第二ワ① 策謀、命ノ渇キ、此岸ノ果テに君ハ堕ツ。


 ぼくは自宅のリビングでソファに座り、乱れた息を整えている。

 テレビは誰も観ていない野球のナイターを空しく映し続けている。

 ぼくの足元には木製のバットと、父親の身体が静かに転がっていた。


 彼女――渡瀬わたらせ 友菜ゆなが妊娠した。相手は、担任の数学教師。

 笹塚がぼくにそれを告げた後、ぼくは笹塚を殴り飛ばし、さらに馬乗りになって顔面を何度も殴打した、らしい。意識が飛んで覚えていないが、ぼくを羽交い絞めにして止めた教師が言うには、そういうことらしい。

 その後ぼくはクラスメイトへの傷害を咎められ、停学処分を受けた。教師から連絡を受けた父は、体を鍛えているぼくを恐れてかここしばらく殴ってこなかったのに、バットを持ち出してきてぼくを叩いた。せっかく高校に行かせてやってるのに何してやがる。このクズが。バイト辞めさせられたら俺に金を払えるのか。本当にお前は失敗作だ。そう怒鳴りながら、父は何度もぼくを殴った。腕、足、脇腹、頭。一打ごとに絶叫が漏れ出るほどの激痛が走った。

 バットを振り続けて疲弊した父が手を休めた隙に、ぼくはこれまでのあらゆる怨恨と、体に渦巻く絶望と憎悪の全てを込めた拳で、父の顔を殴った。うめき声を上げて屈みこんだ父の腹を殴った。髪を掴んで顔に膝蹴りをした。倒れたら脇腹に蹴りを入れた。お前のために生きてるんじゃない。何もしないくせに父親面をするな。お前のせいで母さんは出ていったんだ。お前のせいで。お前のせいで。そう怒鳴りながら、ぼくは何度も父を蹴った。床に転がっていたバットを拾い、何度も振り下ろした。やがて父は動かなくなった。

 落ち着いた後、ぼくは庭に父を埋めた。まともな仕事に就かず、貯金とぼくのバイト代だけで生きてきたこいつは町内でも嫌われ者であり、いなくなったことに気付く者もいないだろう。

 誰もいなくなった家の中に戻ると、ぼくは限りなく空虚に近い自由を感じ、笑った。

「よくやった、やればできるじゃないか、悪くないぞ、この調子で、明日も生きよう」


 渡瀬さんの妊娠は、すぐに大問題となって世間に知れ渡った。停学中で家の中に引きこもっているぼくにも、その話はテレビ越しに伝わって来た。高校教師が女子高校生を妊娠させた。それは刺激的な話題を求めるワイドショーやお茶の間にとって、恰好の材料だったようだ。

 はじめは、教師が無理矢理に渡瀬さんを襲ったのかと考え、そいつの殺害計画を立てた。しかし、二人は出産と結婚を予定しているらしいということを聞き、ぼくは計画を書いた紙を燃やして捨てた。

 たった一人の家の中で、自分の内側の全てがひび割れ、崩れ、形を変えていくのを感じていた。

 ぼくの停学期間中に、渡瀬さんは高校を中退していた。

 復学後、彼女のいなくなった学校で、ぼくは何人もの女の子を恋人にしては捨てていった。誰も、誰も、誰も、ぼくの内側に穿たれた穴を埋めてはくれなかった。


     *


 父親は息子を置いて失踪したことにして手続きをし、アルバイト代と奨学金で、東京の大学に行った。そういった経歴をしんみりと話すと、大抵の女の子はぼくに同情し、ぼくの言いなりになった。どれだけ身体を重ねても、偽りの愛の言葉を交わしても、誰も彼女の代わりにはならない。

 何をしても満たされない心。以前のような温かな幸福をまた感じたい。

 ぼくの欠損。ぼくの変質。ぼくの空虚。それは全て彼女のためであり、彼女のせいなのだ。

 渡瀬友菜。渡瀬友菜。渡瀬友菜。

 ぼくを変えた人。ぼくを置いて行った人。春の木漏れ陽のように美しかったのに、ぼくの知らない所で勝手に汚された人。ぼくの消えない過去。ぼくの光。ぼくの闇。ぼくの傷。ぼくの愛。ぼくの渇望。ぼくの孤独。ぼくの憎しみの全て。

