第七話① 疑惑、失われた真実、指先さえも届かない。


『リコリスは、なんでアイコンを白い彼岸花にしてるの?』

 ホリーが質問したのは、八月の半ばのことだった。お互いが同じ大学生の身分だって分かって、色ごとで違う彼岸花の意味について話した頃。

「なんとなく」莉世にはそう言ったのに、本当のことを伝えたくなって、

『一番、特別な花だから』

 私はそう言っていた。

『特別?』

『うん』

 一番特別で大切で、今も記憶から消せない花。どれだけ特別なのか、うまく表せないくらい。ちょうど柊のことを忘れなきゃって、思っていた時期だった。

『あのね。この前、自分と同じ名前の猫を見つけたよ』

 ここでの日常を共有したくて、そんな話までしてしまった。

『へえ、そんなことあるんだね』

 こうやって誰かに話を聞いてもらえるのが嬉しかった。たとえ他の人には取るに足らない初恋でも、私にとってはかけがえのない繋がりだったから。

 だから――

 九月の満月が輝く夜。私の頭に浮かんだのは、あのときの会話の続きだった。

『前に、同じ名前の猫の話をしたでしょう?』

 考える余裕もなく、指先から言葉がただ落ちていく。

『その子の名前は、セナっていうの』

 そして最後にもうひとつ、私は言葉をつけ足した。

『ホリーっていうアカウント名は、もしかしてひいらぎを表したもの? それがあなたの名前なの?』

 違うよw

 そんな言葉を期待して、私はじっと待ち続けた。すぐに既読はついたから、数分と待たずに返信がくるものだと思っていた。でも、とうとうその問いかけに「ホリー」が応えることはなかった。まるで突然回線を打ち切られてしまったように、言葉を交わせなくなったのだ。

(そんなのって、ずるいよ……)

 結局、その日は一睡もできないまま朝を迎えた。何の返信もないことが、予想以上に堪えていた。

『違うなら、違うってちゃんと言って』

 続けて送ったDMに、もう既読はつかなかった。何度も何度も見返しても。

『それとも、本当に柊だったの?』

 そんなわけないじゃん。そう、返されると思っていた。ホリーが柊じゃないのなら、すぐに返ってくるはずだ。その質問を彼は、もう目にしているのだから。私の行き過ぎた思い込みを、一笑に付して終わるだろう。そうなるはずだと思ってたのに。

(やっぱり、柊、だったのかな……)

 どこにも続かない沈黙が静かに肯定するようで、考えるとたまらなかった。否定しないということは、そうなのかもしれない、と。

(信じられない、そんなこと)

 でも、もしそうだとしたら返信がないのも呑みこめる。「柊」は、私が幼馴染みの「蓮見星那」だったと知って、突然話すのをやめたのだ。まったくあのときと同じだった。引っ越しをする直前まで、接触できなくなったときと。

(また、私に同じ思いをさせるつもりなの?)

 かなしみは深い失望に染まり、やりきれない怒りに転じていくようだった。そうだとしたら、あんまりだ。柊がそんなふうだから、六年の月日が流れても忘れられなかったのに。


「最近ホリーっていう人、浮上してないみたいだね。ツイッターやめちゃったのかな」

 莉世にそう聞かれたとき、心臓が鈍い音をたてて私の胸を締めつけた。

 あれから、「ホリー」は一枚も写真を投稿していなかった。今までほとんど毎日アップロードしていたのに。何の報せもないまま、忽然と姿を消したのだ。続けて送ったメッセージも、既読にならないままだった。

