第一話② 過去、消えない記憶、触れられない想い。


 次は、高麗こま、高麗に、停まります。


 車掌のアナウンスを聞き、僕は荷物を持った。

 東京のアパートから約二時間。特急を含めて四本の電車を乗り継ぎ、ようやく故郷に辿り着いた。高校卒業と同時に上京し、それから帰っていないので、約五か月ぶりだ。たったの五か月、と思うことも出来るが、電車を降りて駅のホームを踏むと、その空気も、景色も、ひどく懐かしく、泣きそうになった。

 今の時期、里帰りしている人も少なくないだろう。知り合いは少ない方だが、僕を知る人と会いたくない。リュックに入れていたキャップを取り出し、目深にかぶってから歩き出す。

 駅を出て、まずはその場所に向かう。スマホで地図を見るまでもなく、道は覚えている。自分の命を閉ざすならあの場所しかない、と、ここに来る途中の電車に揺られながら、ずっと考えていた。

 近付くにつれ、胸が軋むように痛み出す。東京に比して圧倒的に多い緑や、遠くに見える山、背の低い建物たち、曼殊沙華まつりのポスター。そのどれもが、愛しい過去と呪われた過去を、同時に僕の目や脳や胸に否応もなく注ぎ込んでくる。

 十分ほど歩くと、橋が見えてくる。足が重くなる。

 十メートルほどの長さがある橋の中央の辺りに立ち、欄干を掴んで、下を流れる川を覗いた。体温が急速に下がっていくような気がした。身体の底から震えが起こる。あの日、僕は、ここで――。

 水は静かに流れていて、僕が今落ちたとしても、命を奪うほどとは思えない。僕は胸になるべく沢山空気を吸い込んで、それをゆっくりと吐いた。そうすることで体の中に充満している絶望的な気持ちを少しでも逃がせるかと思ったが、うまくいかなかった。

 どの道今は、太陽の光もあるし、多くないとはいえ車通りもある。僕が落下しても、救助されてしまう可能性がある。やるなら夜だ。言い訳のように心の中でそう呟き、僕は足を進めた。

 公園ではまだ彼岸花は開花しておらず、緑の茎が息を潜めて咲き時を待つように、夕陽の中で無数に林立していた。公園の奥まで進み、人目がないことを確認してから、藪を抜け、小川を渡る。

 「約束の場所」に来るのは、六年ぶりだろうか。そこは変わらず、秘密基地のようにひっそりと、静謐な空気で満たされていた。気まぐれにリュックからデジタルミラーレス一眼のカメラを取り出し、ファインダーをその緑に向ける。

 僕は過去の中でだけ生きているのに、思い出そうとすることは、いつも痛みを伴う。あの頃、星那と二人で見た彼岸花の群生。それを心に思い描き、シャッターボタンを押した。再生画面に変えると、いくつもの赤い色彩の中、一本の白が灯っている。もうここには帰れないんだ、と泣きそうになる。

 スマホを取り出し、デジカメと連動するアプリを立ち上げ、先ほど撮影した彼岸花の写真を取り込んだ。ツイッターアイコンをタップし、写真を投稿する。この期に及んでSNSに写真をあげるのは、言葉のない遺書みたいなものかもしれない。そんな風に思いながら。

 スマホをポケットにしまい、六年前の記憶と同じ場所に座り、膝を抱く。

 ここに来たのは、夜まで人に見つからずにいられるだろう、という考えがあった。けれどそれと同時に、無意識的な所で「星那が助けてくれるかもしれない」と思っていたのだ。あの日、背中を丸めて座っていた彼女の隣に僕が座ったように、独りぼっちの僕の隣に星那が来て、僕を救ってくれることを期待する気持ちが、心の隅にあった。でもその光明に手を伸ばそうとする度に、僕の中の罪悪感が僕を苛み、蝕む。

 星那に縋れるはずがない。縋っていいはずがない。

 なぜなら六年前のあの日、僕が殺したのは、彼女の母親なのだから。

 僕は世界の全てから隠れるように、座りながら体を縮こめていく。やはり、死のう。死んで謝罪しよう。夜が来て、光がなくなったら、川に飛び込もう。

 でも、飛び込むだけでは死ねないかもしれないから、どうするか。コンビニで酒を買って沢山飲んで泥酔するか? いや、未成年には売ってくれないか。そういえば、彼岸花の球根には強い毒があると聞いたことがある。花はまだ咲いていないが、球根なら辺りに無数にあるだろう。掘り出して齧ってみるか?

 そんなことを悶々と考えていると、傾きかけだった太陽はいつの間にか山の果てに沈み、辺りは夜の闇に包まれていた。

 僕は緩慢に体を動かし、手近な彼岸花の茎を一本掴んだ。これを抜いて、小川で洗ったあと、あの橋の欄干で球根を齧ろうと思った。が、引き抜こうと力を入れた時、ポケットに入れているスマホが振動した。取り出して画面を見ると、南戸からのラインだった。通知欄でメッセージ内容が見えた。

『どうしてるの! 返事くらいしてよ!』

 心配をかけている。僕が死んだら、南戸は泣くのだろうか。夏休み明けに予定されているゼミの研究発表はどうなるだろうか、なんてどうでもいいことまで頭に浮かんだ。

 通知欄には他にも、ツイッターでリプライがあったことを知らせる吹き出しのアイコンがある。僕はそれをタップして、瞬間、息が止まった。

『彼岸花の花言葉って知ってますか?』

 日が暮れる前に投稿した彼岸花の写真に、そう返事がついていた。ユーザー名は「リコリス」となっている。ユーザーのアイコンは、白い彼岸花の写真が使われていた。

――白い彼岸花の花言葉って、知ってる?

 あの晩夏の日、夕陽の中で星那と初めてキスをした後の、彼女の言葉を思い出した。一番近くに感じた温もりを思い出した。幸せだった。幸せになれると思っていた。

 胸が握りつぶされるようにギリギリと痛む。歯を食いしばっても、涙が溢れてしまう。喉が震え、奥から迷子の子犬のような情けない声が漏れる。

「うう、うううぅ」

 死んで償うためにここまで来たのに、僕はまだ、幸せになりたいと思っている。生きていたいと思っている。あの過去の温もりがそう思わせる。

 何よりも愛しい想い出。もう戻れない想い出。だからこそ、何よりも悲しい想い出。

 赤い彼岸花の花言葉は、「悲しき想い出」だった。

 僕は「リコリス」のリプライへの返信ボタンをタップし、文字を打ち込んでいく。

『悲しき想い出、ですよね』

 送信のボタンをタップし、画面を消すと、ポケットにしまった。

 座り込んでしばらく泣いた後、実家にはとても帰れる気がしないから、地図アプリで泊れるネットカフェを探し、そこに向かった。

 もう少しだけ、生きていよう。そう思った。


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