第一話③ 過去、消えない記憶、触れられない想い。


 「リコリス」というユーザー名を持つその人は、僕に興味を持ったのか、その日から頻繁に連絡してくるようになった。ツイッター上のダイレクトメールという一対一のやりとりで、夏の憂鬱な暑さだとか、その日読んだ素敵な本とか、道端で見つけた花だとか、そういった些細な言葉を、僕たちはいくつも交わした。

 僕はといえば、死ぬつもりで全額下ろした貯金を使い崩しながらネットカフェで連泊し、陽が沈んだ後に人目を避けて故郷を散歩するような日々を送っていた。死ぬまでの時間潰し。あるいは、意思の弱い僕の、言い訳のような余生。

 そんな消極的な日々の中で、リコリスとの言葉のやり取りは、暗い道に灯る微かな燈のように感じられた。リコリスが言葉をくれるから。僕の返事を待っているから。だから明日は、明日も、明日くらいは、生きてみてもいいかもしれない。そうやってずるずると、決行の日を後回しにしていた。

 リコリスが僕に送る、穏やかで優しくも、どこか秘められた寂しさを感じさせるような言葉が、僕の心の周波数にそっと寄り添うような気がしていた。ユーザー名の「リコリス(lycoris_radiata)」という言葉の意味を検索してみると、彼岸花の英名らしい。この人にとっても、この花は特別なものなのかもしれない。そう思うと、文字のやり取りでしか知らないその人に、不思議な親近感を抱いた。

『ホリーさんは、誰かと約束を交わしたことってありますか? 忘れられなくなるような』

 ある蒸し暑い日の夜、リコリスからそう問われ、回答を迷った。ホリーというのは、僕がツイッターのユーザー名にしている、名前の「柊」を安直に英訳しただけの単語だ。

 忘れられなくなるような約束。それはもちろんある。その温かな記憶だけが僕を生き長らえさせてきたとも言える。

 でもそれは不可逆の、叶う事のない、過去の中で埃を被った約束だ。きっと、星那ももう、覚えてはいないだろう。

 だから、『ありませんよ』と嘘を書いた。

『リコリスさんは、あるんですか?』と書いた僕に、『約束の場所ならありますよ』と返事が来る。

『それは恋人との?』

『片想いしていた人との、です』

『いいですね。どんな場所なんですか?』

『川の近くなんですけど、とてもきれいなところなんです』

 ふと予感が過る。いや、でも、まさか、とその霞のような予感を振り払う。SNSのユーザーは日本だけでも何千万人もいる。だから、「リコリス」が、星那のはずがない。


     *


 死ぬ前にきちんとお墓参りをしておこう。そう思ったのは、お盆も過ぎて墓参りの人も減ったであろう八月の終盤だった。

 霊だとか、魂だとか、そういった非科学的なものを信じてはいない。けれど、身勝手に、逃げるように命を投げ捨てる前に、星那の母親――友菜さんの墓に手を合わせて、きちんと謝るべきではないのか。そう考えたのだ。

 友菜さんのお墓の場所は知らなかった。でも、ネットカフェのPCで検索すると、この近辺に墓地と呼べる場所は一か所しかないことが分かった。僕の母の墓もそこにあり、中学校に上がるまでは毎年そこに墓参りをしていた。

 念のため墓地の横の寺に電話し、「蓮見友菜」さんの墓がそこにあることを確認もした。電話に出た人はのんびりとしたおじいさんのような声で、「親戚」だと嘘をつく僕を疑いもせず、親切に教えてくれた。

 太陽が西に傾き、日中の暑さも僅かながら落ち着いた頃、僕はそこに向かった。辺りは緑で溢れ、周りは山に囲まれている。改めて田舎なんだな、と感じる。

 幸いなことにひとけはなく、僕はまず自分の母の墓の前に立ち、手を合わせた。墓は汚れておらず、手入れがされているのが分かる。盆の頃に父が来ていたのだろう。

 五才の時に亡くなった母のことは、もうほとんど覚えてない。祖父母も他界しているので父は唯一の肉親だが、中学のあの事件の後からは、僕は誰とも交流しようとしなかったので、会話もほとんどなかった。父は、僕が死んだら、どうするのだろうか。妻も息子も失って、独りで生きていくのだろうか。その姿を想像すると、少し胸が痛んだ。

 合わせていた手を下ろし、友菜さんの墓を探すために歩き出す。場所は知らないから、墓石に掘られた名前を見て探すつもりだった。でも、少し歩いた所で僕は足を止めた。この先にある墓の前で、誰かが立っているのだ。なるべく人と接触したくなかったから思わず物陰に身を隠した。中学や高校の同窓生だと面倒だ。

 その人は僕から見て右側を向いて立っており、前にある墓を眺めているようだった。暮れかけの太陽の光ではその顔まで見えないが、シルエットは大人の男性に見える。それだけであればただの墓参りをしに来た人のように思うが、異質なのは、その人が手を合わせるでもなくズボンのポケットに両手を突っ込み、ただぼんやりと墓を見下ろしているだけなのだ。

