第一話① 過去、消えない記憶、触れられない想い。


「白い彼岸花の花言葉って、知ってる?」

 無数の赤い花が僕たちの周りを彩り、穏やかな風がその花々を優しく揺らしている。その夢のような光景の中で、星那が僕にそう問いかけた。

「いや、知らないな。赤いのとは違うの?」

 少しぶっきらぼうな声になってしまったのは、ついさっき衝動的にしてしまったキスの気恥ずかしさと、星那の唇の温度の余韻が、まだ僕に残っていたからだった。

 僕と星那の家の近くには「曼殊沙華公園」という、時期になると彼岸花が一面の絨毯のように咲き乱れる公園があり、全国的にも有名な観光スポットになっている。

 彼岸花の開花ピークである九月頃には多くの観光客で賑わうが、僕と星那は、小学六年生の頃に見つけた秘密の場所を知っていた。藪を抜け、浅瀬とはいえ川を渡る必要があり、飛び石を踏み外すと足元が濡れてしまうリスクもあった。でも、観光客たちの喧噪から離れ、家や学校の憂いからも離れ、誰もいない静かな時間を過ごせるその場所で、「来年もまた来よう」と僕たちは約束していた。そして今、その約束を果たし、僕たちは彼岸花の海の中、二人ぼっちで座っている。


 星那とは、僕が小学校に入学する前からの関係だ。五、六歳の時なんて、もう記憶に残っていることの方が少ないが、彼女との出会いは鮮明に覚えている。それが僕の母の葬儀の場だったということも大きい。

「柊くん、かわいそうにねぇ」

「まだこんなに小さいのに」

 一様に黒い服に身を包んだ大人たちから向けられる言葉も感情も、幼い僕を憐れむものだった。外の世界は桜が咲いて綺麗なのに、この式場の中だけは空気がしんと沈んで、光までもが輝くことを遠慮しているように思える、そんな暗さだった。

 母が肺ガンで亡くなった。その事実は幼いながらも認識しているつもりだった。日を追うごとにベッドで衰弱していく母の姿は、死や生というものの本質をまだ正確に理解していない子供にも、残酷なほどにその病状を突き付けてきたから。

 この人生の先、どこを取っても、お母さんはいない。そのぼんやりとした認識を、僕は苦い飴玉をいつまでも口で転がすように、頭の中で味わっていた。強く生きなければならない。そう思っていた。最後にお母さんにそう言われたのだから。でも、大人たちは僕に、「母を亡くしたかわいそうな子供」の姿を重ね、あるいは僕がそうあるように期待しているような気がした。「お母さんが亡くなったのに泣かないなんて、どこかおかしいんじゃないの」。そう囁く声も耳に入った。

 長い読経が終わると、僕は父に断り、式場の廊下に出た。春の空気はひんやりと冷たく、弔問客たちのがやがやとした声は扉に隔たれ、どこか違う世界に迷い込んだような心細さと、やっと一人になれたことの心地よさとの狭間で、僕は人が死ぬということについて考えていた。

「しゅうっていうの?」

 幼い声でそう訊かれたのはその時だった。

 見ると、黒いワンピースを着た女の子が立っている。僕と同じくらいの年だろうか。

「うん」と僕は頷く。

「私は、せな」

 せな、と発せられたその音が、その子の名前であると気付くのに、少しだけ時間がかかった。

「春から一緒に同じ小学校に行くんだって。お母さんがそう言ってた」

 この子には、「お母さん」がいるんだ。そのことに胸がちくりと痛む自分が、少し嫌だった。

「そうなんだ」

「うん。だから、よろしくね」

 その子はそう言って、僕に笑って見せた。その笑顔がなんだか眩しくて、自分の中の暗い所が影を強めるようで、僕は思わず目を逸らしてしまった。

 小学校が始まると、クラスが違うというのに、星那は頻繁に僕の所に来た。それは、あの葬式の日の大人たちが僕に向けていた感情と同じように、憐れみからの行動かもしれないと初めは思ったが、明るく屈託なく笑う彼女の近くにいると、陽光に照らされるように僕の心も自然と氷解して、温かくなるように感じた。

 お互いの家が近いこともあり、学校が終わった後に遊ぶことも多かった。というよりも、僕の人生において、星那といる時間と、そうでない時間に分けるなら、前者の方が多いのではないだろうか。そう感じるほど、星那は当たり前に僕のそばにいてくれた。

