第二ワ② 策謀、命ノ渇キ、此岸ノ果テに君ハ堕ツ。
ぼくの心臓が、かつてない程に激しく脈打っている。それは緊張や恐怖ではなく、純粋な歓喜と興奮だった。ぼくの最上の愛情、ぼくの最大の憎悪、ぼくの最高の復讐。全ての舞台が完璧に整っていくのを感じる。
誰によってもたらされたのかも知らぬまま絶望するがいい、蓮見英樹。お前が彼女を汚し、傷付け、変質させ、そしてこの結末を招いたのだ。
メール送信後、スマホの電源を切り、鞄に戻した。一旦車を出て外から助手席のドアを開け、シートベルトを外すと彼女の身体を抱きかかえる。思えば、彼女に触れるのは初めてだ。こんな形になるとは思わなかったが。
筋トレは続けているとはいえ、大人の女性一人の重さはそれなりのものだ。その体を、ぼくの腹の高さほどまである橋の欄干の上に乗せて、一旦息を整えた。木製の欄干は三〇センチ程の幅があり、人を寝かせるのにちょうどいい。暗闇の中では水面は見えないが、橋の下で川が音を立てて流れているのが聞こえる。彼女が動き出す気配はない。ぼくはこの人生の変革の時を感じ、高揚と共に口角が上がるのを抑えられない。
「蓮見さん――いや、友菜……。待ちわびたよ、この時を。ぼくはずっとキミを待っていた。乾いていたんだ。キミがどこかで生きている限り、ぼくはキミを求めるだろう。干からびてしまいそうだったよ。でもこれで、その時間も終わりだ」
顔を近付け、彼女の桜色の唇に口づけをした。九月の夜の熱気の中で、その感触だけがやけに冷たく思えた。
今まで一度も感じたことがないくらい、心が満たされ、潤っていく。この最高の瞬間を、キミの死をもってぼくは永遠に保管することが出来る。これ以上誰にも汚されず、傷付けられず、老いることもなく、キミはぼくの中で固定される。
助手席に置いたままの彼女のバッグを取りに戻ろうとした時、ぼくは視界の端で小さな光が揺れるのを見た。懐中電灯の光だろうか、道路の先の方から、誰かがこちらに向かい歩いてくるようだった。
心の中で舌打ちをする。これまで全て計画通りだったというのに、人が通るのは想定外だ。まだ距離は随分あるが、どうするか。今すぐ彼女を川に突き落とし、車で逃げることはできる。ただその場合、通行人が橋の中ほどから突如発進した車を怪しむだろう。死体が発見された後に、「あの時、ここで不自然な車が走り出した」と警察に証言するかもしれない。
では、この計画にその通行人を巻き込むのはどうだろう。頭の中に瞬時に無数のプランを描いていく。
ぼくは車のダッシュボードから黒いゴルフボールをいくつも取り出した。以前から仕事付き合いでゴルフをやっていたのと、健康球代わりに手の平で回すのが癖になっていた。黒いボールはショットの後に見つけにくくなるが、他人と被らないので気に入っていた。それらを、欄干に寝かせてある彼女の身体の下に入れていく。スマホを入れたバッグは、先に川に落とした。
博打ではある。うまくいく保証はない。けれどぼくはこの状況を楽しんでいた。もし失敗したら、その時は死ねばいいのだ。どうせあの時――彼女が教師から妊娠させられたと知った時、停学処分を受け父を殺害し庭に埋めた時――その頃から、ぼくの心は死んでいるのだ。
これは命を賭けたゲーム。そう思うと、「生きている」という実感が滾々と湧き出でて来る。そうか、この感覚だ。ぼくがずっと求めていた、生きる喜びだ。
セッティングが終わると、「意識を失っている女性を通りがかりに発見し介抱している人間」を自分の中に作り出し、ぼくは彼女の身体に向かって声を張り上げた。
「大丈夫ですか! しっかりしてください! 目を開けて! 誰かいませんか!」
光が揺れ、駆け寄るように近付いてくる。釣れた、とほくそ笑みながら、ぼくは緊迫の表情を作り、光の方に走る。やがて近付いたその人の肩を掴んで言った。
「よかった、人がいた! 今あそこで女の人が意識を失って倒れてるのを見つけたんです。救急車を呼ぼうにも、今ちょうどスマホを持ってなくて!」
相手は、体格、髪の長さ、うっすらと見える表情から、まだ少年のように見える。中学生くらいだろうか。恰好の餌食だ。
「電話をかけられる所まで急いで車を走らせたいんだけど、もしかしたら意識を取り戻すかもしれないから、キミ、声をかけながら、あの人の身体を強く揺すっていてあげてくれないか!」
「わ、分かりましたっ」
少年は、ぼくの作り出した空気を純朴に信じ込み、彼女が横たわる欄干に駆けていく。ぼくは車に乗り込み、エンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。テールライトに照らされ、彼女の身体と少年の姿がサイドミラーに映る。速度が上がるに従い、その光景がどんどん遠ざかっていく。
賽は投げられた。ぼくの命は既にベット済みだ。さあ、結果はどう出る。
サイドミラーの中で小さくなった彼女の身体が、闇に消えた。
少年は慌てた様子で辺りを見回し、逃げるように駆けていった。
完璧だ。賭けはぼくの勝ちだ。
彼女の身体を強く揺すれば、容易に川の方に落下するようゴルフボールを仕込んであった。同時に川に落ちる黒いボールは夜に隠されて見えないだろう。運命と、ぼくの過去の全てが、今のぼくに味方しているように感じた。
「アッハハハハハハハハハハハハァ!」
ハンドルを握りながら大声で笑った。
「よくやった、やればできるじゃないか、悪くないぞ! この調子で、明日も生きよう! アハハハハハハハハハハハ!」
その後、手近な民家を見つけると、事情を話して救急車を呼んでもらった。このまま逃げるよりもそうした方が、あの少年に対してぼくの行動にリアリティを与えることができる。
数日後、遺族の希望があったのか自殺という事は伏せられ、事故の体での訃報を新聞で見た。ぼくの用意したピースが全て想定通りにはまった訳ではなかったが、概ね満足の行く結果だと言えよう。
しかし、まさかその六年後に、自分が講師を勤める大学で、罪の意識を抱えたまま成長したあの少年に再会するとは、思いもよらなかったわけだが。
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