 上の空で返事をすると、莉世は顔をしかめてみせた。

「お姉ちゃん、なんか元気ないね。千絵さんが心配してるよ?」

 一緒の家で暮らしていると、気が塞いでいることも手に取るように悟られてしまう。

「雨で散歩に行けないから」

 冗談めかしてそう言うと、「嘘」と一刀両断された。

「絶対それだけじゃないでしょ」

 急な雨で散歩に行ってないのは事実だった。それ以前に、もう出歩く気にもなれなかった。あれから読書もはかどらない。本を読むことだけが、唯一の気晴らしだったのに。予想以上に私は、「ホリー」との会話に満たされていたのだ。今やそれすらも失って、落ち込んでいないふりをすることなんてできなかった。

「ツイッターで仲良くなった人がいてね、ずっと話してたんだけど」

 ごまかせるとも思えなくて、仕方なく私は切りだした。

「連絡がつかなくなっちゃって、それでちょっとへこんでるの」

 半分は本当の話なのに、言葉にすると、まるでささいなことみたいだった。真剣に思い悩む必要もない、些末なこと。

「そうなんだ」

 理由が分かると莉世も、そんなこと? という顔をした。

「私もそれ、しょっちゅうあるよ。そんなに沈まなくてもいいって」

 そうだね、とうなずいた。その通りなんだろう、けれど。

 「ホリー」は、きっと柊だった。「私」だって分かった瞬間、また拒絶されたのだ。それがかなしくて、さみしくて、やるせなくて――怒りをぶつけたい気持ちだった。嫌われても、蔑まれても、自分の感情を全部伝えて、それで終わりにしたかった。

(もう二度と、柊の前には現れないから)

 だから最後に一度だけ、私のわがままを聞いてほしい。私と会話したせいで、あんなにも綺麗な写真の投稿もやめてしまうなら――それが私のせいならば、理由を聞かないと気がすまない。そこにどんなわけがあっても、全部教えてほしかった。

(絶対、柊は私に何か隠してるはずなんだ)

 penitenceという言葉が、象徴しているようだった。罪に対する後悔、罪。

 柊は、私の知らないところで抱えてしまった罪悪感を、一生見せないつもりなのだ。会ったら、分かられてしまうから。それで避けているんじゃないかと。

(勝手すぎるよ……)

 考えると、また泣きたくなる。

(そのせいで私は一瞬も、柊を忘れられなかった。意味がないって知ってても、もう嫌われたんだとしても)

 「ホリー」と話をしているとき、今まで感じたことのない温かさに包まれた。いつまでも話していたかった。知っていたのだ、本当は。「ホリー」の語り口が、記憶のなかにいる柊と、よく似ていたこと。でも、だからって、どうして本人だなんて思うだろう。やっぱり、違うのかもしれない。でも、柊なのだとしたら、すべてのことに納得がいく。同い年で、東京の大学にいて、同じ誕生日で、『月が綺麗ですね』に対する答えもまったく一緒で――考えれば考えるほど、柊だったと思えてくる。

(私の前から二度も、いなくなったりしないでよ……)

 交わした言葉の数々がどれだけ私を癒していたか、思い知らされるようだった。

 会話が途絶えた数日後、私は未だ既読のつかないDMの画面を開いていた。

『何度もメッセージを送ってしまって、ごめんなさい。でも、これで最後にします。

彼岸の中日、秋分の日の夕方、もしあなたが柊なら、約束の場所に来てください。伝えたいことがあるんです。ずっと待っています。星那』

 そんなメッセージを送ったところで、「ホリー」は来てくれないだろう。それでも、あきらめきれなかった。我ながら、なんて執着してしまっているんだろう。

(これ以上、嫌われたくないのに)

 「ホリー」と「リコリス」のままだったら、いまも繋がっていられたのに。

 避けられているのは明白だった。いつも、ずっとそうだった。

(私ばかりが会いたくて、ずっと話をしていたくて……片時も離れたくなかったのに)

 叶わない想いを秘めながら、一縷の望みを胸に抱くのをやめられなかった。きっと、そんなことを莉世が知ったらあきれるだろう。誰にも言うつもりはなかった。どう思われてもよかった。私のなかで唯一、ゆずれないものがあるとすれば、柊への想いだけだったから。