 キミがいては、ぼくはマエニすすめナい。


 だから三十歳になった年の夏、故郷でキミの姿を見つけたのは僥倖だった。運命だと言ってもいい。身体の底から歓喜の熱が湧き上がるのを感じ、ぼくは震えた。

 五瀬川にかかる橋で物憂げに立つ彼女に駆け寄って、声をかける。

「渡瀬さん! 久しぶりだね!」

 彼女はぼくを見て戸惑った。

「えっと、すみません……、どなたでしょうか?」

 心の中のヒビが拡がる音がした。ぼくはあの日から、一日たりともキミを忘れたことはないというのに。

 でも、とぼくは気を取り直した。十数年も経っているのだ。ぼくの外見も随分変わっている。分からなくてもしかたない。

 高校の頃のクラスメイトであることを説明すると、彼女も納得したようだった。何か落ち込んでいる様子の彼女が気になったが、深追いしては警戒されると思い、その場はお互いの近況だけ軽く話して、別れた。

 その日から、ぼくは自然な形を装って彼女に出会い、親しみを込めて挨拶し、この十数年で培ってきた人心掌握の手段を総動員して彼女の心に入り込む努力を繰り返した。その日々は、彼女を失ってからこれまでの人生、砂漠の中を歩いていたのではないかと思うほど、潤いと興奮に満ちた時間だった。最高に楽しいゲームのようだった。

 そして九月も折り返し地点を過ぎ、彼岸も近付いてきた頃、彼女はようやく語ってくれた。どうやら、彼女が過去に教師と関係を持ったことを再び掘り返して面白がろうとしているゴシップ誌があり、その連中からしつこく連絡を受けているという。これがまた話題にされれば、夫や子供たちが中傷に晒されるかもしれない、と彼女は悩んでいた。ぼくはその低俗な連中に憤り、かつ彼女を親身に心配するような表情を作りながら、心の中で勝利を確信した。

 入念な下準備の後、彼女を夕食に誘った。「出版業界の法律に詳しい弁護士の友人を紹介する」という嘘をついて(記録が残らないよう、電子メールやラインは使わず、全て口頭でのやり取りだ)。家族に迷惑が及ぶことを一番に恐れる彼女が、これに乗らないはずがなかった。縋るように彼女は、ぼくについてきた。車に乗せ、少し離れた街まで走る。

 店に入り、いくつかの料理とアルコールを頼むと、友人は仕事が長引いて遅れていると告げ、食事を始めた。彼女はアルコールを口にしなかったが、これは想定通りだ。やがて彼女がトイレに立った。その隙に、ぼくは鞄からタッパーを取り出し、テーブルの皿の料理とタッパーの中身を入れ替える。

 それは彼岸花の球根を調理したものだ。彼岸花には、リコリン、ガラタミン、セキサニン等の数々の有毒アルカロイドが含まれている。これを摂取すると、呼吸不全、中枢神経麻痺などの症状が出る。この計画のためにぼくは、店員や他の客から死角となる個室があり、また彼岸花にすり替えても気付かれにくい料理を出す店を調査済みだった。

 やがて帰ってきた彼女は、ぼくが出した彼岸花入りの料理を口にした。この味見だけは試すわけにはいかず、気取られないか懸念点であったが、特に何か違和感を持った様子は見られなかった。

 彼岸花の毒は致死性は低い。これが重要なのだ。毒殺などしてしまえば事件性が出る。ぼくはぼくの人生を汚さずに、ぼくの過去を、傷を、愛情を、憎悪を、清算せねばならない。

 彼女に症状が出る前に、ぼくはスマホを見て残念な顔を作り、「今日は友人は来れなくなったようだ。また次の機会にしよう」と告げ、店に支払いをして外に出た。二人で車に乗り、しばらく走ると、彼女は腹痛と目眩を訴えだした。計画通りに物事が進んでいることに、ぼくは心の中で歓喜の雄たけびを上げた。

「大丈夫かい。病院に向かうから、もう少しの辛抱だよ」

 そして車は、五瀬川にかかる橋の上に停まる。もう太陽はとっくに落ちており、車のライトを消すと、街灯もないここは冷たい暗闇に包まれる。車一台が通れる程度のこの橋では、夜になれば車も人も滅多に通らないことも、確認済みだ。

 ぼくは運転席に座ったままシートベルトを外し、用意していた手袋をつけた。

「渡瀬さん、大丈夫? いや、今は蓮見さんと呼んだ方がいいんだったね」

 返事はない。ただ苦しそうな呼吸音だけが聴こえる。彼女の鞄を漁り、スマートフォンを取り出す。彼女の右手を持ち上げると、人差し指を指紋認証エリアに押し当て、ロックを解除する。胸ポケットから取り出したタッチペンでメールやラインのアプリを開き、彼女が普段どんな連絡手段を取っているのか確認した。新規メールを作成し、想定していた文章を入力していく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る