れかけていたのが誰であろうと、星那は絶対に全力で助けようとしたと思う。星那はそういう、素敵なお姉ちゃんなんだ。お姉ちゃんの分も、君はこれから、強く生きていこうね」

 信也くんは頼もしく表情を変え、強く頷いてくれた。

 解散した後、僕は父に断り、約束の場所に向かい歩いていた。人のいる所では、泣けない。母の葬儀の時からそうだった。だからひとけのないあの秘密の場所で、声をあげて、気の済むまで何時間でも泣こう、そう思った。

 御影橋を通り、彼岸花の咲き乱れる公園を歩き、藪を踏み越え、小川を渡る。約束の場所には今日も、白い彼岸花が咲いている。初めて見つけた時は一本だったそれは、ここに来ない六年の間に広がったのか、今や一面の雪景色のようで、木漏れ陽の中で柔らかく揺れて白銀色の波を作っている。

 いつも座っていた場所に腰を下ろすと、もうここに星那と来ることは出来ないんだ、という実感が、津波のように押し寄せてきた。

 ああ、壊れる。そう思った。ずっと押し留めてきた感情の堤防が壊れる。

「う、あ、ああ……」

 涙が溢れ、嗚咽の声が抑えられない。

 三日前の、彼岸の中日、リコリスからの最後のDMの通り、僕はここに来た。夢を見るような柔らかな霧に包まれ、そこで確かに、星那に逢ったんだ。あの不思議な体験は何だったんだろうか。星那は彼岸入りの日、御影橋で少年を助け、身代わりのように川に流された。鑑識でも、その時の溺死であり、事件性はないと判断されたようだ。では、あの日の、星那は――

「ああああああッ……」

 許されていると、言ってくれた。好きだったと、言ってくれた。

 僕だって、ずっと好きだった。誰よりも好きだからこそ、遠ざけてしまった。

 君のいない世界に、意味はあるのだろうか。君のいない未来を、僕は生きられるのだろうか。

「ああああああああああああああああああああああああ!」

――ちゃんと前を向いて。

 彼女がくれた言葉が耳の奥で聞こえた気がして、僕ははっと目を開ける。

 抜けるような青空から零れ落ちたように、青い羽根を持つ蝶が二羽、白い彼岸花の上でひらひらと舞い飛んでいた。

 霊だとか、魂だとか、そういった非科学的なことはこれまで信じていなかった。けれど、ここ数日ずっと考えていた。

 星那の魂のようなものがもしあるとしたら、それはあの祭壇でも遺影でもなく、やはりここなのだろう。

 良かった、会えたんだね、お母さんに。と、自然に僕は思えた。

 二羽の蝶は遊ぶように近付いたり離れたりを繰り返しながら空に上がって行き、やがて蒼穹に溶けて見えなくなった。

 僕は涙を拭い、立ち上がる。

 ずっと一人だと思っていた。けれど、独りではなかった。守られ、導かれ、そして今ここにいる。だから僕も、強く、生きなくては。

 思い切り息を吸って、ゆっくりと吐く。僕の肺、心臓、細胞。過去、想い、後悔。自分を構成する全ての要素が、少しずつ生まれ変わっていくのを感じる。


 君のいない世界を、君のいない未来を、僕はちゃんと、前を向いて、生きていこう。


 それが、これからの僕の、君との約束だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

追想、君との約束、彼岸花の咲く場所で。 青海野 灰 @blueseafield

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る