 触れることもできなくて、冷たくて時にまぶしくて、いつも心の底にある――大切な宝物だった。最初で最後の恋だって、始まる前から分かっていた。

(今年、約束の場所に行ったら、それでもう終わりにしよう)

 私は、そう決めていた。

 それ以降は、あの場所を訪れるのもやめにしようと。


 九月十九日。母の命日の朝は、昨夜の雨が嘘のように澄んだ空が広がっていた。相変わらずメッセージに既読はつかないままだった。「ホリー」はSNSから完全に離れているのだろう。当日、指定した場所に行っても待ちぼうけることになるのは、すでに目に見えていた。それでも、行くつもりだった。たとえ気づいてもらえなくても。強情だな、と自分でも思う。私はどちらかというと、母に似ていると言われていた。性格だけではなく、「意志の強そうな目元が友菜にそっくり」だと。

 窓から茜色に染まる黄昏の空を見ていると、無性に外に出たくなった。表の空気を吸えば、鬱屈したやるせなさも少しは収まるかもしれない。そう思った直後には、もう靴をはいていた。

「散歩に行ってくる」

 いつものように告げると、「気をつけてね」と台所から千絵に声をかけられた。

(約束の場所はどうなってるかな……)

 ふと、頭に不安がよぎる。あれから何年も経っているから、場所も変わっているかもしれない。私は一度、「約束の場所」を見に行ってみようと思いたった。でも、そしたら晩御飯までに戻ってこられないかもしれない。うっすらとそう思い、罪悪感が一瞬だけ胸を満たす。けれど突き動かされるように、私は行くと決めていた。

 散歩コースを外れて約束の場所に向かう頃には、日も暮れかかる時間だった。いつも通りに見せかけたくて、スマートフォンだけポケットに入れて出てきてしまっていた。帰りが遅くなったら、きっと心配されるだろう。そう思うと、自然に歩く速度は増していた。

 ――と、そのとき。ついと小さな影がよぎって、思わず足をとめていた。見覚えのある輪郭。黒と白のハチワレ猫。

「セナ?」

 赤い首輪が首元についているから間違いない。

「ひとりなの? 信也くんは?」

 前に、「もう迷子にならないよう、セナが外に出るときはついていくようにしてるんだ」と言っていたのを思いだす。それなら近くにいるはずだ。セナは私を認めると、「にゃあ」と鳴いて行ってしまう。ついてきて、と暗に告げるような仕草だった。

「待ってよ」

 同じ名前ではあるけれど、セナは確か雄猫だ。いつもはのんびりしているのに、今日はやけに俊敏に速足で駆けていってしまう。塀や屋根を飛び越えていくセナを見失わないようにするので精一杯だった。

「どこまで行くの」

 セナが立ちどまったのは、五瀬川の上流にかかる御影橋みかげばしの近くだった。

――御影橋。

(ここは、確か)

予想以上に流れが速い。昨晩の集中豪雨のせいで橋梁はほとんど浸水し、床板が見えなくなっている。――と、橋の欄干にしがみつく人影を見て、息を呑んだ。

「信也くん!」

 名前を呼ばれてハッとした後、不安げな視線が交差する。

「お姉さん」と口が動く。その足元を容赦なく、泥水が横断し続けていた。橋桁は激しく損傷し、急流に削り取られるように斜めに傾きつつあった。いつ崩れても不思議じゃない。

「セナが橋の方に行って、僕もついて行ったら、もう戻れなくなっちゃって……」

 閑静な住宅街だから、誰にも気づかれないままずっとここにいたのだろう。

「待ってて。今、誰か呼んで――」

 くる、と言葉は続かなかった。

 ドコッ! と不穏な音がした。橋に亀裂が入る音。大きく傾いだ欄干から彼の姿が急流にすくわれそうになる直前――私は考える暇もなく、五瀬川に飛び込んだ。


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