 「友達」と感じていた関係は、やがて自然と「家族」になり、そして「大切な異性」に変わっていった。星那は綺麗な子で、彼女が成長し、学年が上がるたびに、その魅力が引き立っていくようだった。それまでと変わらない関係性を続けながら、僕の中に熱い感情が生まれて積みあがっていくのは、避けようもないことだった。

 大切で、愛しくて、苦しいくらいに恋しい。けれど、誰よりも近しい友人のようでもある。手を伸ばせば届きそうで、でも触れたら壊れてしまいそうな関係性。そんなもどかしい想いを抱え続けたまま、僕たちは同じ中学校に進学し、そしてその年の九月のある日のこと――

 その頃、十一月に誕生日が来る僕はまだ十二歳で、四月生まれの星那は先に十三歳になっていた。生まれが半年ほど違うだけだというのに、星那はその差を誇らしく意識していたのか、小さい頃からお姉さんのように僕を構っていた。

 けれど、僕にとっては、唯一の肉親である父よりも多く時間を共にしている星那だ。凛と咲く花のような彼女が、ここ最近、どこか萎れているように見えるのは気付いていた。何かがあったのだろうとは思うけれど、踏み込んでいいのかは分からない。僕のように、踏み込まれることを望んでいない人もいると思うからだ。

 放課後にそそくさと下校し、どこかに向かった彼女の行方に、僕は心当たりがあった。彼岸花の咲き乱れる公園を歩き、藪を抜け、小川の飛び石を渡る。晩夏の風はまだ蒸し暑く、「約束の場所」を彩る赤い彼岸花をさらさらと揺らしている。

 一年前、小さな冒険の末に見つけたこの場所で、白い彼岸花を僕たちは見たのだ。一面の赤い絨毯の中で、その一本だけが鮮明に白く、淡い光を放っているかのように見えた。今年もその花は変わらずに咲いていて、やはりここに来ていた星那は、白い花を眺める形で草むらに座っていた。丸められた背中がいつもより小さく見えて、それがどこか寂しそうに見えて、僕は駆け付けて抱きしめてしまいたい衝動を何とか抑え、歩み寄った。

「元気ないね」

「……うん」と彼女は小さく答えた。

 六年前の母の葬儀の日、星那が声をかけてくれた。彼女がいてくれたから、僕は寂しさに追いつめられずに生きてこられた。君が僕にとっての救いであったように、僕が君にとっての救いであればいい。そう願いながら、僕は何も言わずに彼女の横に座った。

 暮れかけの太陽が茜色の光を放ち、僕らを包む赤い花の海を優しく輝かせている。穏やかな風が一つ、僕たちの髪を撫でた後、星那は話し出した。

 どうやら彼女のお母さんの様子が変で、心配しているらしい。蓮見家に遊びに行った時に彼女のお母さんと何度か会ったことがあるが、「星那の母親」と言われなくても分かるくらい、彼女に似て美しく優しい、理想のようなお母さんだったのを覚えている。

 星那が悲しんでいる。寂しがっている。そのことが僕の胸を満たし、掻き乱し、溢れさせる。元気付けたい。笑っていてほしい。幸せでいてほしい。

「きっと大丈夫だよ」なんて無責任な慰めを言ってはみたが、何の根拠もない。何も出来ない自分の無力さが苦しい、歯がゆい。

 気付くと僕は覗き込むように彼女に顔を寄せ、唇を重ねていた。星那はぴくりと身体を震わせたが、抵抗も拒絶もしなかった。

 どれくらいの時間だったのか分からない。数秒なのか、一秒なのか、もっと短かったのか。僕はすぐに顔を離し、自分の足元を見たから、星那の表情は見えない。

 星那は、怒るだろうか。僕を嫌いになるだろうか。衝動的なキスの反動は、すぐに不安となって押し寄せた。これまでの「家族」や「姉弟」に近い関係性を破ったことの後悔と、唇で感じた星那の体温の甘苦しい余韻で、眩暈がしそうだった。

「ねえ、柊」

 僕の名を呼ぶ星那の声は、優しい響きを含んでいた。

 そして彼女は、こう言った。

「白い彼岸花の花言葉って、知ってる?」


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