 しばらく様子を見ていたが、その人がそこを動く様子はない。何分経っただろうか。辺りに夜の気配が漂い始め、今日は諦めて帰ろうかと思った所で、その人はこちらに背を向けゆっくりとどこかに歩いて行った。

 雑草と砂利を踏み歩いて、そこに行く。先ほどの男性が見つめていた墓石。丁寧に手入れされ、黄昏の明かりを反射するその御影石には、こう彫られていた。

 蓮見家之墓。

 ここに、星那の母親、友菜さんが眠っているんだ。胸にずきんと痛みが走る。

 それなら先ほどここに立っていた男性は、蓮見家の関係者だろうか。いや、でも、父親ではなかった。星那には妹がいたが、男兄弟はいなかった。

 僕は少し気がかりになり、リュックからカメラを取り出した。周りに人の目がないことを確認してから、墓石の横に立ち、先ほどの男性が立っていた方にファインダーを向けると、シャッターボタンを押した。パシャ、という音が、夏の蒸し暑い空気に溶けていく。

 再生画面に切り替え、僕は驚いた。

 モニターには、陽が落ちる寸前の紫色の空と、夏草の茂る墓地が映っている。そしてそこに、数分前まで立っていた男の正面を向いた姿が重なっている。その人は――

「涌井、教授……?」

 僕の通う大学の日本文学講師。半ば無理矢理入部させられた、非公認探偵サークル・カレイドスコープの顧問、涌井敏弘教授が、表情をなくした顔で立っていた。

「なんで……」

 蓮見家と涌井教授は繋がりがあるのだろうか。墓をあんなに長時間眺めるくらいだ、今生きている人ではなく、ここに納められている人との関係なのだろう。

『亡くなられたよ』と、以前教授は言っていた。

 生きることを迷っていた時、自分を変えるきっかけをくれた人がいた、と。その人は今どうしているのかと訊いた僕に、教授がそう答えたのだ。

 まさか、と僕は思う。涌井教授の言っていた人は、友菜さんなのだろうか。教授の年齢は知らないが、外見の印象から三、四十代といったところだ。星那の母親も同じくらいと思われる。教授は実家が埼玉だとも言っていた。もしかしたら以前この近辺に住んでいて、友菜さんと知り合いだったのかもしれない。

 生きることを迷っていた涌井教授を救った人。きっと、とても大切な人だったのだろう。

 僕は自分の指先が温度を失っていくように感じた。僕がしたことは、星那や、彼女の妹やお父さん、蓮見家の人たちを哀しませただけではない。友菜さんに繋がり、彼女を慕っていた全ての人に、取り返しのつかない衝撃と悲嘆を与えたのだ。

 罪の意識。自己嫌悪。暗い感情が質量を持って身体を圧迫してくる。呼吸が乱れ、眩暈もして、とても立ってはいられなくなり、不謹慎とは思いながらも僕は墓の階段に座り込んだ。リュックを漁って一枚の紙きれを取り出すと、そこに書いてある数字をスマホに打ち込み、耳に当てる。電子的な呼び出し音がコールを知らせる。紙には呪詛のような言葉がプリントされている。「痛い。苦しい。悲しい。私は生きたかった。」――僕は紙を握り潰し、リュックの奥に押し込んだ。

 謝ろう。謝らなくてはならない。死んで逃げる前に、涌井教授に謝ろう。そう思った。

 やがてコールは止まり、通話が始まった。

『もしもし?』

「あ、あの、僕、桜羽柊、です。突然すみません」

『桜羽クン? よかった、あれから姿を見せないし連絡もないからどうしてるかと思ったよ。南戸クンも心配してる。なんで返事をしてあげないんだい』

「あの……」

『苦しいとは思うけど、立ち止まっていても苦しさは消えないよ。キミが犯した罪を本当に反省しているなら、きちんと償って、過去を清算することが、もう一度未来に向かうための第一歩だ』

「涌井教授は、蓮見友菜さんのお知り合いだったんでしょうか……?」

 饒舌に喋っていた教授が口を止めた。返事はすぐには来なかった。夏の虫の声がうるさく感じる。数秒後、返された言葉に、僕は微かな違和感を持った。

『誰のことだい? ちょっと思い当たらないな』

「え……」

『とにかく、一人で罪の意識を抱え込んでないで、警察に自首するなりした方が楽になるよ。大丈夫、キミは若いんだから、まだまだやり直せるさ。一人で不安なら、ワタシも顧問として同行するよ。弁護士を紹介してあげたっていい』

 抱えるものが多すぎて頭が働かない。「やり直せる」という言葉に、心がぐらつく。本当だろうか。警察に行き、罪を償えば、いつか僕はやり直せるんだろうか。また星那の隣に、いられるんだろうか。

 いや、でも、いくら僕が裁かれても、友菜さんは帰ってこない。星那から、彼女の大好きな母親を奪ったのは、僕なんだ。どれだけ罰せられても、時が経っても、僕が僕を許せない。だから僕自身で、僕を終わらせようと思っていた。でも、その前に――

「……もう少し、考えます」

 それだけ言って、通話を切った。

 何度か深呼吸をして身体を落ち着かせた後、僕は立ち上がり、カメラを構えた。

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